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┃ The Ghost of Tom Joad Tour ┃
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日本公演通算11回目
‡1997(平成九)年01月29日(水) 東京国際フォーラムホールA
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルース・スプリングスティーン#日本公演
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┃ 『Brian Wilson presents Pet Sounds』 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛LIVE
2002(平成14)年01月27日(sun) Royal Festival Hall, London UK
2002(平成14)年01月28日(mon) Royal Festival Hall, London UK
‡2002(平成14)年01月29日(tue) Royal Festival Hall, London UK
2002(平成14)年01月30日(wed) Royal Festival Hall, London UK
2002(平成14)年06月03日(mon) UK Released ※wikiJP
2002(平成14)年06月11日(tue) US Released ※wikiJP
2002(平成14)年07月31日(wed) JP Released ※wikiJP TOCP-66088
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https://www.amazon.co.jp/dp/B000069L05
https://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Wilson_Presents_Pet_Sounds_Live
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ビートルズ「最後のライブ」はなぜ屋上だったのか 『ジョン・レノン 最後の3日間』Chapter37
2022(令和四)年01月02日(日) 21:00 ジェイムズ・パタースン
写真◆Martin Wahlborg/iStock(c)東洋経済オンライン
エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、米国人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞している米国でも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。その著者が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった2020年12月、満を持して上梓したのが、ニューヨークタイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter32・35・37・39から抜粋し、東洋経済オンライン限定の試し読みとして4日連続・計4回に分けてお届けします。
■一緒にいようよ――「レッツ・ステイ・トゥギャザー〈Let’s Stay Together〉」■ ビートルズは、『ハード・デイズ・ナイト』や『ヘルプ!』の撮影にも使われたトゥイッケナムのスタジオに戻った。英国での10枚目のアルバムとなる『レット・イット・ビー(Let It Be)』(当初タイトルは『ゲット・バック(Get Back)』になるはずだった)の制作過程を追った映画を作ることになったのだ。撮影監督には、『ローリング・ストーンズのロックンロール・サーカス(The Rolling Stones Rock and Roll Circus)』(この作品は結局お蔵入りとなり、1996年まで公開されなかった)の監督を務めたマイケル・リンゼイ=ホッグが選ばれた。この企画についてバリー・マイルズは、「あれもまた、ポールのアイディアだった」と説明している。タイトル・ソングの「レット・イット・ビー」は、10年前、1957年に亡くなった母マリーが、ポールの夢に出てきたことに着想を得て書かれた曲だった。
「僕たちは、またツアーに出るべきだと思うんだ」1968年のクリスマス前、ポールが言った。
「小さなバンドが、旅をしてクラブやなんかで演奏する。初心に戻って、そういう僕たち本来の在り方を思い出そうよ」ポールの言葉の背後には、ビートルズが初めて直面しつつある新たな問題があった。金銭的なプレッシャーだ。というのも、その年の10月、ビートルズは、財務状況の窮状を訴える専属会計士からの手紙を受け取っていた。そこには、1万ポンドの支出につき12万ポンドの収入がないと、莫大な額の税金を支払うことができないと記されていた。このころまでに、アップル社の経営は、深刻な悪循環に陥っていたのだった。
「もう、これで終わりだ」映画『レット・イット・ビー』のラストを飾るコンサートについて、リンゼイ=ホッグは、あるアイディアを膨らませていた。サハラ砂漠か、あるいは大型客船を舞台として、さまざまな文化の人々がともに集い、世界平和を祈るという、壮大な案だ。
「ビートルズが、日の出とともに演奏を始めるんだ」リンゼイ=ホッグは4人に説明した。
「そこに、1日かけて方々から人々が集まってくる、っていうのはどうだろう」
「ローマの円形劇場のレプリカを作って、そこに僕たちがライオンを何頭か率いて現われるっていうのはどうかな」と、ポールが提案した。
「リバプールに戻ろうよ」とリンゴが割って入る。
「キャバーン・クラブ〔ビートルズが初めてギグをした場所〕にさ」ジョンの案は、こうだった。
「僕は、アシュラム〔以前ビートルズが瞑想訓練で数カ月滞在したインドの僧院〕でやったらどうかと考えているんだけど」なんといっても、世界一のバンド、ビートルズの映画だ。見たこともないような、大胆なエンディングが必要だった。一方、ジョージにも考えがあった。
「もう、これで終わりだ」カメラが回る中、ピリピリしたムードで続けられていたリハーサルの7日目の昼食中、ふいにジョージが言った。
「クラブで会おう」ジョージはそのままスタジオから出ていき、14歳で加入したバンドを去ったのだった。ジョンは、これを聞いても落ち着いていた。
「月曜か火曜になってもジョージが戻らなかったら、エリック・クラプトンにギターを弾いてもらえばいいさ」とジョンは言い放った。それは、それほど突飛な案というわけでもなかった。9月の初め、『ホワイト・アルバム』の収録中に、ジョージはクラプトンを招いて「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス(While My Guitar Gently Weeps)」を録音していたのだ。
「考えなきゃいけないのは、もしジョージが辞めたとして、それでもビートルズを続けたいのかってことだ。僕は、続けたい。だれかほかのメンバーを入れて、前に進むだけだ」と、ジョンは皆に告げた。
■「屋上でやったら素晴らしいんじゃないだろうか」■ジョージは
1969(昭和44)年01月10日(金)にビートルズを脱退し、
1969(昭和44)年01月15日(水)に戻ってきた。だが復帰後も、ツアーを再開するという案にジョージは断固として反対した。
‡1969(昭和44)年01月29日(水)になっても、コンサートシーンの撮影場所は決まらないままだった。そしてついに、あるアイディアが降ってきた。ジョンはリンゴに意味ありげな顔をしてみせ、こう言った。
「屋上(ルーフトップ)でやったら素晴らしいんじゃないだろうか。ウェスト・エンド中に向けて演奏するんだ」ジョンはリンゼイ=ホッグに向かっていたずらっぽく微笑んだ。ロンドン市民を驚かせたゲリラ・ライブ計画は、こうして始まった。翌
1969(昭和44)年01月30日(木)の午後1時、アップルの幹部たちは、サヴィル・ロー3番地の本社ビルの屋上に集まるようにという緊急通知を受け取った。現地ではすでに、仮設ステージを組み立てる大道具スタッフや、ケーブルの束を抱えたエンジニアたちがあたりを走り回っていた。ジョンたちは頭を寄せ合って、曲目をもう一度確認した。4人揃って人前で演奏するのは、じつに4年ぶりだ。ジョンは、緊張でおかしくなりそうだった。だがそれはポールたちも同じことだった。ジョンは、彼らの目にも緊張がありありと現われているのを見て取った。
「ステージに出たくない」と、ジョージがごね始める。「だいたい、なんのためにこんなことするんだ?」と、リンゴもぼやいた。こんなとき、ゴーサインを出すのは、やはりジョンの役目だった。
■オープニング・ナンバー「ゲット・バック」■ヨーコの毛皮のコートを羽織り、眼鏡を直すと、ジョンは楽屋から屋上へと続く階段を登り始めた。その日はテムズ川から強風が吹いていて、ヘリコプターからの空中撮影はできそうになかった。こうなると、メンバーのクローズアップのショットと、通りに集まる人々のショットをうまく?いでいくしかない。ジョンの手は、ギターの弦を押さえられないほど冷え切っていた。彼は用意されたギターをどうにか手に取り、ビリー・プレストンの見慣れた顔を見やった。ビリーは、1962年にビートルズがリトル・リチャードのバック・バンドとしてツアーをしたときに出会ったアメリカ人のR&Bキーボーディストで、電子ピアノでこのセッションに参加していた。ケン・マンスフィールドは、4本のタバコに火をつけた。吸うためではなく、ジョージの指先を温めるためだ。オープニング・ナンバーの演奏が始まった。「ゲット・バック」だ。通りすがりの人々がビルの前で歩みを止め、次々に上を見上げて、空を指し始める。
「その通り」とジョンは言ってやりたかった。ビートルズのフリー・コンサートだ。1966年のキャンドルスティック以来、初めてのライブが、たったいま、きみたちの頭上で始まったのさ。この様子を文字通り通行人の頭上から捉えていたのが、アメリカ人カメラマンのイーサン・ラッセルだった。ジョンから依頼を受けたラッセルは、屋上から隣のビルの壁によじ登るという危険を冒して、演奏するビートルズの姿を頭上から撮影することに成功した。ロンドンの街を背景にしたジョンとポール、ジョージ、リンゴ――世界で最も有名なロックローラーたち――の姿は、周りを取り囲むほかのすべての人々と同様に、小さく見えた。
「彼らも、普通の人間なんだ」シャッターを切るラッセルの心を、そんな思いがよぎった。
■ビートルズ、伝説のラストライブ■ビートルズはこの日、42分間にわたって5曲を披露した。
「ゲット・バック」は3バージョン、「ドント・レット・ミー・ダウン(Don?t Let Me Down)」と「アイヴ・ガット・ア・フィーリング(I?ve Got a Feeling)」は2回ずつ演奏したので、テイクは9回分だった。ロンドン警視庁からやってきた警官たちは、アップル本社のビルを取り囲み、スタッフにこう言い渡した。
「10分間やる」とはいえ巡査たちとて、もちろんビートルズのファンだ。約束の10分が過ぎても、すぐに演奏を止めることはしなかった。そしてついに、警察がビル内部に立ち入り、屋上に向かった。スタッフたちは念のため、大急ぎでトイレに駆け込んでドラッグを流した。警察が屋上に辿り着いたところで、コンサートは終了した。ジョンは、マイクに向かって語りかけた。
「バンドを代表して、お礼を言いたいと思います。オーディションに合格できたならいいんだけど」ポールとジョージ、リンゴは、これを聞いて微笑んだ。4人の胸にある想いは、同じだった。僕たちはいまでも、世界最高のロックンロール・バンドだ。このルーフトップ・コンサートがビートルズとして最後のライブになるかもしれない予感はあったか、と2019年のインタビューで聞かれたポールは、こう答えている。
「いいや、そんなふうには感じなかったよ。ほかのメンバーも同じじゃないかな。ただたんに、たくさんの曲を書いてリハーサルをした成果として、あそこで演奏しただけだった」だが終わりというものは、必ず訪れる。予感のあるなしにかかわらず。
◎最後の「Get back」の演奏中にアンプのプラグを抜かれてしまったときのジョンの苛立ち。ポールとリンゴだけで何事もなかったかのように演奏を続けた。その後、ジョージがプラグを差し込んだ。ギター演奏を再開した時のジョンのドヤ顔。そして、演奏後の例のジョーク。最高のドラマだった。何回でも観たい。ビートルズは、最後の最後まで奇跡だった。
◎結果的にセッションが失敗したのは、ポールの拙速さが原因だと思う。ライブショー開催や、その場所をどこにするのかすらメンバー全員の同意がないままにトゥイッケンナムスタジオに集まっちゃてる。これは致命的。事前にしっかり話し合っていれば、なんら問題はないようなものだけど意思疎通が出来ない状態になってたのではないかな。あとジョージは、クラプトンの演奏力を称賛しているシーンがあったけど、当時台頭してきたクリーム フー 、ザバンド等の演奏力に驚異を感じていたんじゃないかな?ジョージのギタープレイは、それ以前とはだいぶ変わってきているしね。
◎The whoのピートタウンゼントはアルバムを制作するにあたって スタジオでの「このだらけたグダグダな時間」がどうにも嫌で 自宅のスタジオで一人多重録音によるデモテープを必ず制作しメンバーに渡していた 効率性は仕事のカテゴリーで重要なポイントだ 正に「ゲットバック」を見て痛感する 化学反応を狙うにしても程がある 作品としては「よくぞ丹念に再編集してくれた」と賛辞を惜しまないが……
◎そうなんですね。布袋さんのboowy時代のインタビューで、「俺ピート・タウンゼントに近いかもしれない」って言ってた意味が分かりました。
◎集まってセッションしながら曲仕上げようとすると絶対ダレる。意見や方向性も交錯して煮詰まったり、しまいには収拾つかなくなったりする。よくなんとか最終的にまとめたよ。演奏力も抜群ですね。ポールがピアノ弾いてた時にベースが聴こえた気がしたが。ギターをオクターブ下げるイフェクターでも使ってたのか。ジョンのギターを弾く手がベースをやっているようにも見える場面があったような気がした。あのマイクはあの当時としては随分洗練されたデザインだなあ、なんて思いながら見てた。ケーブルが無くて細いポールの先にマイクが付いているだけ、ってやつ。
◎余り知られていないが・・・・前年の
1968(昭和43)年12月07日(土)にジェファーソン・エアプレインがニューヨーク・マンハッタンのビルの屋上でライブをおこなっていたんだよな。逮捕されるのを危惧して1曲だけだったそうだが・・・・。最終的に「警官に羽交い締めにされて逮捕され、そのシーンを映画のラストに使いたかった…」とリンゴ・スターが語っている---。勿論ビートルズの方が迫力が有り中身も濃かったけどね。◎ルーフトップコンサートは昔見た事があります。近くのビルのお爺さん(オーナーか?)がパイプを咥えながらビルに設置されている梯子階段をゆっくり登ってコンサートを眺めているシーンが印象的でした。「おやおや、何が始まったんだい?」とばかりに。かなりの大音量だったと推測出来ますね。町中大騒ぎだった事でしょう。
◎「私たちがオーディションに合格できるといいのですが」これは7年前の
1962(昭和37)年1月1日(月)にビートルズがデッカのオーディションを受けて落ちたことをジョンが根にもっていて発言したんだろうね。ビートルズをオーディションで落として一躍有名になったデッカレコードのA&R(アーティスト・アンド・レパートリー)部門の部長ディック・ロウはそれに凝りて
1963(昭和38)年5月6日(月)、当時全く無名だったローリングストーンズとレコーディング契約をする。
◎その頃はクリームやジミヘンが台頭し、圧巻のライブ・パフォーマンスを繰り広げていた。ザ・フーも全盛期を迎え数々のライブで評判を得ていた。ビートルズのメンバーも当時のシーンには敏感でジョンはブルース・ロックに傾倒し、ジョージはクラプトンと交遊を温めていた。ビートルズは、このままレコーディングするだけのバンドとして存続するのが最善なのかメンバーは苦悩していたと思う。ライバルのストーンズも休止していたライブツアーの再開を迫られ、過度の薬物中毒に陥っていたブライアンを解雇し、新進気鋭のM・テイラーを迎え第二期黄金時代を幕開ける。
◎「Get Back」で分かるのは、撮影時にはメンバーが予定していたことをやらずに引き延ばしたり、やる気を失っていることだった。だれけた状態で撮影した映画などいい出来になるわけがない。いい出来の映画であれば、すぐにでも公開、上映されたはず。しかしそうではないので、50年後になって公開されたのではないかと思う。ファンとしては見る価値があるし、見てよかったと思う。解散直前のメンバーの状況を知ることが出来たのは、ファンとしては嬉しいこと。また、見なければ後悔するであろうことは間違いない。しかし、数年後にまた見てみたいと思うような映画ではないというのが正直な感想。年末に公開された『マッカートニー 3,2,1』の方がずっと良かった。
◎あの4人の状況で素晴らしいパフォーマンス、下積み時代からのライブバンド魂が伝わりました。あんなふうに演奏してみたい 20代
https://news.yahoo.co.jp/articles/04647693078b0abe0ca22168672b11b3bcaeddab
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┃♪LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS♪┃Elton
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ John
1974(昭和49)年11月15日(fri) UK released
1974(昭和49)年11月18日(mon) US released
‡1975(昭和50)年01月29日(wed) RIAA GOLD認定
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https://en.wikipedia.org/wiki/Lucy_in_the_Sky_with_Diamonds
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┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
┌─―――――――┐ Top row <一行目>
06|W.C. Fields |『Wikipedia』コメディアン/俳優
06|W.C.フィールズ|『discovermusic.jp』
└─―――――――┘アメリカのライター/コメディアン/俳優。無声映画とトーキー映画の両時代に活躍したW.C.フィールズは、万能エンターテイナーの典型例だ。彼の喜劇映画はザ・ビートルズ自身のユーモアを加速させ、また、彼の出自となったヴォードビルの世界は「Your Mother Should Know」といった楽曲に影響を与えたヨ(=^◇^=)
‡1880(明治13)年01月29日(thu) Born
1946(昭和21)年12月25日(wed) Died. 66 years old
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https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
‡https://en.wikipedia.org/wiki/W._C._Fields
https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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パリ映像◆https://v.youku.com/v_show/id_XMTE1MTQ1ODU2.html
音源◆The Beatles - Recording Session, https://youtu.be/sf7MZNP-jNc
‡January 29, 1964
EMI Pathe Marconi Studios, Boulogne-sur-Seine, France - January 29, 1964
01. Komm, Gib Mir Deine Hand (Various takes) [0:00]
02. Sie Liebt Dich (Unknown Take) [0:34]
03. Can't Buy Me Love (Take 1 - Excerpt) [0:46]
04. Can't Buy Me Love (Take 2 - Excerpt) [1:25]
05. Can't Buy Me Love (Take 3 - Excerpt) [2:10]
06. Can't Buy Me Love (Take 4 - Count In) [2:35]
It was The Beatles first ? and only ? EMI recording session outside the United Kingdom. John Lennon and George Harrison flew back to Paris on an early flight from London, following their brief return to England the previous day. The session had originally been scheduled to take place on 27 January 1964, but The Beatles had proved reluctant to attend. "Komm, Gib Mir Deine Hand", a fairly crude reworking of "I Want To Hold Your Hand", was the first to be recorded. They completed it in 11 takes, recording new vocals over the original rhythm track. 'Takes 5 & 7' were edited together and was then copied onto a second twin-track tape. Handclaps were then overdubbed and the song was completed. "Sie Liebt Dich" was the next song worked on with a remake of the rhythm track since the original two-track recording no longer existed. Vocals were then recorded on a second twin-track tape. Since the band had made quick progress, they had time to record the rhythm track of a new song, "Can't Buy Me Love", which they completed in four takes. 'Take 4' was deemed satisfactory and overdubs followed on February back at their usual EMI Studios in London.
The second take of "Can't Buy Me Love" was released on "Anthology 1" with the guitar solo from 'take 1' spliced in.
The pictures are dated from January 29, 1964 (the very same session).
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┃ 『C'ETAIT A CAUSE DU SOLEIL (FRANCE 1964)』┃CD+DVD
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DVD DISC
1964(昭和39)年01月29日(wed)
Beatle Wigs in France ORTF News
January 29, 1964
https://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=38344031
【初の全米公演に向けて】
★1964(昭和39)年01月、ニューヨークのタレント事務所ジェネラル・アーチスツ・コーポレーション(GAC)の副社長のノーマン・ワイスは所属タレントのトリニ・ロペスとともにパリにいた。ビートルズのステージに出演していた関係でブライアン・エプスタインとノーマンはパリで初対面となる。
★やがて、アメリカ初公演の熱狂振りを見たノーマンはビートルズのアメリカ・ツアーは大きなビジネス・チャンスとばかりに、全米ツアーの契約をNEMSエンタープライズと結んだ。
★GAC側は総売り上げの10%を要求したものの、ブライアンは頑なに抵抗して最終的に取り分は5%で手を打つことに成功している。
https://beatlepedia.web.fc2.com/usa-tour-64.html
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┃ 『'LET IT BE' DAY BY DAY in color expanded』 ┃THE BEATLES
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【'LET IT BE’ DAY BY DAY in color expanded】マニア必携Mクローデル・レーベルより、初登場映像を数多く含んだ、1969年1月のゲット・バック・セッションの貴重な映像集である。しかも日付順に収録されているため資料的な価値も高い作りとなっている。今まで音源は数多く、ほとんど全てが流出しているが、こと映像となると淋しい限りの状況であった。本作ではそのような現状を解消する必見映像である。なかなか初登場音源ないし映像が出にくくなっていたビートルズのマテリアルを取り巻く状況において、この作品は驚きをもってマニアに受け入れられるであろうと自信を持っている。美しいピクチャー・ディスク仕様の永久保存がっちりプレス盤。スリップケース付。
DVD DISC ONE
Twickenham Film Studios 1969
‡1969(昭和44)年01月29日(wed) January 29, 1969
Dialogue
Rooftop Dialogue
Besame Mucho
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http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=120647554
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲット・バック・セッション
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┃ Exclusive:WITH A LITTLE HELP FROM THEIR FRIEND ┃By Mark Edmonds
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2005(平成17)年03月20日(sun)『The Sunday Times Magazine』に最初に掲載されましたヨ(=^◇^=)
First published in『The Sunday Times Magazine』20 March 2005
‡1969(昭和44)年01月29日(wed) January 29: "Show on the roof of Apple. Four policemen kept at bay for 40minutes while the show goes on."
With the Beatles in free fall, Mal busies himself with jobs for other Apple artists and fetching and carrying for individual Beatles. Throughout the 1960's he and Paul had an affinity, and in March 1969, Mall was one of just two witnesses at Paul's wedding to Linda Eastman in London. The same day, George Harrison's home is raided for drugs.
************* https://www.uta-net.com/song/44469
http://www.angelfire.com/band2/bffh/news/malsdiaries.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/マル・エヴァンズ
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┃ 『The U.S. Albums』 ┃BOX SET by THE BEATLES
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2014(平成26)年01月21日(tue) US released
‡2014(平成26)年01月29日(wed) JP released
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https://en.wikipedia.org/wiki/The_U.S._Albums
https://www.amazon.co.jp/dp/B00H8XF9I0
https://www.amazon.co.jp/dp/B00H9ZZX88
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┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃
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1995(平成七)年11月20日(mon) UK Released
1995(平成七)年11月21日(tue) US Released
1995(平成七)年11月21日(tue) JP Released
□Disc two (CD2)
◎LP D面 (Record Disc 2)
08."Can't Buy Me Love" (Takes 1 & 2)
‡1964(昭和39)年01月29日(wed) Pathe Marconi, Paris, France 2:10
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https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTWQN3X
https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDFSO
https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
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┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃
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1996(平成八)年10月28日(mon) JP Released
1996(平成八)年10月28日(mon) UK Released
1996(平成八)年10月29日(tue) US Released
◇Disc two (CD2)
◎LP E面 (Record Disc 3)
11."Mailman, Bring Me No More Blues" (Savile Row sessions) Ruth Roberts, Bill Katz, Stanley Clayton
‡1969(昭和44)年01月29日(wed) Apple Studio 1:56
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https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDWNM
https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT36GH9
https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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┃ Wings Japan Tour 1980 ┃■中止★\(>▽<)/★
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1980(昭和55)年1月16日(水) ポールが大麻取締法違反と関税法違反で東京税関成田支署に現行犯逮捕
1980(昭和55)年1月21日(月) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月22日(火) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月23日(水) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月24日(木) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月25日(金) ポールは強制送還され成田空港を飛び立つ
1980(昭和55)年1月25日(金) ■中止■愛知県体育館
1980(昭和55)年1月26日(土) ■中止■愛知県体育館
1980(昭和55)年1月28日(月) ■中止■フェスティバルホール
†1980(昭和55)年1月29日(火) ■中止■大阪府立体育館
1980(昭和55)年1月31日(木) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年2月01日(金) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年2月02日(土) ■中止■日本武道館
【まぼろしの1980年公演】
ビートルズとドラッグの関係は彼らが現役時代から、何かと世間を騒がせてきた。ビートルズ解散後も特にポールは日本公演が2度までも幻となっており、われら日本のファンにとってドラッグといえばポールの名を思い出すことが多い。ここでは'80の1月に予定されていたウイングス来日公演について書いてみた。その直前の日本の盛り上がりにちょっと触れてみたい。'75年秋に予定されていた待望のポール・マッカートニー&ウィングスの来日コンサートが直前になって流れた。理由は「ポールにケシ栽培と麻薬所持の前歴ある」ということで、法務省入国管理局が来日に対してNO!を突きつけた。あの名盤「Wings Over America」のツアーの一環として、オーストラリア公演の次に日本へやって来る予定であった。ビートルズ武道館公演以来9年ぶりのポールのコンサートは、お堅い法務省の役人のつまらん判断により潰されてしまった。
【日本公演スケジュール】
1月21~24日、31日~2月2日 武道館大ホール S席¥4500 A席¥3800 B席¥3000
1月25、26日 愛知県体育館(武道館と料金は同じ)
1月28日 フェスティバルホール S席¥10000、A席¥8000、B席¥6000
1月29日 大阪府立体育館(武道館と同料金)
フェスティバルホールでのチケット料金が異常に高いが、なんと東京だけで7回コンサートがあり、
名古屋、大阪でもステージがあり、合計11回という大盤振る舞いだ。 今ではドーム公演で一回に数万人の観客動員があるが、当時はせいぜい一回で一万人が精一杯、しかし、やろうと思えば11回もポールを見ることも可能だ。またドームに比べて比較的近い場所でポールを見られる素晴らしい環境だったに違いない。ポールより日本のファンにメッセージが届いた。「念願の日本公演実現できることになって嬉しい。親子ともども日本でのコンサートを楽しみにしています。日本公演では特別のプログラムを用意して、必ず日本のファンの期待に応えたい」。今まで以上にビートルズ・ナンバーを取り入れ、日本の曲を1曲演奏することが確認された。「麻薬の前歴のある外国人は原則として入国させない方針でのぞんでいるが、何が何でも入国拒否というのではなく、前歴が軽いものであって、罪を犯してから8,9年たっていれば入国を認める」となんともあやふやな見解を法務省は発表した。 '75にポールの入国拒否事件から5年。この間本人はもとより、様々な関係者による入国許可のための努力があった。招聘元のウドー音楽事務所の根気強い交渉というか、各方面への根回しは相当のものだったという。またポールの要請によりヨーコ・オノが日本での人脈を活用して、なんと政財界を動かして働きかけを行ったという。しかし、一番忘れてならないのはファンの努力である。法務省への嘆願書提出、入国許可を求める数万人規模の署名活動、キャンドル行進などの涙ぐましい地道な、そして世論をも動かす素晴らしい活動があったのだ。こうした日本のファンの活動をポールは知っていたのだろうか?もし、知っていたのだとしたら、何故?こうしてポール、ファン、関係者にとって最悪の運命の日を迎える事となった、、、。
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http://music.geocities.jp/yjunchan_999/wings-maborosi-japan.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・マッカートニー#日本公演日程
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