見もの・読みもの日記

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淫蕩なヴィーナス/ナナ(エミール・ゾラ)

2009-05-23 23:58:33 | 読んだもの(書籍)
○エミール・ゾラ著、川口篤・古賀照一訳『ナナ』(新潮文庫) 新潮社 2006.12(1956-59年刊の合冊新装版か)

 お手軽な新書ばかり読んでいると、少し「腹持ちのいい」小説が読みたくなるものだ。原著は1879年刊。第二帝政期(1852~1870)のパリ。ヴァリエテ座の『金髪のヴィーナス』の舞台で、全裸と見紛う肉襦袢姿を披露した新人女優のナナは、たちまち圧倒的な人気を博す。多くの男たちが彼女の肉体に跪拝し、財産を投げ出し、破滅していく。初めは、ただ自分の肉体の魅力を誇り、情にほだされやすい温柔な心の持ち主だったナナ(情夫の暴力にも耐えていた)は、次第にサディスティックで淫蕩な喜びに目覚めていく。

 いや、すごいな。本当の「小説」とはこんなにも凄いものか、と久しぶりに思った。並みの「事実」(ノンフィクション)など及びもつかない。本場の「自然主義」って、こんなにも悪魔的魅力を備えた文学だったのか、とあらためて知った。ヘンな話、日本文学で『ナナ』の直系といえるのは、たぶん永井荷風と谷崎潤一郎なんじゃないだろうか。

 物語の冒頭、多数の登場人物が(彼らの紹介を兼ねて?)ナナの家に会して、乱痴気騒ぎを繰り広げる。ここは、なかなか物語が進行しないので、私はちょっと飽きたが、まあ、グランド・オペラの第1幕みたいなものだろうと思って、辛抱して読み続けた。喧騒と倦怠の一夜が開け、ナナとその仲間たちが、古い僧院の跡を見に行こうと馬車に乗って出かけてゆき、小さな木橋で、堅気の人々とすれ違う場面は印象鮮烈である。そして、行き着いた先で、若い頃は恋と乱行に明け暮れながら、男たちから搾り取った金で広大な館の主人となり、静かな余生を送る老婦人イルマの姿に、ナナは何か霊感に似た衝撃を受ける。このへんから、物語に陰影が加わり、俄然、面白くなる。

 ナナに翻弄される男たちの中でも、最も悲惨で、それゆえ、一種マゾヒスティックな幸福さえ感じさせるのは、ミュファ伯爵。裸で四つん這いになって熊の真似をさせられるところは、『痴人の愛』の先行例だ、と思った。初心な若者ジョルジュは、ナナに母親のような愛情を注がれるが、一人前の男と認めてもらえず、絶望から自殺してしまう。ナナに愛情を抱きつつも、理性を保ち、別の女性と結婚して破滅をまぬがれる、昔馴染みの情夫ダグネ。男たちとナナの間に見え隠れする、街娼から伯爵夫人まで、ナナを慕い、羨み、敵対する女たち。人々の交錯を取り巻いて、無比の大都会「パリ」の姿が鮮鋭に立ち上がってくる。永井荷風が、熱病のようにフランスに憧れた気持ちがよく分かる。

 1870年、フランスがプロイセンに宣戦布告したその日に、ナナは天然痘で息を引き取った。男たちは伝染を恐れて、誰ひとり病床に近づかない。ナナの最期を看取ったのは、ただ女たちだけだった。耳に残る群衆の「ベルリンへ!」の声は、オペラの演出のようだ。冷酷な結末は『椿姫』の終幕を思い出させる。

 こうして、ナナの肉体は、懲罰のように醜く変貌し、ひからびていく。けれども、その輝かしい裸身の幻影は、なお読者を惑わせ続けるように思う。

■登場人物総覧 - 第9巻『ナナ』(朝倉秀吾によるエミール・ゾラとフランス文学のサイト)
http://www.syugo.com/3rd/germinal/lecture/rougon-macquart/volume09/people.html
読んでる途中、これ(人物総覧)が欲しかった!(外国人名は苦手なので)
コメント
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