「生還不能の新兵器」で多くの部下を死に追いやった「司令部の無能ぶり」 一度は却下されたはずが…
2022(令和四)年06月22日(水) 05:00『現代ビジネス』神立尚紀
1944年10月25日、75年前の今日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする「搭乗員必死」の戦法は、戦局が圧倒的に不利になってから採用された作戦である。だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われない戦場へ搭乗員たちが死を決して出撃していくという状況になっていたという。この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻という作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部のあまりの無策ぶりにあるという。
<【前編】特攻機の盾となった戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」>に引き続き、その経過を語ります。
■たった一度の攻撃で戦力の8割を失う■
このときの日高隊には、さらに追い打ちをかけるような、隠れた出撃時の不手際があった。
通常、空母から発進するさいには、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れないまま発艦していたのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携がとりづらい欠点があった。
空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置がわからない。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時にかかった荷重のせいか、故障していて何も聞こえない。無線も通じず、進退きわまった日高は、列機を小隊ごとに解散させ、おのおのの小隊長の航法にまかせて母艦に帰投を試みることにしたが、2機が機位を失して行方不明になった。
日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐことができたが、このために、ただでさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とほぼ半減し、敵空母上空に待ち構えていた38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。
艦攻、艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火をかいくぐって、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機、艦爆17機、零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆はそれぞれ4機のみである。8割を超える艦爆、艦攻を、たった一度の攻撃で、搭乗員とともに失ったのだ。
昭和17年10月26日写真◆南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」c 現代ビジネス 昭和17年10月26日、南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」
「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長とともに戦死したのは、このときのことだった。
――日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令どおり、攻撃隊の護衛についていれば味方攻撃隊の犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、そうするとみすみす敵機による味方機動部隊への攻撃を許すことになり、ミッドウェー海戦の二の舞になった可能性もゼロではない。
こんにちの目で日高の判断の是非を論じるのはむずかしい。だが、現場指揮官が遭遇し、瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも、「自分が日高大尉の立場ならどのように行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われたほどの教訓を、この戦いは残した。
■「サクラサクラ」■
機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、ただちに第二次攻撃隊の準備にかかり、「翔鶴」から零戦5機、九九艦爆19機、「瑞鶴」から零戦4機、九七艦攻16機を発進させた。
第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、さらに対空砲火を浴びて、艦爆12機、艦攻10機、零戦2機を失った。米空母「エンタープライズ」と戦艦「サウスダコタ」に新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力にはすさまじいものがあった。
そんななか、第二次攻撃隊に参加した「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉/1921-2005。戦後、森永製菓勤務)は、被弾し、気息奄々としている敵空母「ホーネット」を上空から見て、機上でバンザイを叫んだという。佐々木原は、日記に次のように記している。
〈クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信してくるのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判らなければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話に切り換えたが感度なく、電信にダイヤルを切り換えると間もなく感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼びかけているのが聞こえた。シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書きとめる。
『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』
次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する〉
写真◆空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
「翔鶴」より索敵に発進していた吉野治男一飛曹(のち少尉/1920-2011。戦後、東京電力勤務)は、途中、敵艦上機と遭遇したほかは敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰ってきた。吉野は語る。
「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入っていた。「翔鶴」はそれを回避するために右に転舵したのである。吉野の目前で、「翔鶴」はたちまち、おびただしい水柱と煙に覆われた。
「翔鶴」には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェーのときのような誘爆は起さずにすんだが、「瑞鳳」に続いて発着艦が不可能になった。吉野機をはじめ、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は、すべて「瑞鶴」に着艦せざるを得なくなる。同じ頃、艦隊前衛の重巡「筑摩」も、敵の爆弾4発を受けた。
写真◆空母「翔鶴」艦攻隊・吉野治男一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「翔鶴」艦攻隊・吉野治男一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
■魚雷の命中はサッカーと同じチームプレー■
いっぽう、機動部隊本隊の西方にいた前進部隊の空母「隼鷹」は、敵との距離280浬(約520キロ)の位置から、志賀淑雄大尉(のち少佐/1914-2005。戦後、会社経営)が指揮する零戦12機、九九艦爆17機の第一次攻撃隊を発進させている。志賀の回想――。
「断雲の間から、いきなり1隻の空母が現われ、飛行甲板からグラマンが2機、発艦するのが見えました。『あ、いいぞ、あれに行くんだな』と、艦爆が単縦陣になって降下していく上を、戦闘機のほうがスピードが速いのでつんのめらないようにエンジンを絞って蛇行運動しながら、ついて行きました。とにかく、艦爆はどっちに行く?敵戦闘機は?と考えながら、対空砲火なんか全然目に入りませんでしたね。
そして、いくつかの断雲をぬけて、あっと思ったら戦艦の真上に出てしまったんです。『あれ、戦艦だ』と思う間もなく高度70メートルぐらいにまで下がったと思います。大きな煙突が目の前に現われて、てっぺんに金網が張ってあるのがはっきりと見えましたよ。艦爆の三浦尚彦大尉機について行ったはずだったんですが、雲の中ではぐれたんでしょう、三浦機がいつ火を噴いたのかもわかりませんでした」
写真◆空母「隼鷹」飛行隊長として零戦隊を率いた志賀淑雄大尉(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「隼鷹」飛行隊長として零戦隊を率いた志賀淑雄大尉(右写真撮影/神立尚紀)
志賀は意識しなかったが敵の防御砲火はここでも衰えを見せず、艦爆隊17機のうち9機が撃墜されている。
「隼鷹」ではさらに、第二次攻撃隊として、九七艦攻7機に魚雷を積んで、零戦8機とともに発進させる。雷撃隊は、敵空母に魚雷3本、巡洋艦に1本を命中させたと報告したが、2機が撃墜され、艦攻隊の全機が被弾した。空母「飛龍」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃で戦艦「オクラホマ」、ミッドウェー海戦で空母「ヨークタウン」に魚雷を命中させた「隼鷹」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(のち少尉/1922-2010。戦後、木材会社勤務)は、この攻撃でも「ホーネット」に魚雷を命中させている。
「雷撃というのは、サッカーと同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めして初めてゴールできる。私の魚雷が命中したといっても、単機で攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けてくれて戦死したみんなの力なんですよ」
と、丸山は回想している。
写真◆空母「隼鷹」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「隼鷹」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
■戦死者数が日米逆転した海戦■
「瑞鳳」と「翔鶴」が被弾し、空母が「瑞鶴」だけになった第一航空戦隊は残存機をかき集め、零戦5機、九九艦爆2機、九七艦攻6機の第三次攻撃隊を発進させる。ここまでくると、もはや敵の反撃もまばらになっていた。
「隼鷹」も、帰ってきたばかりの第一次攻撃隊の生き残りのなかから使用可能な飛行機を集め、零戦6機、九九艦爆4機からなる第三次攻撃隊を編成した。零戦隊指揮官は志賀大尉、艦爆隊は、第一次攻撃で分隊長クラスが戦死したので、初陣の加藤瞬孝中尉が指揮をとることになった。
初めての戦闘で、すさまじい防御砲火をくぐりぬけてやっと生還した加藤中尉は、報告の声もしどろもどろで、まだショックから立ち直っていなかった。搭乗員待機室で参謀・奥宮正武中佐から、
「加藤中尉、もう一度願います。こんどは君が指揮官をやってもらいたい」
と伝えられた加藤中尉は、
「えっ! また行くんですか」
と、驚いた顔をして立ち上がった。志賀は語る。
「加藤中尉はトンちゃんの愛称で親しまれている、かわいい男でした。蒼ざめている彼に、『トンちゃん、戦争だぞ。敵を最後までやっつけないと勝ったとは言えないぞ。俺がついてるから、攻撃がすんだら、戦闘機を誘導せずにまっすぐに帰ればいいから』と励まして出撃したんです」
「隼鷹」第三次攻撃隊は「ホーネット」に全弾を命中させ、艦爆隊は志賀に言われた通り、一目散に母艦へ帰っていった。すでに夕闇が迫っていた。志賀は列機をとりまとめ、クルシーのスイッチを入れた。すると、母艦からの電波が入り、クルシーの航路計の針がピクンと動いた。発艦前、志賀は海軍兵学校で一期先輩の「隼鷹」通信長・佐伯洋大尉に、
「もし、無線封止だなんて言って電波を出さなかったら、帰ってきたらぶっ飛ばすぞ」
と言い置いて出てきたが、通信長の律儀さがありがたかった。故障しやすいクルシーが生きていたのも幸運だった。翼端の編隊灯をつけ、はぐれないようガッチリと編隊は組んだまま、針が指し示す方向に飛ぶこと1時間あまり、周囲はすでに暗闇に包まれている。突然、針がパタッと倒れた。志賀が下を見ると、真暗な海面に、パッと母艦の中心線のランプが、縦一線に灯った。「隼鷹」であった。この海戦で、日本側は米空母「ホーネット」と駆逐艦1隻を撃沈、「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」ほか2隻が被弾。空母の喪失はなかったものの、飛行機92機と搭乗員148名、艦船乗組員約300名を失った。これは結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊に対し、互角以上に戦った最後の機会となったが、搭乗員の戦死者数で見ると、
同年6月5日~6日 空母4隻を失い大敗したミッドウェー海戦の121名をも上回る。特に、真珠湾攻撃以来、実戦の経験を積んできた艦上爆撃機、艦上攻撃機の主要指揮官の大部分と練達の搭乗員を失ったことは、以後の作戦にも大きく影響する、取り返しのつかない痛手だった。米軍パイロットの戦死者は、ミッドウェー海戦では日本側の倍近い210名だったのに対し、南太平洋海戦でははるかに少ない26名(別に艦船乗組員約240名)だったとされている。艦船の得失では日本側の勝利ともとれるが、人的損失と、それによって受けたダメージは、日本側の方がはるかに大きかったのだ。岩下邦雄は、この海戦で兄・石丸豊大尉が戦死したのは、日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が、進撃途中で編隊を離れ、味方の攻撃に向かう敵機と戦ったために、艦爆、艦攻隊の護衛が手薄になった一面は否定できないが、自身の経験と照らせば責められないと言う。
「自分がのちにフィリピンや沖縄で、艦爆隊や特攻機の護衛をした経験からいえば、どうやったら効果的な掩護ができたのか、どうすればベストだったのか、最後まで答えが出ないままでした。いまもときどき自問自答しますが、ほんとうにわからない。攻撃隊を護衛したことのある戦闘機乗りならみんなそうだったと思います。だから、兄貴が戦死したことで、日高さんの判断をとやかく言う気は全くない。兄貴と日高さんは海兵同期なんですよ。クラスメートを護衛できなかった日高さんも、かなり辛い思いをされたんじゃないでしょうか」
写真◆岩下邦雄(左)と日高盛康(右)。平成14年9月、靖国神社にて(撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 岩下邦雄(左)と日高盛康(右)。平成14年9月、靖国神社にて(撮影/神立尚紀)
■1度は却下された「生還不能の新兵器」■
南太平洋での日本軍の敗勢が明らかになった昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を搭載したまま敵艦に突入するという、捨て身の作戦が議論に上っている。
昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦攻、艦爆に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とするよう、当時、航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は、
「搭乗員が100パーセント死亡するような攻撃方法はいまだ採用すべき時期ではない」
としてこの意見を却下した。同年10月には、黒木博司大尉、仁科関夫中尉が共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を軍令部に提出したが、これも却下された。だが、
昭和19(1944)年2月17日、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けたことで潮目が変わった。
2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直されることになり、呉海軍工廠魚雷実験部で極秘裏に試作が始められる。これはのちに「回天」と名づけられる水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。
昭和19年4月4日、軍令部第二部長(軍備)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦)・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なうよう、海軍省に要望した。昭和19年5月には、一〇八一空の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」を着想、同隊司令・菅原英雄中佐を通じて空技廠長和田操中将に進言、航空本部と軍令部で研究を重ねることになった。
6月19日には第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申。岡村はさらに、軍需省航空兵器総務局長になっていた大西瀧治郎中将のもとへも赴き、体当り戦法に適した航空機の開発を要望している。昭和19年8月に入ると、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」案をもとに、空技廠に試作を命じた。のちの「桜花」である。特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬にかけ、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。ただし、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされていない。
■「ダバオ水鳥事件」■
昭和19年9月13日付で、海軍省に「海軍特攻部」が新設され、大森仙太郎中将が特攻部長に就任した。「特攻」は、すでに海軍の既定路線だった。
体当たり攻撃隊の編成開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆撃機隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。ただ、精鋭部隊といっても、南太平洋海戦の頃とは状況が違う。飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状から、まともに考えれば敵機が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。こちらの都合のみをよいように考えたこの作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。
案の定、というべきか、台湾沖に出現した敵機動部隊を攻撃に向かった日本の航空部隊は、昭和19年10月12日から16日にかけて戦われた「台湾沖航空戦」で、敵空母を一隻も沈めることができずに約400機を失い、惨敗した。
敵機動部隊は、ほぼ無傷のままフィリピンに向かい、
10月17日には米上陸部隊が、レイテ湾沖に浮かぶスルアン島への上陸を開始している。ところが、フィリピンに展開する日本海軍の基地航空部隊(第一航空艦隊)の戦力は約40機しかない。
フィリピンにおける日本海軍の航空兵力がこれほど弱体だったのは、台湾沖航空戦での損失とともに、前月に起きた二度の不祥事が原因だった。
9月9日から10日にかけ、第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置いていたダバオが、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。10日早朝、見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告が入り、浮き足立った根拠地隊司令部が、「ダバオに敵上陸」を報じ、玉砕戦に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却し、自ら司令部機能を失ってしまう。飛行機は空襲被害を避けるため、フィリピン各地に分散していて、ダバオには飛べる飛行機が1機もなく、報告の真偽を確かめられなかったのだ。
夕方になって、美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、暁闇の海面の白波を、敵の水陸両用戦車と見間違えたのだ。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集められたままになっていた第二〇一海軍航空隊(二〇一空)の零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。基地指揮官・中島正少佐の発進命令が遅れ、離陸直後の不利な態勢で敵戦闘機に襲われたのだ。フィリピンでの決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして失われた。「セブ事件」と呼ばれる。
この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。この司令長官交代劇は、周到に準備されていたものではなく、あくまで寺岡長官が責任をとらされた偶発的なものである。
大西中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(のち主計少佐/1917-2008。戦後、丸三証券社長)によると、米軍のスルアン島上陸を受け、大西は門司を伴って10月17日午後、第一航空艦隊司令部のあるマニラに到着する。その日のうちに、前任の寺岡中将と大西との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の長官就任は20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差し支えない。
写真◆大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影/神立尚紀)
■「惰性で人の命を奪ってはいけない」■
聯合艦隊司令部は、敵のスルアン島上陸を米軍による本格的なフィリピン侵攻の前ぶれととらえて、それを迎え撃つべく、10月18日夕刻、「捷一号作戦」を発動する。これは、栗田健男中将率いる戦艦「大和」以下の大口径砲による砲撃で敵上陸部隊を殲滅することを柱とし、それを成功させるため、敵機動部隊を引きつける陽動の空母部隊や、レイテ湾を南北から挟み撃ちにする別働隊などを配する、日本海軍の総力を注ぎ込んだ大作戦だった。
新たに着任した大西中将は、配下にあるたった40機の飛行機で、主力艦隊のレイテ湾突入を支援しなければならなかった。門司は、
「海軍では『特攻』は既定路線だったんでしょうが、大西中将がフィリピンで、ほんとうに特攻隊を出す決心をしたのは18日の夕刻、すなわち『捷一号作戦』発動のときだったと思います」と語っている。
大西は、翌
10月19日朝、現地航空隊の司令、飛行長に、マニラの司令部への参集を命じた。ところが、戦闘機隊の二〇一空本部のあるマバラカット基地はこの日、間断のない空襲を受け、司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は午後になっても到着しなかった。業を煮やした大西は、門司副官を伴い、車でマバラカットへ向かった。
その道中、右前方にアラヤット山を望むあたりで、門司は、
「決死隊を作りに行くのだ」
という、大西のつぶやきを聞いている。
写真◆門司親徳(左)と大西瀧治郎中将。昭和20年5月、台湾にてc 現代ビジネス 門司親徳(左)と大西瀧治郎中将。昭和20年5月、台湾にて
二〇一空に特攻隊の編成を指示したのは、その夜のことだった。少数の航空兵力で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるためにできることは、たとえ沈めないまでも、敵空母の飛行甲板を一時的に使えなくすることしかない。それとともに、大西が特攻隊編成を決意したのは、
「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」
という思いがあったからだった(このことは、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない)。
大西の要請を受けて、二〇一空副長・玉井浅一中佐が人選し、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名づけられた最初の特攻隊が編成されたのは10月20日、第1回の出撃は21日のことである。22日に若桜隊、23日に菊水隊が新たに編成される。
昭和19年10月21日写真◆マバラカット西飛行場で出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿左端が関行男大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊c 現代ビジネス 昭和19年10月21日、マバラカット西飛行場で出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿左端が関行男大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊特攻隊は、味方索敵機が報告する敵情にしたがって出撃するが、予定海面に達したときにはすでに敵艦隊が移動していて見当たらず、帰投することを繰り返した。その間、突入が確認されないまま未帰還になった隊員もいる。10月25日、関大尉が突入したのは、4度めの出撃のときだった。
昭和19年10月25日写真◆マバラカット東飛行場で、敷島隊最後の発進c 現代ビジネス 昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊最後の発進だが、特攻隊の、文字通り命を爆弾に代えた犠牲もむなしく、栗田中将はレイテ湾突入を断念、「決戦」はまたも日本側の大敗に終わる。それでも、米軍のさらなる侵攻を食い止めようと、特攻隊は次々と編成され、飛び立っていった。栗田艦隊の失敗で敵の勢いを止められなくなったいま、「敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする」という当初の限定的な目的が、変容せざるを得なくなったのだ。南太平洋海戦で兄を失った岩下邦雄大尉は、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊戦闘第四〇一飛行隊長として、フィリピンで、連日のように出撃を重ねていた。
「12月16日、ミンドロ島の米攻略部隊攻撃に、艦爆隊を護衛して出撃したときのことです。ぼつぼつ予定地点かな、と思ったとき、断雲の下に敵攻略部隊を発見しました。驚いたのは上陸用舟艇の数です。まるでバケツ一杯の羽根をまき散らしたように無数の船が航行していて、私は、これは味方が全弾命中させてもかすり傷にもなるまいと、力が抜けるような気がしました」岩下はその後、主戦場が沖縄に移ってからは横須賀海軍航空隊笠之原派遣隊指揮官として、九州から沖縄方面への出撃を繰り返すことになるが、その間、戦場で感じた「特攻」の意味の変化について、次のように語っている。
「フィリピンでの最初の特攻は、それまで通常攻撃でさえ、出撃した飛行機のほとんどが未帰還になり、しかも戦果を挙げられないような場面が多かったから、搭乗員の側にも仕方がない、という空気はありました。われわれみんな、遅かれ早かれこの戦争で死ぬものだと思ってましたからね。関君たちが、たった10機で栗田艦隊を上回る戦果を挙げたことも大きかった。
しかし、フィリピンを取られ、沖縄も占領され、もうどうにもならなくなっても続けたことについては、大いに疑問に感じています。死を覚悟した軍人であっても、惰性で人の命を奪ってはいけない。海軍の身内を悪く言いたくはありませんが、司令部の怠慢ととられても仕方がないように思います」
特攻隊については、これまでさまざまな論考がなされているが、まず否定ありきの偏った考察によるものが少なくない。それらに対する反証は、2018年4月15日に寄稿した拙稿「日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270で述べた。
なかでも、「海軍兵学校出身者が温存され、予備士官や下士官兵ばかりが特攻に出された」とか、結果論で「特攻は、1隻沈めるのに〇人の命が失われた非効率な作戦」といった、俗耳に入りやすい言説には、そうではない具体的な根拠を挙げたつもりである。敵艦1隻を沈めるのに失われた搭乗員の数は、「南太平洋海戦」も「特攻」も大差ない。
失われた人命に比しての戦果という見方をすれば、3948名の犠牲で8064名の敵の命を奪い、10000名以上に傷を負わせた「特攻」は、大戦中期、ガダルカナル戦以降のどの航空作戦よりも効果的に戦果を挙げた。――だから特攻は優れた戦法だった、と肯定する気はない。問題はそこではないのだ。
かつて、特攻戦没者を愚弄するようなオブジェが「芸術作品」と称して展示され、話題を呼んだ。特攻隊員をはじめ戦没者の死を「無駄死に」であったとする声も、一定の割合で必ず聞こえてくる。だが、歴史は大きな流れのなかで段階を踏んで進んでいる。好むと好まざるとにかかわらず、現在は、あの忌まわしい戦争をも含めた歴史の上に成り立っている。どんな時代であれ、自分の生きた世界を懸命に生き、そして死んだ人たちのことを、嘲る資格など誰にもないはずだ。とりわけ、戦没者を侮辱することは、世界のどこでも許されることではない。
いまの時代が、たとえば70数年後、どのように評価されることになるのかはわからないが、先のオブジェが優れた美術作品と評価されるとは考えにくい。現代を生きるわれわれは、過去を嘲るのではなく、そこから何ごとかを虚心に学ぶべきだろう。特攻についても、今後、さらに事実が解明され、幅広い考察がなされることを期待したい。ただ一点、危惧するとすれば、これからの世代は当事者の声を生で聞けなくなることだ。
本稿執筆中、特攻隊員として4度の出撃を重ねて生還し、戦後は神奈川県警刑事となった長田利平氏(「4度の特攻から生還した男が『刑事』として生きた激動の戦後」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56662参照)が、93歳で亡くなったとの知らせが届いた。砂時計の砂は、無情に落ち続けている。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%94%9F%E9%82%84%E4%B8%8D%E8%83%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%85%B5%E5%99%A8-%E3%81%A7%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E9%83%A8%E4%B8%8B%E3%82%92%E6%AD%BB%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E3%81%AE%E7%84%A1%E8%83%BD%E3%81%B6%E3%82%8A-%E4%B8%80%E5%BA%A6%E3%81%AF%E5%8D%B4%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C/ar-AAYIjRp
♪DANCE♪ 横浜スタジアム初演奏良好アンコール
♪DANCE♪ 1984 ALBUM VERSION
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┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃『イニシエーション・ラブ』┃
┃ 『Initiation Love』 ┃
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1987(昭和62)年12月24日(木) 1:38:34
1987(昭和62)年07月10日(金) 1:01:42 U-NEXT ♪DANCE♪
1987(昭和62)年07月10日(金) 1:38:44
1987(昭和62)年07月10日(金) 1:40:33
1987(昭和62)年07月11日(土) 1:40:48
1987(昭和62)年07月11日(土) 0:59:11 U-NEXT ♪DANCE♪
2015(平成27)年05月23日(土) 東宝系列劇場公開
【Side-A】1980年代後半、バブル最盛期の静岡。就職活動中の大学生・鈴木は、友人に誘われ気乗りしないまま、合コンに参加。しかし、その席で、歯科助手のマユと運命的な出会いを果たす。奥手で恋愛経験がなかった鈴木だが、マユと出会って変わっていく。流行のヘアスタイル、オシャレな洋服、マユに釣り合う男性になろうと自分を磨く鈴木だったが…。
【Side-B】二人だけの甘い時間も束の間、就職した鈴木は東京本社へ転勤となり、静岡にマユを置いて上京することに。それでも距離は二人の愛にとって障害にならないと、週末ごとに東京と静岡を行き来する鈴木。しかし、東京本社の同僚・美弥子との出会いを経て、心が揺れ始める…。(C)2015 乾くるみ/「イニシエーション・ラブ」製作委員会
https://www.amazon.co.jp/dp/B017APJF7Q
https://video.unext.jp/title/ED00097831
https://ja.wikipedia.org/wiki/イニシエーション・ラブ
┏━━━━┓
①┃塩田剛三┃
┗━━━━┛
‡1915(大正四)年09月09日(木) 生 誕
1994(平成六)年07月17日(日) 78歳没
┏━━━━┓
②┃木村政彦┃
┗━━━━┛
1917(大正六)年09月10日(月) 生 誕
1993(平成五)年04月18日(日) 75歳没
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③┃大山倍達┃
┗━━━━┛
1923(大正12)年06月04日(月) 生 誕
1994(平成六)年04月26日(火) 70歳没
①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0%E5%89%9B%E4%B8%89
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BD%A6
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%80%8D%E9%81%94
【古記事】 塩田剛三と木村政彦の対談(1987年)
1987(昭和62)年12月号『フルコンタクトKARATE』JUGEMテーマ:格闘技全般
前にも書きましたが週末は家にいないので、平日にちょっと記事書いてたりします。今回は「ゴング格闘技」の2011年7月号で最終回を迎えた、増田俊也先生の連載「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に便乗し、達人として名高い合気道養神館の創始者塩田剛三先生と、最強の柔道家と謳われた木村政彦先生の対談記事を紹介したいと思います。 雑誌『フルコンタクトKARATE』の1987年12月号に掲載された物ですね。それでは、どうぞ。
ーーお2人は、拓大時代の同級生だとお聞きしましたが。
塩田 当時の拓大ではね、俺と木村ともうひとり空手の福井の3人が拓大三羽烏と呼ばれていたんだな。木村は人見知りする方で、福井とは口を聞かなかったが、俺はなぜか木村とも福井とも気があって、2人とつきあっていたんだ。
木村 福井はそんなに強かったか。
塩田 福井は、中山正敏さんや高木正朝さんと拓大に初めて空手部を作ったんだね。 ケンカは強いが、クセがあって柔道や、合気道はどうってことない、と言っていた。 じゃ、やってみようと俺が受けて、2人で体育館でやったんだ。 右の正拳突きから右の前蹴りを狙ってきたんだが、サッと左へよけて右腕で拳をはさむようにして左腕で、福井の右肘をたたいたらポンと飛んでいった。 奴は、肘をしばらく痛めてね、それで当時無名だった合気道を修行していた俺も三羽烏の仲間に入れさせてもらったんだ。(笑)
木村 塩田は俺と腕相撲で勝負したこともあった。 いや、強かったな。 俺は身長170センチで85キロだったが、塩田は154センチで47キロだった。
塩田 木村は、10回やって10回負けたとどっかでしゃべってたが、実際は3回やって初めの2回だけ俺が勝ったんだよ。 もっとも、3回目は手を抜いたけどな。(笑)
ーー塩田先生は、何か特別な鍛錬をしていたんですか。
塩田 いや、合気道はね、体によどみを作らないために筋肉を鍛えてはいけないんだ。 しかし、若い頃はそんなことわからないから、植芝先生に隠れて鉄アレイを持ち上げたりして、見つかるとよくおこられた。 しかし、若いうちは体に力をつけたいと思うのは自然で、理屈はあとでいいから、とにかく目一杯稽古してればいいんだ。(中略)朝5時から夜9時まで目一杯やったよ。 若い頃はそういう時期が必要だと思う。 ここにいる木村なんか”稽古の鬼”だったんだ。 有名な”3倍の努力”という言葉があるけど、彼は本当にそれをやり通した。
木村 まあ、人と同じように寝てちゃだめだね。 昭和15年の天覧試合の前は毎日10時間半はやっていたから寝る間はなかった。大学時代は、朝4時半に起きて、牛島先生の塾生だったから、掃除をして、そのあと巻きワラを左右千回ずつ突く。 巻きワラを突くとね、親指の握りがしっかりとするしね、腕や肘や、引きつけるときの手首も強くなる。それから警視庁に行って10時頃から稽古する。 1時間ちょっとぐらいかな。 それから拓大で3時間くらいやって,講道館で夜の6時頃からやって、8時から11時までは深川の町道場でやった。
ーーそれで稽古は終わりですか。
木村 いや、家へ帰ってきて食事をしてフロに入ってから独りで稽古をやった。 腕立て伏せをまず千回、それからボディビル、80キロのバーベルをベンチプレスで600回挙げる。 これだけで1時間くらいかかった。それから、もみじの木に打ち込みを千回。 ものすごい太いもみじの木にね、柔道の帯を巻いて打ち込みするんだが、毎日千回もやってるとすぐ切れちまうんだな。 金がかかってしようがない。(笑) それでロープを持ち出してやってた。それから大外刈りの稽古。 当時、警視庁と講道館で、俺が大外刈りをやると、1日平均10人脳しんとうを起こしていたので、稽古のときは使ってくれるなと言う。 これを聞いて奮発してね。 よし、脳しんとうではおさまらないようにしてやろうと思ってね、大外刈りの研究を徹底してやることにした。(中略)こんなことをやってると、夜中の2時頃になってしまう。しかし、これですぐに寝てはダメだ。 人間は寝たら死んだのと一緒だ。 人が死んでも、自分だけは生きている稽古をしようと。 そういう訓練をすれば勝負に効果があるんじゃないかと思って。 体をつねって、寝ない訓練をする。 朝の4時頃までね。 いつも、朝の一番列車が通って、”あー、夜が明けるな”と思っていた。 一睡もしないときの方が多かったな。 でも、それには、秘訣があってね、学校で寝てた。(笑)
塩田 あんたは授業中いつも寝とったな。 木村が我々のクラスにいたから、誰も落第しなかった。 ケツから押し上げてくれたから。
木村 ふとんの中で、寝ないでいると1日の稽古の状況が頭の中に浮かんでくる。 だいたい100人くらいの人間と1日稽古をしたが、次から次へと人間が出てきて、あのときかけた技はこうで、どうだったか、というのが出てきて、技をかけた瞬間がストップモーションになる。 それでこの技は、いいとか悪いとかわかる。(中略)
塩田 まあ、今の若い人間にそれだけ稽古をしろと言っても無理だろうな。今の柔道の連中じゃ、木村にはかなわない。 今やらしても、山下や斎藤あたりはコロンコロンやられるよ。大外刈りひとつとっても、切れが違う。 今のような体力の競い合いじゃなくて、木村は技で投げていた。 どんなでかい奴でも、一発でふっとんでいたからな。
木村 俺はね、大きい相手とやると、これは投げやすいと思う。 日本人で百キロもある奴は、しまっていないからだ。 稽古不足だからこいつは脂肪がついていると思ったんだ。
ーー木村先生から見て山下や斎藤は稽古不足ですか。
木村 さー、技術面から見ると、真からその道を研究しているようには思えないな。(中略) 柔道をやるとガニ股になるため、左足を踏み出すとき、どうしても開きぎみになる。 これゃいかんというんで、俺は歩き方を変えた。 爪先をまん前に向けてスッスッと歩くんだ。 だから、普段歩いている時でも、足サバキの稽古になった。力を一点に集中しないと、上体の力で投げることになる。 だから今の柔道じゃ相撲には勝てないよ。 本当は相手がでかければ、それだけくずしやすい。 体重があるから、ちょっとくずせば自分の体重がかかっていく。
塩田 今の柔道にはくずしが無い。 だから階級制になって、小さい者が大きい者を倒すことができなくても良くなっている。
木村 柔道のとらえ方が違う。 俺らの頃は、相手が突いたり蹴ったりしてきても対応することを考えた武術だった。勝負には勝つか負けるかしかない。 山下が遠藤とやったときも、あの試合はハッキリと山下が負けていた。 試合開始直後に遠藤が山下にカニバサミをやって倒したが、なぜ引き分けで延長なのか? カニバサミが禁止技なら遠藤の反則であり、OKなら遠藤の勝ちだ。試合の結果は一生ついて回るものであり、主催者のルールの解釈で選手の勝敗が左右されるのはおかしいんだ。私らの頃は、試合はそのまま勝負だった。 雌雄が決するまで40分間、全日本の決勝で戦ったこともある。俺は、試合で敗けることは死ぬことと同じだと思った。 その覚悟でやっていたから、試合では1度も敗けたことはなかった。
塩田 死ぬと言っても、死に直面したことのない人間には、その覚悟もわからんよ。
木村 この前、拓大の総長がね、「木村さん、あなたは死んでも物事をやりとげると言いましたけど、死んでしまったら元も子もないじゃないか」と言うんだ。 私は、この人は武道を徹底してやったことがない人だと思った。 私が言いたいのは、本当に死ぬ覚悟があれば、訓練の度合いが違うんだ、ということだ。
塩田 頭で理解してもらおうとしてもダメなんだ。 命がけっていう言葉は簡単だけど、それを実行に移すには自分を無くさにゃいかん。
木村 そうだ。 本当に無くなるからね。 死ぬというのは、どういうものかと思ってね、自分が試合に負けたら死んで見せるという気持ちを見せるとはどういうことかと思ってね、短刀を机の上に置いておいたんだ。(中略)本当に死ねるかどうか、ある時、ウーッと自分の腹に短刀を刺して見た。(中略)よし、あとは短刀を引っぱれば自分はいくな、と思った。 そこから先は気合だからね。 一気に引けばいい。 そのときに安心した。 よし、自分は本当に死ぬことができると確信を持った。
塩田 真に迫ってる、木村政彦って男は本当に大したもんだよ。 そこまでいけば恐いものは無い。拓大もすごい男を出したもんだ。 木村のような武の神髄を極めた男を出した大学は拓大以外にない。 拓大はもっと誇りを感じるべきだな。 東大なんて知識だけだからな。(笑) 頭じゃなく、実際に自分を捨てて体験する、体得ってことはなかなかできないんだ。
木村 塩田も、命がけを何度も体験してるんだろ。 当時はいろいろあったからな。
塩田 命がけねえ……。 まあ、もう昔のことだから話してもいいだろう。(中略) それまで、合気道の練習をしてても自分が強くなったかどうかわからなかったんだが、日本を発つ時、先生が、「塩田はん、あんたはもうどこへ行っても負けんから」と言ってくれた。 それでも自信はなかったんだが、この事件をきっかけに、死に直面したとき、いかに自分を捨ててしまうかを学んだような気がする。日本へ帰ってから、日本全国の警察予備隊に指導に回ったが、1度もおくれを取ったことはない。
木村 命を捨てるっていえばね、俺は本当に自分の命を捨ててしまったような不思議な経験があるんだ。(中略)稽古に行ったとき、学生が82名もおってね、全員が猛練習していた。 当時は強かったんだ。 高等師範といえば。 よろしくお願いしますって言ったら道場に上げてくれてね、かかり稽古だ。 俺が学生選手権をとったもんだから、こいつをブッ倒せって相手は向かってくる。 こっちは投げられまいと必死だ。 膝でも着いたら一本になると思ったからね。1人5分でやって、70人目くらいかな。 やってるうちに気が遠くなって、それでも奮起してやってたら意識不明になって、前のめりにブッ倒れた。 しかし、自分の体は動いてるんだな。 気を失ったけども攻防の技術を尽くして戦っている。 それから自分がどこに行ったのかわからない。 見ると、高等師範の学生が15人くらい集まって、道場の片隅で何か見てるんだ。 俺は稽古をしながら、あいつら何を集まって見てるんだろうと思って、ソーッと見ると、誰かが長々とノビている。 上からのぞいて見ると、アッ俺じゃないか。(笑)ノビてる俺の顔を見ると安心立命だね。 本当ににこやかに寝ている。 その寝姿がいいんだよ、本当に魅力的に感じた。
塩田 どっちが現実なんだろう。
木村 それがね、どっちが本物かと思いつつ俺がここにいるなら死んだのは誰かなと思いながら稽古は終わった。人間っていうのは、死ぬ寸前、霊界に行く前にね、何かがあるんじゃないのかな。
塩田 よく死ななかったな。
木村 7時間ぶっ続けだからな。 一度も膝を着かなかった。 もうろうとしていたが、帰るときには鼻歌を歌いながら帰っていったら、みんなびっくりしていた。(笑)
塩田 今、木村が言ったように、霊というか精神力の驚異を俺も目のあたりにしたことがある。(中略)肉体は滅びても精神は向上せにゃならん、というのが、先生の考えだったから、だから”ワシが昇天する前が一番強い”と先生は言っていたが、それも証明する話がある。先生はガンで亡くなられたんだが、死の数日前、もう骨皮スジエモンになっているのに、いきなり「稽古しよう!」と布団からハネ起きた。 絶対安静なものだから屈強の内弟子が止めようとすると、4人とも家の中から庭先までブン投げられたんだ。木村がさっき無意識で戦っていた話をしたけど、それは合気道の極意でもあるんだ。
ーーお2人の達人に、一般の人がどのように稽古すれば、その極意に近ずけるのか、そのヒントを教えて下さい。
木村 むろん稽古するしかない。 しかし、今の人にただ稽古をしろっていったってダメだろう。 ムダな稽古はしたくないだろうしな。 ただし、これだけは知っておくといい。 稽古には段階があるんだ。始めは強くなろう強くなろうと思って稽古をするけど、それじゃ芸がない。 ある段階になると、人はまわりの人から強く思われたいんだ。 強いところを見せたいから相手を投げたい。 でもそれじゃダメだ。 自分はどういう技をマスターしたいのか、その意志をはっきり持ったら、相手から投げられようが、どうしようが関係ない。俺は大外刈りにこだわってきたから、負けても大外刈りだった。 その技をマスターしようと思ったら、初心を貫徹する。 稽古で裏を取られてカーッとなるんじゃ、せっかくの技が我流で固まってしまう。 そこで、今まで研究したもんが何もならなくなる。
塩田 基本だよな。 基本を身につけないうちに絶対にその先に行けない。俺が植芝先生に教わったときは、毎日何を教わるのかわからなかった。 ものすごい高度なことをやる日もあれば、翌日は基本的なことをやる。今、自分が合気道を指導する立場になって自分の経験から数少ない基本を取り出して、まずそれを徹底して身につけさせるようにしてる。
木村 俺が独りで練習してるときも、ほとんど基本の繰り返しだった。でも、ある程度のところまで行ったら、伝統的な型をそのまま反復するだけじゃなく、その動作の持つ意味を理解しなくちゃいけない。どこに相手を投げるか、こっちに投げるか、投げる方向が違ってくると、それによって手の引きとか腰の落とし具合が全然違ってくるんだよね。 ここに投げるんだと決めれば、それに対する手の引き、腰の位置、脇のしめ方、腰の入り方が決まってくるわけ。 それを今の人は研究せず、昔の型をそのまま繰り返している。 人間は背の高い人もいれば低い人もいる。 それによって、技も変わってくるんだ。 理論を理解できないと、その人にあった技を研究することはできない。
塩田 技を徹底して体に浸み込ませれば、あとは相手に対しても自然に技が出る。 木村が無意識で戦ったというけど、それは徹底して技を体に浸み込ませた上でのことだ。 ああして投げてやろう、こうして投げてやろうと思っているうちはダメだ。おそらく木村のような達人は無意識にやってるんだろうけど、合気道では、それを呼吸力と言う。 力でない力、相手に併せて自然に出る力だ。 リズムといってもいいね。呼吸は3種類あって、「吸う」、「吐く」、「止める」がある。 吸う息は相手を誘うが、吐くときは極限の力を出すとき、止めるときは瞬発的な動きをするときなんだが、この3拍子に、中心線を合わせる。 どんなときでも頭と足の先を結ぶ中心線を崩さなければ、相手に投げられない。自分の方から、この技をかけてやろう、と気が先走ると技があとに来るから、そこにズレができる。 息との関連性がない。 しかし、呼吸と動作が一致すれば、あとは相手との呼吸を合わせるだけで良い。 相手の動きに応じて自分が反応できるわけだ。知らぬ間に相手の体を崩して、投げることができる。 これが自然体だ。木村が、どんなに大きな相手でも投げ飛ばすことができたのは、自然体をマスターしてたからだろう。木村が選手権をとったときは無になっていら。 相手が木村の思うように動いてくれるんだ。 自然が味方してるんだから。
木村 自然かどうか知らんが、自分は試合の前の日から勝つのはわかっていた。 勝つか負けるか試合の前の日に正座して考えるんだ。 禅と同じでね、すると自分の勝つ姿が浮かんでくる。 そうしたら神仏に明かりをつけて、勝利を祈願すると、翌日はどんな相手も小さく見えて、そして前の日に見た通りに勝つんだ。 試合の前の日には勝つか負けるか煩悩になやまされるからね。 塩田がいうように、煩悩を払って、自然体で臨むようにしていたのかもしれないな。
塩田 合気道も柔道も、動作は違っても、根本は同じなんだ。 山の登りにはいろいろあっても頂上は同じようにね。
木村 登るには稽古しかない。
塩田 若いうちは自分の持っているものを全てハキ出すくらいに打ち込め。 闘志でも腕力でも出しきることが大事だ。 極意だの自然体だのは、年をとってから考えればいいことで、若いうちはガムシャラに突進していくことだ。
木村 武道の国、日本の伝統を受け継ぐ若い人間に登場してきてもらいたいもんだな。
如何でしたでしょうか? ところで、増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の最後の最後に興味深い話が出ていましたね。 実話なのかどうか、裏を取れる話では無いのですが、一挙に伝説が広がった感じがします。それと大山倍達総裁の話も少し出ていました。早く書籍化して欲しいものです。それから、今号の「月刊フルコンタクトKARATE」2011年7月号に、不動禅少林寺拳法の特集が載っていましたが、その中に元金剛禅少林寺拳法の白蓮会館館長 杉原正康館長と、元不動禅少林寺拳法の太道奥旨塾宗師 中井道仁宗師の対談がありましたが、この中でちょうど当ブログで連載中の「極真空手と少林寺拳法の抗争」について話しているところがありました。 それにしてもタイムリーな記事だwそれでは、また。
参考文献:
1987(昭和62)年12月号『月刊フルコンタクトKARATE』福晶堂
2011(平成23)年07月号『月刊フルコンタクトKARATE』福晶堂
1972(昭和47)年『ケンカ空手 世界に勝つ』大山倍達著 スポーツニッポン新聞社
http://www.masoyama.net/?eid=85&fbclid=IwAR1XjrTr_3PNsE6rEZHzBkSEwnxdquiETIgSYfN1vfu40dHnhaVnRgV7Kxk#gsc.tab=0
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・3.5mmシングルエンド&4.4mmバランス ライン/ヘッドフォン出力
・PCM768/DSD512ネイティブ対応
・XRC再生
PCMとDSDのアップサンプリング再生、またPCMとDSDの相互変換再生に対応
・Bluetooth音声送受信機能 LDAC受信機能はファームウェア v1.3.0.3以降
SBC/LDAC対応
※DSD256/DSD512フォーマットのBluetooth送信は非対応
・USB-DAC機能
真のエイシンクロナス伝送
USB Audio Class 2.0準拠により、各OS標準ドライバーにて対応
※Windows 10 Creators Update(1703)以降/Mac OS 10.6.8以降等、USB Audio Class 2.0ドライバ搭載OSにて動作
対応フォーマット:PCM768kHz/DSD256(DoP)
2つの動作モード:PCモード(バスパワー供給有)、Phoneモード(バスパワー供給無)を備え、モバイル端末との接続も対応
USB-DAC時のボリュームはソース機器のソフトウェア設定ボリュームと連動
対応ソフトウェアの一例:Audirvana Plus/HF Player
・ファームウェアオンラインアップデート
・ギャップレス再生
・USB Host機能
PAW Gold TOUCHをUSBトランスポートとして、USB-OTGケーブルを用いてUSB-DACを接続可能
対応フォーマット:PCM768kHz/DSD256(DoP、もしくはPCM変換再生)
※対応するUSB-DACの要件
*USB Audio Class 2.0準拠
*Type C接続でない場合には、対応するUSB-OTGケーブルが必要となります
*バスパワー動作のDACを接続する場合には、本体の放熱に十分留意ください
・日本語検索機能
製品の仕様
対応フォーマット DSD64/128/256/512 DFF / DSF / ISO
PCM 44.1-768kHz WAV / FLAC / APE
OGG / M4A / AAC / MP3
DSP IC ADI Blackfin 706
DAC IC AKM4497EQ
XRC IC AKM4137EQ
ヘッドフォン・オペアンプ OPA1622 / OPA1612 / LME49600
USB USB3.1 Type-C
ストレージ UHS-II SDカード(2TB最大)
バッテリー容量 5200mAh
Bluetooth対応コーデック SBC/LDAC
サイズ 119×68.6×21mm(突起物を含まず)
重量 365g
バランス・ヘッドフォン出力(4.4mm)
周波数特性 +0.005/-0.38 dB (20~20kHz)
THD+N 0.00015% @1kHz(20~20kHz, A-weight, no load)
S/N比 127dB (20~20kHz,A-weight)
出力レベル +16dBu(high gain) -4dBu(low gain)
チャンネル・セパレーション -126dB
ダイナミック・レンジ 127dB@1kHz (20~20kHz,A-weight)
アンバランス・ヘッドフォン出力(3.5mm)
周波数特性 +0.006/-0.38 dB (20~20kHz)
THD+N 0.00020% @1kHz(20~20kHz, A-weight, no load)
S/N比 125dB (20~20kHz,A-weight)
出力レベル +16dBu(high gain) -4dBu(low gain)
ダイナミック・レンジ 126dB@1kHz (20~20kHz,A-weight)
バランス・ライン出力(4.4mm)
周波数特性 +0.005/-0.38 dB (20~20kHz)
THD+N 0.00015% @1kHz(20~20kHz, A-weight, no load)
S/N比 127dB (20~20kHz,A-weight)
出力レベル +16dBu
チャンネル・セパレーション -126dB
ダイナミック・レンジ 127dB@1kHz (20~20kHz,A-weight)
アンバランス・ライン出力(3.5mm)
周波数特性 +0.006/-0.38 dB (20~20kHz)
THD+N 0.00020% @1kHz(20~20kHz, A-weight, no load)
S/N比 125dB (20~20kHz,A-weight)
出力レベル +16dBu
ダイナミック・レンジ 126dB@1kHz (20~20kHz,A-weight)
標準的な小売価格:605,000円(税込)
JAN:4589631464789その他の仕様、構成については、PAW Gold TOUCHオリジナルモデルに準じます
上記仕様は予告なく変更する場合がございます。
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列車と軽自動車が衝突 2人が負傷 JR山陽線 広島市の踏切
‡2021(令和三)年09月09日(木)18:51配信 RCC中国放送 RCC BROADCASTING CO.,LTD.
9日午前、広島市にあるJR山陽線の踏切で、列車と軽自動車が衝突し、2人がけがをしました。事故があったのは、広島市西区高須の踏切です。警察によりますと、午前7時半ころ、白市発・五日市行きの普通列車と軽自動車が踏切内で衝突しました。「JRが警笛を鳴らして、ガーツと鳴らしてから止まって。低い音だった。ドスーンというような音だった。」(近くの人)軽自動車を運転していた男性と助手席にいた男性が骨折をして入院しましたが、命に別状はないということです。現場は、JRと広島電鉄の共同踏切で、JR西日本によりますと、運転士が踏切に進入する軽自動車を見つけ、非常ブレーキをかけましたが、間に合わなかったということです。この事故で、山陽線は、西広島駅から岩国駅までの間でおよそ4時間半にわたって運転見合わせとなり、通勤・通学の時間帯におよそ4万2000人に影響が出ました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/22f7147424e8a04109668d8c3e83f1e8f564b1d3
参加者各位
おはようございます。参政党福岡支部です。先日は国政政党誕生「予祝パーティー・サテライトin福岡」にご参加いただき誠にありがとうございました。おかげさまで幕張の熱をリアルタイムで共有することができました。学びを通じた集いで得られるものは単なる知識ではなく人と人との「つながり」だと再確認いたしました。さて、このたび参加者特典と茂木先生のアーカイブをお届けすることになりあしたので以下の通りご案内いたします。
◆特典:予祝限定販売オリジナルTシャツのご購入
サテライトin福岡会場参加者のみの特典となりますので情報共有はご遠慮ください。詳細は購入希望フォームをご確認ください。締め切りは
2022(令和四)年9月9日(金)です。
予祝限定グッズ購入フォーム https://forms.gle/gQZV4YBC3M2FxrkKA
◆茂木誠氏のパートのアーカイブ動画
音声トラブルにて茂木誠氏の講義で聞き取りにくい部分がありましたため、茂木氏パートのアーカイブ動画を送付いたします。
また、ご視聴の際には、パスワードの確認が行われますので下記をご入力ください。
ユーザー名:sanseito
パスワード:u2FNeLM8
※視聴期限は令和4年11月30日(水)までとなります
※視聴用URLやパスワード、動画の転載は固く禁じます
◎YOSYUKU PARTY MOVIE 国政政党誕生 予祝パーティー動画(茂木氏講義パート)動画の視聴期限は令和4年11月30日までです 視聴期限を迎えたため動画の公開は終了いたしました。
動画視聴用URL https://www.sanseito.jp/yosyukump/
‡SATORISM TV.1⑨⑨「悲報!マジで言いにくいけど、
国民の76%がエ〇ズになった可能性!
頼む!嘘だと言ってくれ!」
映像◆https://www.nicovideo.jp/watch/sm39664823