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 バッハ会長に「キャンセル オリンピック!」広島の平和記念公園を訪問 響く抗議の声
‡2021(令和三)年07月16日(金) 13:32配信 デイリースポーツ
 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は、国連による五輪休戦決議がスタートした16日、被爆地広島の平和記念公園を訪問した。米国のオバマ元大統領や、ローマ法王の来訪時同様、同公園への立ち入りは一時制限される中、原爆慰霊碑に献花し、1分間黙とう。原爆資料館の視察や被爆者とも対面する。同日、ジョン・コーツ副会長も被爆地長崎を訪問した。園内には多くの警察官が目を光らせる厳戒態勢。到着直前には雨が降り始めた。到着すると「ゲットアウト、バッハ」、「キャンセル オリンピック」、「バッハは広島を利用するな」などの抗議デモのシュプレヒコールも響いた。バッハ会長は
 2021(令和三)年07月8日(木)に来日。3日間の隔離を終えて、現在は11日間の行動規制期間に入っており、用務先を指定した形での活動が認められている。ただ、新型コロナウイルスの感染拡大が続く緊急事態宣言下の東京から広島への移動などに批判的な声も上がっていたが、東京五輪・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長は「五輪の根本原則は平和。被爆国である日本が、広島と長崎から平和のメッセージを発信してほしいという依頼を地元からいただいている。国内外に平和を訴えていただきたい」と、意義を強調している。スポーツを通じた平和の発信が目的だが、将来的なノーベル平和賞への意欲のあらわれとも見られている。五輪休戦期間は五輪開幕1週間前の
‡2021(令和三)年07月16日(金)からパラリンピック閉幕1週間後の
 2021(令和三)年9月12日(日)までの59日間。19年12月の国連総会で186カ国の共同提案による決議で採択された。
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 https://news.yahoo.co.jp/articles/b615f99d6007707db91e3302b9610c497eedff37

 広島県内各地で激しい雷雨 昨夜 JR在来線 広範囲で一時、運転見合わせ
‡2021(令和三)年07月16日(金) 12:15配信 RCC中国放送 RCC BROADCASTING CO.,LTD.
 2021(令和三)年07月15日(木)は、広島県内各地で激しい雷雨となり、道路の冠水や浸水が相次ぎました。また、帰宅時間帯にJRの在来線が広い範囲で運転を見合わせました。国が設置している雨量計で15日午後5時50分までの1時間に72ミリの非常に激しい雨を観測した福山市。JR福山駅周辺では道路が冠水したほか、市内では一部の住宅や店舗に水が入り込むなど影響がありました。また、県の西部でも夕方の帰宅時間帯に激しい雷雨となりました。
「広島駅を発着するすべての線路で列車の運転を取りやめています。」(JR)線路の安全確認などでJRの在来線は山陽線や呉線など県内の広い範囲で一時、運転を見合わせました。
 ― どれくらい待っている?
「そろそろ2時間半ぐらい待っている。」(利用者)
「JRの在来線が止まっているため、広島駅のバス乗り場では、長蛇の列ができています。」(山崎有貴記者)
「疲れた、しかないですね。お風呂に入って、早く寝たいですね。」(利用者)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/425d86812b0b92b87069077cfea5214074b31726

 1991(平成三)年01月04日(金)『聖教新聞』紙上で宗門批判キャンペーン開始
‡2008(平成20)年07月16日(水) 学会機関紙に見る情報操作/『慧妙』
 ●核URL●http://sudati.iinaa.net/hamon.html

 米国は第3の原爆投下を計画していた
 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
 2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
 写真◆テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)
 1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。
 写真◆1945年夏、太平洋戦域の地図上で、日本に焦点を定めるレスリー・R・グローブス少将。(AGE FOTOSTOCK)
 米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。(参考記事:「第二次大戦の空襲のエネルギー、宇宙に達していた」)
■目標都市の選定■米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。
 1945(昭和20)年04月28日(土)◆写真◆1945年4月28日付の文書。最初の原爆投下の目標候補に挙げられた日本の都市と、選定基準の概要が書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON D.C.)
 同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。
 写真◆日本本土への攻撃 1945年3月に始まった大規模な対日空襲は、カーティス・ルメイ米陸軍少将が指揮した。1945年8月の終戦までに、東京を含む60カ所以上が空襲を受けた。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF; SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
 1945(昭和20)年07月、ポツダム会談に出席していたトルーマン大統領とスティムソン陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。(参考記事:「人類初の原爆実験、「核の時代」こうして始まった」)
‡1945(昭和20)年07月16日(月)◆写真◆1945年7月16日、米国ニューメキシコ州の砂漠にあるトリニティ実験場で人類初の核実験が行われた。(GRANGER)
 写真◆トリニティ実験の後、マンハッタン計画を率いたレスリー・グローブスとロバート・オッペンハイマーは、その成功に満足すると同時に、畏怖の念に包まれたと、後に回顧している。(THE GRANGER COLLECTION, NEW YORK)
 写真◆マンハッタン計画 原子爆弾は、米国各地に広く分散して開発・製造された。広島に落とされた「リトルボーイ」の高濃縮ウランはテネシー州オークリッジの「Site X」で、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムは、ワシントン州ハンフォードの「Site W」で製造された。最も精密性を要する作業は、トリニティ実験場に近いニューメキシコ州ロスアラモスの研究所「Site Y」で行われた。(CHRISTINA SHINTANI, NGM STAFF; SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
 京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
 最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/
 1945(昭和20)年08月03日(金)「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
■1回目の投下■日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ
 1945(昭和20)年07月29日(日)、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
 8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」)
 写真◆広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)
 写真◆広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)
■第2の攻撃■ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
 1945(昭和20)年08月06日(月)時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は
 1945(昭和20)年08月08日(水)、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
  ⇒ 次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=2
 日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。
 1945(昭和20)年08月08日(水)に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた
 1945(昭和20)年08月10日(金)の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。
 1945(昭和20)年08月09日(木)午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。(参考記事:「「ナガサキ」本を米国で出版、著者に聞いた」)日本の大本営は
 1945(昭和20)年08月09日(木)、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。
 写真◆広島、長崎への原爆投下 原子爆弾は、テニアン島を発ったB-29爆撃機「エノラゲイ」「ボックスカー」によって広島、長崎に投下された。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF、SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
■待機、そして次の投下への準備■米国の首都は騒然としていた。
 1945(昭和20)年08月10日(金)、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
 1945(昭和20)年08月12日(日)か13日(月)にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
 写真◆ジョージ・マーシャルからグローブスへの文書。大統領の許可なしに第3の原爆を投下してはならないと書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON, D.C.)
 写真◆デーモン・コア(悪魔の核)1945年8月にロスアラモスで作られた最後の核は、日本まで運ばれることはなかった。当初は「ルーファス」、「ダーティ・ゲーティ」などと名付けられていたが、ロスアラモスで別の実験に使用され、後に「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY STOCK PHOTO)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=3
■第3の原爆、標的は東京だったか■ 日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力をかけるほうが重要であると考える」
 1946年3月◆写真◆1946年3月、広島はまだ廃墟のままだった。原爆による正確な死者数を把握することは不可能だが、爆発による直接の死者と、その影響によって後で亡くなった人々を合わせると10万人に達するとみられている。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/UIG/ALBUM)同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。
 1945(昭和20)年08月13日(月)、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された。マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。
 1945(昭和20)年08月14日(火)、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。(参考記事:「戦中戦後の日本を米国人記者はこう見ていた」)
 1945(昭和20)年08月15日(水)◆写真◆1945年8月15日、ラジオで日本の降伏と終戦を告げる玉音放送を聞く人々。(THE ASAHI SHIMBUN/GETTY IMAGES)
■終戦■だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で
 1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。(参考記事:「核の亡霊――世界の核実験の4分の1が行われた土地は今 写真24点」)
 1945(昭和20)年09月02日(日)◆写真◆日本の降伏後、連合国は天皇を戦犯として裁判にかけることを検討していたが、ダグラス・マッカーサー元帥はこれから日本を占領するにあたって天皇が存在していたほうが日本人には受け入れられやすいと訴え、その意見が聞き入れられた。1945年9月2日、日本と連合国軍の代表は戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書に署名した。こうして天皇制は象徴として維持され、日本の統治権はマッカーサーの手にゆだねられた。写真は
 1945(昭和20)年09月27日(木)に撮影されたもの。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/ALBUM)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=4

【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈9〉ブロディ刺殺事件に遭遇したプエルトリコ】  
 2018(平成30)年04月17日(火) 11時50分スポーツ報知 # 格闘技# 武藤敬司連載
 写真◆蝶野、武藤、橋本(左から)の闘魂三銃士
 デビューから4年目で右膝を手術した武藤敬司。術後の1988年2月に2度目の海外遠征に向かった。
「桜田(一男)さんからプエルトリコで人が欲しがっているらしいって連絡をもらってね。米国に戻りたい意識があったから、坂口(征二)さんに許可をもらって行ったんですよ」当時の新日本は、前年11月に前田日明が6人タッグで長州力の顔面を蹴り出場停止処分となっていたが、選手数は豊富だったため、すんなりOKが出たという。2月にプエルトリコに入ったが当初は試合が組まれなかった。
「それが、最初の海外遠征の時と同じで試合はなくても会場には行っていて、ある時、欠員が出て、“出てくれ”って言われてね。それで初めてプエルトリコで試合をしたんですよ」半月板の手術からわずか1か月でリングに復帰した。プロレス人生で「後悔」という言葉をほとんど使わない武藤。しかし、この時の判断は今でも複雑な思いがよぎるという。
「プエルトリコはカリブ海に浮かぶ南国のいい場所なんだよ。あんな温暖なところで3か月ぐらいゆっくり休んでいれば、膝も治っていたかもしれねぇなって思うことはある。ただ、当時は25歳。若いから順応できたんだよね。その試合から向こうの会社の幹部に見そめられてずっと試合をすることになった。だけど、そこから膝も治らなくなった。あのプエルトリコで試合を断れば良かったかなぁって唯一、思うことはある」プエルトリコでもムーンサルトプレスを舞いトップを張ったが7月に事件は起きた。日米でトップを極めていたブルーザ・ブロディが
‡1988(昭和63)年07月16日(土)に試合会場の控室でレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに刺されたのだ。ブロディは翌
 1988(昭和63)年07月17日(日)に亡くなった。42歳だった。
「あの時は、野球場で5日間連続のビッグショーの初日だった。ブロディが刺された時はオレも会場にいたんだ。会場に行ったら、ブロディが刺されたって聞いて、刺したのはブッカーのゴンザレスだって言われて、それで米国人のレスラーが観客も入っていたんだけど試合をやらないって言って、みんな米国に帰ってしまったんだよ。それでプエルトリコで試合をすることができなくなった」7月は、今後のプロレス人生に大きく関わる動きもあった。同期入門の蝶野正洋、橋本真也とプエルトリコで合流。「闘魂三銃士」を結成したのだ。藤波辰巳、長州力に変わる新世代としてアントニオ猪木が命名し売り出したユニット。以後、「三銃士」は新日本マットで一時代を築くことになる。ブロディ刺殺事件直後の7月29日、3人は有明コロシアムでワンマッチのみ帰国。三銃士となって初の試合は、当時のIWGPヘビー級王者の藤波、木村健吾、越中詩郎と6人タッグで対戦した。試合は、3人がそれぞれの個性を爆発させ、強烈なインパクトを残した。
「あの時は本当は帰りたくなかった。新日本の中で空白を産みたい部分もあった。見せるより変わる自分っていうのがあるからね」3人は「闘魂三銃士」とひとくくりにされたが、当時の勢いから言えば圧倒的に武藤が突出して別格だった。蝶野、橋本からのジェラシーはあったのだろうか。
「橋本はもしかしたら感じていたかもしれないけど、オレとはタイプが違うから、逆に認めてくれていたと思う。そういう意味では、(佐々木)健介とかがオレたちにもっともライバル心を持っていたよね」今、闘魂三銃士とはどんな存在だったのか。
「本当に運命共同体だったよね。プロレスって誰か一人がずっと突っ走っているってことはできないんだよ。オレが走っている時は、橋本なり蝶野なりが下を支えて、逆にオレが低迷している時は、橋本が引っ張り、また蝶野が引っ張ったりしていた。そういう絶妙なバランスが3人にはあったよ。そういう意味では、オレにとって2人の存在はデカいものだった。ただ、全員が組んで試合したことはあまりない。勝率も悪いんだよ。いつも負けていた(笑い)」
 https://hochi.news/articles/20180412-OHT1T50056.html

 たった一日で新日本に大きなインパクトを残した闘魂三銃士。再び海外へ戻った武藤は新たなリングへ動く。(敬称略)
 https://hochi.news/articles/20180412-OHT1T50056.html

 BRULEE(ブリュレ)
 2017(平成29)年04月17日(月) 発売日
 本物の焼き目にこだわったブリュレアイスです。アイスの表面をオハヨー乳業独自の製法(特許出願中)で加熱し、ブリュレの特長であるパリパリとした食感、香ばしくほろ苦い焼き目を再現しました。香ばしい焼き目の下には、厳選した乳原料を贅沢に使用した濃厚なミルクアイス。ほろ苦い焼き目がアイスのおいしさを引き立て、最後まで飽きずにお召し上がりいただけます。こんがりとキャラメリゼした焼き目は、これまでのアイスにはない、パリパリとした食感。20種以上の砂糖から選び抜き、独自のブレンドをして実現しました。
 https://www.ohayo-milk.co.jp/ice/15010.html
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 絶好調で休止のアイス「BRULEE(ブリュレ)」、1年4カ月ぶり全国で販売再開/オハヨー乳業
 2018(平成30)年07月21日(土)
‡2018(平成30)年07月16日(月)付より 食品産業新聞
 オハヨー乳業は、売れ行き絶好調で販売休止し、段階的に販売再開していたアイスクリーム「BRULEE(ブリュレ)」を、8月28日から全国で販売再開する。昨年4月の発売後、わずか10日で「十分な供給量を確保できない状況」による販売休止を発表してから、1年4カ月ぶりに全国へ行き渡る格好。同アイスは、これまでにない「アイスを焼く」という新発想の商品で、本格ブリュレの焼き目とパリパリとした食感の見事な再現、香ばしくほろ苦い焼き目とミルクリッチなアイスクリームの味わいが女性たちを掴み、大ヒットした。販売休止後は製造体制を整え、昨年10月から関東、次いで関西、中部と段階的に販売再開。今年8月28日、北海道、東北、中国、四国、九州エリアに拡充し、全国に行き渡る。「エリア拡大のタイミングで話題作りをしながら、20年先も存在する大きなブランドへ育て上げる」(同社マーケティング戦略本部)。独自の製法(特許出願中)を取り入れた大型商品ゆえに気合が入っており、流通とのタイアップの中で、エリア限定でオリジナルスプーンのプレゼントも予定。今年度は販売エリア拡大先での徹底育成を目指す。アイスクリーム、104ml、オープンプライス。実勢売価は300円弱と、アイスの部類では高価格帯ながら、確かなおいしさ、SNSでの話題拡散効果もあって想定以上に売れているという。
 https://www.ssnp.co.jp/news/milk/2018/07/2018-0718-1329-14.html
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1972(昭和47)年07月16日(日) 高見山関が外国人力士初の優勝 ⇒ 大相撲名古屋場所の千秋楽、米ハワイ・マウイ島出身の平幕、高見山関が旭国関を破って13勝2敗で初優勝した。外国人力士の優勝は初。写真は賜杯を手に祝福される高見山関【時事通信社】
 1945(昭和47)年07月16日(月) アメリカが人類初となる原爆の実験に成功 ※2021(令和三)年記事追加
 1953(昭和28)年07月16日(木) 伊藤絹子がミス・ユニバースで日本人初の3位入賞 ※2020(令和二)年記事追加⇒2021年削除
 1963(昭和38)年07月16日(火) 名神高速道路、栗東-尼崎間が開通。日本初の高速道路
 1993(平成五)年07月16日(金) 横浜ランドマークタワーが開業。地上70階でビルでは日本一の高さ ※2020(令和二)年記事削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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‡1964(昭和39)年07月16日(木) 150号 広島カープ22回戦 後楽園球場 7回裏 池田英俊 左越2ラン 17人目
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
 https://www.uta-net.com/song/2025
 https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=大泉謙也
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‡2005(平成17)年07月16日(土) 恐るべき闘志!オリックス・仰木彬監督、70歳の退場
‡2017(平成29)年07月16日(日) 11:10 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は7月16日だ。 
 写真◆中央の黒いサングラス姿が仰木監督
 2005年、近鉄と合併したオリックスは、オリックス・バファローズと球団名を変えた。そして、その初代監督となったが、2チームで監督、さらに優勝経験を持つ仰木彬だった。70歳での監督就任は、当時の最年長でもある。 
 当時、再編問題でオリックスは敵役のように言われ、大逆風が吹いていた。仰木監督は、百も承知で難役に就き、それを振り払う意味もあったのだろう。話題作りのパフォーマンスをたびたび行った。 
 同年7月16日は、仰木監督が70歳2カ月にして退場処分を受けた日だ。ロッテ戦(千葉マリン)、ホームでのクロスプレーでオリックス・谷佳知がアウトの宣告をさせると、「追いタッチでは」と猛抗議。「×××」と活字にできない表現に球審がぶち切れ、通算7度目の退場となった。 
「罰金が来ても払わんぞ! 罰金が来るようならパ・リーグ会長も事務局長も退場や!」と試合後も言いたい放題の仰木監督。一般には伏せられていたが、ガンの闘病が続き、体は万全ではなかった。まさに命の炎を振り絞り、新球団オリックスを盛り上げようとした。 
 結局、同年限りで監督退任。12月15日に死去した。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2005(平成17)年07月16日(土) 阪神・杉山直久、親友にささげる1勝
‡2018(平成30)年07月16日(月) 8:10 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は7月16日だ。 
 写真◆お立ち台は、杉山(左)と矢野だった
 現在借金3ながら3位の阪神。前回優勝が2005年だから、すでに「優勝から遠ざかり度」では、DeNA(98年以来)、オリックス(96年以来)に次ぐ長さになる(ロッテは05年だから一緒)。 
 2リーグ制後で見ると、阪神の優勝は62、64、85、03、05年。連覇がなく、間が長いが特徴のようになってしまった。 
 62、64年はいずれも競り合いだったが、85、03、05年優勝の特徴は「独走」。85年は2位広島に7ゲーム差、03年は13.5、05年は10ゲーム差をいずれも2位中日につけた。 
 独走でなければ優勝できない、が伝統になると、少しやばい。今季は首位広島に7ゲームだが、奇跡の逆転優勝で、この悪しき伝統をストップさせたいものだ。 
 今回は現時点では阪神最後の優勝。05年7月16日のゲームをプレーバックしよう。 
 甲子園での広島戦。先発の杉山直久は7回を1失点の力投で5勝目を挙げた。龍谷大から自由獲得枠で入団。背番号18をもらったが、1年目0勝、2年目2勝と伸び悩み、05年は3年目だった。 
 実は、この月の4日、杉山の大学時代の大親友が白血病で亡くなった。「どうしても勝ちたかった。あいつにウイニングボールを渡したかった」と杉山。大親友の霊にささげる1勝となった。 
 打のヒーローは、杉山を好リードした矢野輝弘。先制の2点タイムリーで杉山を援護した。 
 阪神は、これで貯金「20」。V確率がまた上がった。 
 なお杉山はこの年9勝、これが現役時代を通じてのキャリアハイとなる。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170716-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180715-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画No.014 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1958(昭和33)年07月16日(水)号 特集 監督は待っているぜ 10万円ホームランクイズ当選者
 2017(平成29)年11月10日(金) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『今週の話題』は『前代未聞の内野犠飛』
 写真◆表紙は長嶋茂雄のバッティングスイング
 今回は『1958年7月16日号』。創刊第14号で定価30円。カラーページはない。 
 この号は、2週前で告知された『ホームラン・クイズ』第1回の当選者が早くも発表されている。昔の記事とは言え、ここで当選者の個人名を出すのは控えるが、なんと応募総数は9万6853通! これはスゴい。正解者は10人ということで、10万円を10等分して送ったとのことだ。 
 ただ……、大先輩たちを疑う気はまったくないのだが、9万通以上の手紙・ハガキを果たして本当に2週間ほどで整理できたのだろうか(締め切りを考えたら1週間あるかないかとも思う)。 
 いやいや、雑誌がバンバン売れていた景気のいい時代だ。アルバイトやパートを大勢集め、人海戦術を取ったのだろうと推測しておこう。 
 巻頭グラビアは『本塁を死守するもの』の見出しで巨人の捕手・藤尾茂が登場。いわゆる「打てるキャッチャー」で、のち外野にコンバートとなった。その後には『元気になった豊田選手』というタイトルで、西鉄・豊田泰光も特集されている。豊田氏は、のちに小誌の名物コラムを執筆していただくことになる人物だ。 
 本文巻頭は『監督は待っている!~中盤のカギ握る五人の選手』。言葉のとおり、序盤戦出遅れた選手たちが扱われ、故障に苦しむ西鉄の大ベテラン、大下弘、審判への暴行事件で「無期出場停止処分」となっていたが、この号の発売前に復帰した東映の山本八郎らが紹介されている。山本に関しては、無期と言いながら実は44日での復帰だった。随分短いとも思うが、当時はさほど珍しいことではなかったらしく、その点を言及する箇所はない(復帰署名が1万人以上集まったとはあったが)。山本の復帰戦はセンターグラビアでも紹介されており、暴行の相手となった角田審判と握手する写真も掲載されている。 
 また『パ・セの実力は伯仲』と、この年の7月27、29日に行われるオールスターの展望企画もある。立大の盟友でセ、パに別れた新人、南海・杉浦忠、巨人・長嶋茂雄の対決が最大の注目だった。若い読者の方は、あまりピンとこないかもしれないが、80年代くらいまでのオールスターは、いまとは比べものにならないくらい人気があり、まさに「夢の球宴」だった。 
 また、『今週の話題』というコーナーでは、セカンド後方への内野フライで三塁からタッチアップでホームインした新人の話題が『前代未聞の内野犠飛』として載っている。もちろん、この号の表紙にもなった長嶋だ。若手時代の長嶋の魅力の1つにスピードと果敢な判断力があった。 
 対談コーナーはNHKのアナウンサー、志村正順が西鉄の三原脩監督にインタビュー。『これが西鉄ライオンズだ!~智将三原監督は告白する』とある。3連覇を狙った年ではあるが、前述の大下らの出遅れもあり、首位南海に差を離されていた。三原監督の言葉も、やや鋭さを欠いているように思えた。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.224 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1962(昭和37)年7月16日(月)号 なぜ鶴岡は再びベンチに入ることになったのか
 2018(平成30)年6月09日(土) 16:00 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎日本の酷使には反対です
 写真◆表紙は巨人・藤田元司
 今回は『1962年7月16日号』。定価は40円だ。5月26日、休養発表後、スカウト活動や監督交代のあいさつ回りをしていたはずの南海前(?)監督・鶴岡一人が急転直下復帰となった。 
 これは鶴岡監督周辺の人物、南海本社重役の説得や、ファンの復帰要望書が球団に殺到したことなどがあったようだ。6月29日になって鶴岡監督自らが「オールスター後の復帰」を明言した。 
 休養中に最下位だったチームを立て直し、評価を上げていた蔭山和夫代理監督は淡々と語る。 
「ワシは親分の復帰を心から願っていたので本当にうれしい。ワシは与えられた仕事を一生懸命するだけだ」 
 一方、鶴岡は自分のいない間に頑張ってくれた蔭山に対し、 
「カゲの立場を十分考えて復帰の方法は考える。たとえばワシが総監督でカゲが監督になるとか」 
 と、かなり気を使っているようだ。復帰に至るまでの詳しい心情の記述はないが、今後の号で出てきたらまた。 
 南海では皆川睦男が昭和メモリー・シートという会社を立ち上げ、音の出るブロマイドの発売を始めたらしい。写真つきのレコードのようなものだろうか。 
 メジャーの大投手で中日入りしたドン・ニューカムは、佐々木信也の連載対談に登場。妻が大反対で、日本にも一緒に来なかったと報じられた来日時の状況も、ここで説明している。 
 ニューカムが当時、前妻との離婚の裁判をし、毎月の生活費を送る約束をしたのだが、その時点では球界を辞めた後の収入から額を決めていた。しかし、その書類に前妻がサインする前に中日入団が決まって収入が一気に増えた。当然支払額が変わる……。 
 ここでの新妻ともども、弁護士に言われた作戦に出たのだ。 
「妻が反対しているので、まだ決定したわけじゃないといってカモフラージしたんです」 
 それで本当にごまかせたのか……。 
 また、日本の投手の連投について、 
「私は反対ですし、なぜそんなに酷使するか聞きたい。中日の権藤(博)が400イニング投げたというが、これはメジャーの3年分です」 
 と批判。まあ、3年分は大げさかもしれないが、日米は試合数が違う。権藤の130試合で429回3分の1は、アメリカン・リーグ162試合で200回程度と比すれば、3倍近い酷使と考えても不思議ではないか。 
 ニューカムは自ら「投手は無理」と伝え、ファーストでスタート予定となっていた。 
 以下宣伝。 
 週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』『ロッテ編』が発売中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171110-13
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180608-02
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.041 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 どんな速球でも速いとは感じなかった天才ヒットメーカー、篠塚和典
 2018(平成30)年2月2日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 誰もが認める天才
 球を速いと感じたこともほとんどなかったという
 巨人・篠塚和典(利夫)は故障もあって2000安打には届いていないが、“ヒットを打つ技術”は誰もが認める天才だった。 
 どんな球でもバットに当てる自信があったという篠塚は「2ストライクと追い込まれても焦ることはなかった」と言い切る。また、「ボールを速いと感じたことは、ほとんどない。津田(恒美。広島)や与田(剛。中日)でもタイミングを取れないことはなかった」とも。 
 さらに「ピッチャーがトップの位置に入ると同時にバッティングのトップを作っていました。そして、いつでも振れる準備をする。そうすれば振り遅れることなんてありません」と、事もなげに言うのもまた、天才ゆえだろう。 
 篠塚はヒットの可能性を練習からすべて追求していた。コースに逆らわずではなく、インコースを右にも左にも打ち、フィールドすべてを使う。詰まっても、泳いでもヒットゾーンに飛ばす打ち方を体に覚え込ませた。仮に先に当たっても、ヒットにしたいからとバットの先は角張らせて、そこに当ててヒットを打つ練習もした。 
 そして、そこまでやった上で言う。 
「データは一切見ませんでした。来たボールを打つのが一番です」 
 篠塚和典(しのづか・かずのり) 
‡1957(昭和32)年7月16日(火)生まれ。千葉県出身。銚子商高からドラフト1位で
 1976(昭和51)年に巨人に入団。5年目の
 1980(昭和55)年に二塁の定位置を確保すると、翌
 1981(昭和56)年には打率.357の大活躍でリーグ優勝、日本一に貢献。
 1984(昭和59)年と1987(昭和62)年には首位打者に輝いている。
 1994(平成六)年限りで現役引退。
 1976(昭和51)年から
 1992(平成四)年6月30日(火)の登録名は「篠塚利夫」。主なタイトルは首位打者2回。通算成績1651試合、1696安打、92本塁打、628打点、55盗塁、打率.304
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.205 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 ピッチャー返しで東尾にわざと打球を当てた門田
‡2018(平成30)年7月16日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 「ワザにはワザで立ち向かう」
 写真◆南海・門田博光
 1980年代前半、セ・リーグでは巨人戦のテレビ中継が全盛期を迎えていた。後楽園球場の人工芝はナイターのカクテル光線を跳ね返し、抜群のスター性を誇る巨人ナインを明るく際立たせる。プロ野球が、男と男の真剣勝負から、より分かりやすいエンターテインメントに変貌していった時代だ。 
 「エース投手との微妙な駆け引きが面白かった。テレビを見ている人には分かりっこないだろうが」 
 そんな時代にあって、こう言い切ったのが門田博光だった。 
 「それがプロフェッショナルな対決だと分かってもらえれば、うれしい」とも語っていた。 
 例えば西武の東尾修との対決。内角球で打者をのけぞらせて外角球で打ち取る“ケンカ投法”が持ち味だった東尾修に、ある試合の第1打席で門田は死球を受けた。門田は死球を与えた投手に対して、マウンドに向かっていく光景には否定的だ。 
 「ワザにはワザで立ち向かっていく。ワザで相手を倒してこそ相手に認めてもらえる」という考え方。言い換えれば「ピッチャー返しでボールを東尾に当て返す」ということだ。 
 東尾に打球を当てるため、ひたすらバットの角度を考えに考え抜いた。そして第3打席で、ついに門田の強烈な打球が東尾の太ももに直撃した。 
 その後も東尾はほかの打者に対しては“ケンカ投法”を続けたが、門田に対しては外角に巧みにコントロールされた沈み込むボールで勝負してきたという。門田はそれでほとんどショートゴロに打ち取られたというが、「ワザにワザで返した」東尾を称賛している。
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180202-14
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180716-13
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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