やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

薬剤性肺障害と文化

2009年12月14日 05時35分10秒 | 医学・医療総論
先日、薬価の引き下げに関する報道があった。国の薬剤費約7兆8000億円のうち5000億円ほどが削減される見込みとのことだ。国民医療費が30兆円を超えている中で意外に少ないと思うか、あるいは製薬企業は儲けすぎだとか感じるか、ひとそれぞれだろう。いずれにしても医療の現場で薬の値段を意識させられることが多くなったのは確かである。特に分子標的薬については今年の癌治療学会でも議論されていたように、たとえばイレッサ(250mg)1錠の薬価は6500円、アバスチン(400mg)1バイアルは19万円もするという。そのためいくら高額療養費制度があるとはいっても、癌の治療方針を決定する際には患者の経済状況を無視するわけにはいかない。治療を受ける者にしてみれば、そのように高価な薬を使うからには当然、それに見合う効果(治癒)を期待するはずだ。ところが実際にはほとんどの例で数か月の延命が得られる程度に過ぎない。一方で無理をして抗癌化学療法を選択したにも関わらず、良くなるどころかかえって薬剤性肺障害で苦しむ結果になったとすれば、患者医師双方とも後々まで悔やむことになり、場合によってはもめ事の種にもなりかねない。しかもこの薬剤性肺障害は日本人に多いと言われ(Oncologist 2003; 8: 303-306、日内会誌2006; 95: 1058-1062)、臨床医にとって頭の痛い話である。

近頃は個別化(オーダーメイド)医療が現実のものとなり、EGFR遺伝子変異やUGT1A1遺伝子多型の確認が日常診療で行われつつあることもあって、人種差や民族差も当然視される傾向にある。けれども、薬剤性肺障害に関して言えば、十分なエビデンスに基づいているわけではないようだ。確かに複数の薬剤において発現率だけを比べれば、日本は欧米に比べて高くみえる。だが、その根拠となっている数字は各種の市販後調査や臨床試験によるものだ。つまり、その質において種々雑多といっていい多様なものに由来し、かつ、それぞれのデザインはともにprospectiveであるにしても、一つの試験の中で直接比較したものではない。しかも日本の成績は往々にして市販直後調査・全例調査などという、欧米にない日本独自のものである。それは専門性や経験の点で大きなばらつきのある医師により様々な背景を持つ患者に使用される実態を反映したものだ。そのため、その解釈には慎重な態度が要求され、時には報告されている有害事象をそのまま信用できないことさえある。たとえばゲフィチニブプロスペクティブ調査(特別調査)結果報告によれば主治医により急性肺障害・間質性肺炎と診断された140例中22例が専門家による判定委員会では否定されているのである(医薬ジャーナル 2005; 41: 140-157)。対照的に、臨床試験の代表として治験を考えてみると、患者のエントリー基準は厳格で合併症を有するものや状態が不良な症例は除外されていることが多く、検査や治療内容もプロトコールで細かく決められている。さらに発現した有害事象はモニターによるカルテなどの直接閲覧で細かくチェックされる(日呼吸会誌 2006; 44: 541-549、2007; 45: 449-454、2007; 45: 829-835)。そもそも治験参加医師は一般に十分な検査や他科へのコンサルトが可能な総合病院の専門医で、それなりに質が確保されているのである。

そればかりではなく、むしろこちらのほうが問題かもしれないが、薬剤性肺障害の診断過程そのものが欧米と異なっているように思う。臨床、画像、病理所見を総合して判断するという基本的考え方の点では彼我に違いはない(日本呼吸器学会編;薬剤性肺障害の評価、治療についてのガイドライン、2006年)。これは裏をかえせば、多かれ少なかれ侵襲的手技を伴う病理所見が診断に重要ではあるものの、一方、それのみで診断が確定できる決定的なものでもないことを示している。しかも薬剤性肺障害の場合、軽症であれば侵襲的検査を行う必要性に乏しく、逆に呼吸不全などを合併した重症例では行い難い。そのため、この間で揺れ動く臨床医の決断の過程には、医学的必要性に加え種々の要素が関与せざるを得ず、ここに差異が生じる可能性がある。日本においては侵襲的検査が避けられる傾向として現れ、しばしば病理検査が欠けている代わりに、KL-6などの血清マーカーや画像が重視される。この点で際立っているのがDLST(薬剤リンパ球刺激試験)だろう。日本では四半世紀以上も前に、ある一人の著者により“参考”として作成された診断基準案の中に記載されて以来(内科MOOK No.22 間質性肺疾患その周辺、金原出版、1983年)、いまだに重要な所見としてしばしば参照されているのだが、海外では臨床的意義が明らかでないとしてほとんど用いられていないのである(Toxicology 2001; 158: 1-10)。さらに、欧米では保険制度上の制約や日本ほどCT装置が普及していないなどのため、画像検査が行われる頻度も少ないと言われている。そもそも胸部異常陰影を指摘されなければ精査されずに済まされる例が多くなるだろう。さらに特に米国ではいったん疑われれば外科的肺生検が行われる傾向にあり、そのうちのかなりの割合で感染症など他の疾患が判明していることから、薬剤性肺障害と診断される割合はますます少なくなることが予想されるのである。

この診断過程への影響は医療を提供する側にのみ見られるわけではない。患者の側についても、たとえば自己責任がしばしば語られる米国とは対照的に日本では医療機関・医師に依存する傾向が強いのはよく知られており、フリーアクセスが保障されていることも相まって、受診回数の多さは際立っている(熊本県保険医協会ホームページ)。しかも薬の副作用を非常にデリケートに捉えるのが近頃の日本の潮流だ。このことも結果として、日本における薬剤性肺障害の報告件数を相対的に押し上げる可能性が十分に考えられるのではないだろうか。ここには広い意味での文化の違いとでも呼ぶしかない問題が影を落としているように思える。そして、そのさらに奥深いところには民族ごとの疾病に対する態度の違いがひそんでいるのではないかと想像を掻き立てられるのだ(波平恵美子;医療人類学入門、朝日選書、1994年)。これが狩猟社会と農耕社会のあり方に由来するのか否かはともかく(久間圭子;医療の比較文化論、世界思想社、2003年)、各国で医療制度が大きく異なる要因ともなっているに違いない。

以上、薬剤性肺障害の発現率の違いを直ちに人種・民族の生物学的な違いに由来すると考えることはできず、少なくとも一部は見かけ上の差であって、外的要因の関与も無視し得ないことを指摘した。考えてみれば当たり前の結論だが、案外忘却されているのではないだろうか。また、生物学的な違いではあっても、遺伝子を持ち出すまでもなく説明できる事象もある。たとえば、同量の薬剤を使用された場合、欧米人に比べ体格の小さい日本人では相対的に過量投与になる可能性や、高度肥満の多い欧米では腹部手術の治療成績が不良となりがちなこともありえる話である。交絡因子に関しては十分に用心してかかる必要があることを改めて銘記したい。 (2009.12.14)