見もの・読みもの日記

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主体と責任の所在/日本語とジャーナリズム(武田徹)

2016-12-25 21:24:59 | 読んだもの(書籍)
〇武田徹『日本語とジャーナリズム』(犀の教室) 晶文社 2016.11

 「主語がない」「具体的な人間関係に絡めとられなければ発話すらできない」「日本語には命題がありえない」等々、西欧言語に知悉した知識人から、しばしば酷評される日本語という言語。日本語による批評やジャーナリズムは可能なのか――。この問題提起は、なんだか懐かしかった。70年代から80年代にかけては、こういう日本語論がたくさん身近にあったような気がする。本書は、はじめに、著者がこのような問題を自覚した経緯が語られる。著者は、詩に関心を持ち、ICU(国際基督教大学)で言語哲学を専攻し、修論を書き上げたあと、ジャーナリズムの仕事を選択した。アカデミアの人だった恩師には「武田は軽評論家になった」と突き放されるが、その実、恩師・荒木亨氏の日本語に対する問題意識を継いでいることを述べる。

 冒頭に紹介されている森有正の日本語論を、私は高校の国語の時間に読んだ記憶がある。日本語と日本文化に対してあまりにも否定的なので、少なからぬ反発を感じたのだが、本書を通じて久しぶりに触れてみて、普遍的な精神を希求した森有正の葛藤が、少し理解できたように思った。本多勝一の『日本語の作文技術』(1976年)も高校時代に読んだ。日本語は非論理的である、という類の俗説に対して、誤読されない(日本語の論理に即した)文章の書き方を実践してみせる。大好きな本だった。著者によれば、今でもジャーナリズム教育において、これほど役に立つ日本語表現の教科書はないのだそうだ。

 少し言語哲学に立ち入って、荻生徂徠や丸山真男の日本語観を読む。丸山は、近代化とは「である」社会から「する」社会への転換であると述べている。著者は、近代ジャーナリズムとは「する」論理を「する」言語で伝えようとしたものと考える。ところが、日本語はこれに適さない。「する」言語とは何か、詳細は本書に譲るが、「日本語は対象に動きをもたらすことなく動詞が使える」という指摘を面白いと思った。英語を習い始めた頃、自動詞と他動詞の区別がなかなか分からなかったのは、このせいだと思う。あと、たとえば「謝罪する apologize」は、罪を認めて何かを「する」行為動詞であって、ただの心理状態を表すものではない、という指摘も。日本語と西欧言語の比較というと、主語の有無に注目しがちだが、動詞のもつ機能の差異に、もっと注意が払われなければならないと思った。

 以上を踏まえてジャーナリズム論に入り、玉木明のジャーナリズム論を紹介する。戦後日本のジャーナリズムでは、報道は中立公正・客観を旨とし、記者個人の判断をはさんではならないとされた。その結果、記者の判断を必要とするときは、「わたしは思う」を「われわれ」に引き上げ、「われわれ」を消して「~と見られる」「~と思われる」が多用されるようになった。この文体を玉木は「無署名性言語」と呼ぶ。そして、こうした操作の中に、捏造や冤罪を生み出す罠があることを指摘する。日本語のジャーナリズムに必要な改革とは、無署名性言語の呪縛から脱却し、言語に対して主体性を回復することではないか。これは大いに同感である。

 次いで大宅壮一と清水幾太郎について。大宅は、商業主義に支配されたジャーナリズムは、より多くの顧客を求めて「中立公平」に収斂すると説いた。でもこれは、想定される読者の最大多数に歓迎される「中立」でしかなく、読者の外側に広がる世界が捨象されていると思う。清水の『論文の書き方』もかつて読んだことがあり、融通無碍な「が」の多用を論じた箇所はよく覚えているが、のちに清水が「主張することを主張」したためにジャーナリズムの世界から疎まれたことを思い合わせると感慨深い。

 最後に片岡義男の日本語論。片岡義男といえば、アメリカンな軽い恋愛小説のイメージしかなかったので、ちょっと驚いたが、最も引き込まれた章だった。ハワイ生まれの日系二世の父と日本人の母のもとで育った片岡は、二つの言語の違いを深く鋭く認識している。アメリカのテレビに出演した日本人政治家の英語について、彼は英語の正用法を理解していない、とする片岡の批判は非常に読みごたえがある。英語で何かを話すというのは、主語(主体)と動詞(アクション)を選び、責任を表明することだ(おおまかな要約)。ところが、その日本人政治家は、話半ばで主語を忘れて、日本語で「それはともかく」というつもりで「エニウェイ」を連発していたという。あるある。

 英語によって担われる報道は、客観的な事実を目指し、公共的な世界を描き出そうとする。それは「言語の自然な本性」なのだと著者はいう。しかし日本語にはその本性がない。それなら、せめてその困難を自覚し、よりよい日本語の使い方を磨き上げていくこと、同時にジャーナリズムに流れる日本語を厳しく監視することは、私たちひとりひとりの責任だと思った。

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