やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

医師に欠けているもの

2011年09月20日 05時35分16秒 | 医学・医療総論
イレッサ訴訟において、臨床腫瘍学の研究者でありまた肺癌治療の第一人者でもある医師が被告側参考人として出廷し証言した。日本の薬事行政のみならず医療そのものへの不信をも増すこととなったこの事件の当事者の一人として、当該薬剤の有効性/安全性を製薬企業の意向からいかに独立して客観的かつ適切に評価したのかを説明することが求められたのだと思う。ところが、洩れ伝わるところによれば、その立場をわきまえていないかのような失言もあり、結果として原告側の弁護士にやり込められてしまったようだ。もちろん、自分なら見事にやりおおせてみせると自惚れているわけではない。それどころか、おそらくその独特な雰囲気に口ごもり、意図するところの十分の一も伝えられず、あるいは取り乱し支離滅裂な発言しかできずに惨めな結果に終わるに違いない。このようなクライシスマネジメントの特殊な状況はさておくとしても、説得力のある議論を展開できる者がいったいどれほどいるだろうか。ここには医師一般に共通する弱点が露呈しているように思われるのだ。

自分の専門とする領域なら問題点を的確に把握し、合理的に判断することができると考えている医師がほとんどだろう。しかしながら、それは日常臨床をそつなくこなしていることと取り違えた希望的観測ではないだろうか。たとえそこにロジックが欠けているとしても、患者やその家族が相手なら、専門知識で糊塗することもできよう。関係が良好であれば、単なる思いつきの感想であったとしても相手は納得するかもしれない。しかし、今や大学病院をはじめとする高度専門病院で訴訟ないしそれに準ずる案件を抱えぬところはないとも言われ、表面化しないトラブルにいたっては日常的に無数に発生しているに違いない。経済が停滞する中でも増え続ける医療費の負担を背景に、提供される医療の質を問う世間の眼はいやがうえにも厳しさを増し、好むと好まざるとに関わらず、取り組むべき課題はより多様で複雑化しているのだ。診察室にこもり臨床に専念していれば済むという時代ではなくなりつつあり、会議の場で貢献することも要請される。まったく馴染みがないわけでなく、さりとて必ずしも深く理解しているともいえない分野の任務をも引き受け、議論をリードすべき場面も増えてくるだろう。そこで存在感を示すためには広い視野を備え、論理的に思考し、対等な立場で議論をたたかわせる力が不可欠なのだ。

ところが、科学者としての面と同時に、職人的な技能をも求められる医師はその深い専門性で評価されてきた分、外の世界に目を向けることが少なかった。患者の病態を追究し、何らかの決定を下す、そのプロセスのすべてがしばしば一個人のなかで完結し、その責もほとんど一人で負うている。臨床の現場では生命科学理論がしばしば再現性に乏しいとなれば、いきおい経験に頼る比重が高くならざるをえないが、しばしばさじ加減という言葉でたとえるしかないように、経験から導き出された判断を理屈で語ろうとすることほど難しいものはない。そして医療者集団のなかで特権的な地位にあれば、周囲を沈黙させずにはおかないのだ。とするなら、論を整え理に訴える必要性など感じなかったとしても無理はない。そもそも論理とは他に手段をもたない弱者が強者に対して繰り出すことのできる唯一の武器だった。かくしていつの間にか議論とは無縁の、独りよがりの言葉を弄ぶだけの人種ができあがってしまったのである。

そしてこのことが医療現場に与えている影響は思いのほか大きいのではないだろうか。医師の力を過大評価するつもりはないけれども、地道な議論を積み重ねることを忌避し、納得と合意のプロセスを重んじることがなければ、チームがもつ力を集約し最大限に発揮させることを妨げるばかりか、混乱と対立をもたらすことになる。第一に守られるべき患者の利益などどこかに忘れてしまったかのごとく、院内あるいは地域内でも目先の損得に振り回され、過去のしがらみをいつまでも引きずって陰湿な争いを続けているという話は日本中いたるところで耳にするのだ。医療提供体制がかつてない危機に瀕している今、スタッフの叡智を集め地域が手を携えてやっていくには、まず医師から変わらなければならないと思う。こういうと大変な覚悟が必要であるかのように聞こえるかもしれないが、ビジネスの世界では論理思考などごく基本的スキルにすぎない。そして議論を通じてWin-Winの関係を築き、戦略的な見地からヒト・モノ・カネを動かし、価値を最大化させているそのありようには、おおいに学ぶべき点がありそうだ。これをそのまま導入せよとは言わないけれども、今日の医療界が抱える問題を克服するのに情報公開に基づく競争が避けられないとすれば(マイケル・E.ポーターら、医療戦略の本質-価値を向上させる競争. 日経BP社. 2009年)、その行方を左右するのは、ごく限られた範囲の知識しか持たないことを認定されて満足しきっている従来型の専門医ではないと思われてくるのである。

とはいえ、個々の努力ですべてが解決されるなどと楽観的になれるはずもない。労苦に比例しない診療報酬体系と半ば恣意的に下される行政指導、前近代的な人事権を振りかざす医局制度等々、大きな力の前には泡沫に等しいと何度感じたことだろう。開きかけた口をつぐみ、流れに身を任せたほうがこの世界でははるかに評価され、結果、見栄えのよい肩書きを手に入れることができれば世間的にも歓迎されるのだ。議論を尽くし、医療現場の声をも施策に反映するという建前の下に設置されているはずの社会保障審議会とその下部会議体にしても、発言の機会を与えられるのは選ばれた者だけで、それとても実のところすべてを思いのままに操っているのは厚生官僚である(新井裕允、行列のできる審議会-中医協の真実. ロハスメディア. 2010年)。これが経済大国にふさわしい医療なのかといぶかしんでいるうちに、規制と既得権益に縛られた日本はいつの間にか名誉ある地位を占めるどころか先進医療の分野でもアジア各国の後塵を拝しつつあるのが現状だ。一人ひとりの力は小さくとも、閉塞状況を作り出してしまったのは医師自身でもあることを反省し、議論を始めるところからしか立ち直る術はないように思われるのである。 (2011.9.20)