過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のBOΦWYだヨ(=^◇^=)

 ┏━━━━━━━━━┓
 ┃ 現代日本の氷室 ┃
 ┗━━━━━━━━━┛
‡01月の最終日曜日に氷室小屋に雪が詰められ(氷室の仕込み)
 06月30日に雪を取り出し、これは「氷室開き」とよばれる。金沢市とその周辺では、
 07月01日に氷を模したといわれる氷室饅頭を食べて健康を祈る。昭和30年代、およそ1955(昭和30)~1965(昭和40)年に途絶えたが、
 1986(昭和61)年に復活した。しかし近年は暖冬続きで雪不足に悩まされることが多いうえ、氷室小屋を保有する白雲楼ホテルが1998(平成十)年に倒産したことから行事の継続危機が訪れたが、破産管財人の許可が下り、現在も行われている
********** https://ja.wikipedia.org/wiki/氷室京介
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%AE%A4
*************************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:鶴田正人】Vol.02┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡2016(平成28)年01月29日(金)
 2015(平成27)年10月01日(木) @西小山WAREHOUSEにて
 関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー!
 鶴田正人(Wooly magazine/Wooly arts代表/元東芝EMI BOOWY担当A&R)
1985年以降、東芝EMI(当時)にてBOOWYのアーティスト担当として、主にプロモーション、マーケティング面に力を注がれたBOOWY伝説の立役者のひとり。そんな鶴田氏に、BOOWYが東芝EMIに移籍してきた経緯、ロンドンでの海外GIG、音楽雑誌を活用したメディア・プロモーションなどについてレコード会社目線から語っていただいた。なお、鶴田氏はBOOWY解散後、社内レーベルを起こし100万枚を突破したドラマ『ロングバケーション』のサウンドトラック制作、800万枚をセールスした宇多田ヒカルのデビュー時のマーケティングを担当し、現在では独立されアートプロジェクト『Wooly(http://wooly-web.com/)』を運営されている。3時間に渡って繰り広げられた、数々のBOOWY伝説を裏付ける貴重な2万字トークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――鶴田さんは、これまで公の場でBOOWYについてお話をされてきませんでしたよね? でも、最近福岡でお話をされる機会があったとか。
 いま『Wooly』というアート・プロジェクトをやってまして、トークショーをやる機会が多いんです。福岡にもブランチがあって。たまたま、以前僕の部下で、その後布袋さんのマネージャーになった阿部くんと福岡で出会って「じゃあBOOWYの話でもしようか?」って自然になったんですよ。全然関係ないアートのイベントなのに、2人でBOOWYの話をしました。もちろん音楽だってアートだからね。それが僕としては人前でBOOWYについて初めて語った場となりました。なぜ急にやったかっていうと、いま横浜と福岡でラジオ番組を作ってるんですが、その番組にBOOWYのベルリンやロンドンでの写真を撮影してくれたフォトグラファー、ハービー山口さんがゲストで来てくれたんです。MCは雑誌『POPEYE』や『BRUTUS』の発行人のマガジンハウスの石渡健文さんと、僕が担当しているシンガー・ソングライターのQi Fang。その時にハービーさんが話してくれたBOOWY話に感動しちゃって。うちのミュージシャンも番組中に泣いちゃったんです、すごいでしょ? その時に、昔のことでもちゃんと伝えたら、すごい意味があるんだなってことを身をもって教えてもらいました。
――なるほど。
 それで、たまたまブッキングされていたアートイベントに阿部ちゃんが「挨拶しに伺います!」って言うから「一緒になんか話そうよ!」って。彼が以前マネージャーを担当していた布袋さんの話となると阿部ちゃんも緊張しちゃうだろうから「俺もBOOWYの話を初めてすることにしたから、君も付き合って。横で聞き役になって!」と説得をして。ちょうど一月くらい前ですよ。そうしたら、アートイベントなのに盛り上がっちゃって。いまでもBOOWYを好きな人がいっぱいいるんだなって。
――お~、それは嬉しいですね。しかも当時のスタッフが語る場は貴重です。
 ははは(苦笑)。ていうか、1988年の解散後、メンバーが語ってないから、余計ね。もうそれだけ。ほら、RED WARRIORSのダイヤモンドユカイとかさ、タレントとしてテレビ出まくっちゃってるじゃん? BOOWYは、むしろ封印しちゃったんだよね。そしてそれぞれが現役で頑張ってるし。誰も蓋をあけないからね。でも、本当のことを周りにいた人間が話すことって大事かもしれないと思って。僕がスイッチ入れられたのはハービー山口さんのおかげ。その会場にいた人たちも、まさかBOOWYの話を聞けると思ってなかったと思うんです。福岡のオシャレなカフェでやってはいるものの、田舎じゃないですか? でも、みんな「自分はBOOWYファンです!」ってカミングアウトし始めちゃって(笑)。アートのイベントだったのに全然目の色変わっちゃってさ。すごいバンドだったんだなと思いました。アートギャラリーのギャラリスト福岡NO.1ともそこで通じちゃうんです。あらためてBOOWYの影響力の大きさを知りました。面白かったですよ。
――それはすごいですねぇ。まさにBOOWYは、時代を超えて共有できる歴史に残るエンタテインメントってことですよね。ちなみに鶴田さんは、レコード会社である東芝EMIへ入社されたのって何年くらいですか?
 1981年頃だね。
――入社当時はどんなお仕事をされてたんですか?
 第2制作部といって、所謂『エキスプレス・レーベル』というニューミュージックの旋風を巻き起こしたセクションに配属されたから、長渕剛さんとか、寺尾聡のヒットで初めてボーナスもらったりしてました。小室哲哉さんがTM NETWORKの前にやっていた大所帯のバンドSPEEDWAYがいたり、オフコースもいたよね。
――名物プロデューサー、新田和長さんが活躍されていた部所ですね?
 そうです、新田さんです。よく知っているね?
――息子さんと同世代なんですよ。その頃、長渕剛さんのマネージャーだった糟谷銑司さん(BOOWYの事務所プロデューサー)にお会いしたんですか?
 長渕さんは大ヒット・プロジェクトだから、新入社員だった僕は糟谷さんとは接触できなかったんじゃないかな。糟谷さんとは、BOOWYのロンドンではじめてお会いしました。
――鶴田さんは、BOOWY以前はユーミンのプロジェクトにも関わられていたんですよね?
 そう。あの頃ってアリスが独立したり。僕が配属されたセクションがスタッフごと抜けて、ファンハウスってレコード会社を作ったり、東芝EMIは大変だったんです。
――それってすごいことですよね?
 僕をEMIに呼んでくれて、最初の初期設定をしたボスというか先輩の新田さんが、新しいレコード会社としてファンハウスを作っちゃったんです。しかもアーティスト連れていってしまって……。それで、どうしたものかと思ったら、当時ユーミンだけ動かなかったんですよ。それで、最若手だったこともあって、ユーミン付きになって。この経験は最高におもしろかったです。しかも一人でアー担だから、マネージャーさんと、ほとんどずっと一緒にいました。で、付き人みたいな修行で。ユーミンがプールで歌うときには、滑らないようにヒールの裏にゴムを張るのが初めてのユーミンの仕事でした。マネージャーに怒られながらね(苦笑)。
――えっ、それレーベルの人がやることなんですか(笑)
 そういう感じですよ。アー担と言ってもできることなんてそのぐらいでしたから(苦笑)。
――そこからBOOWYとの出会いへの期間は?
 えっと、数年ありますね。
――そうなんですね。その間もいろんなアーティスト担当されたり?
 邦楽の部所が抜け殻になったところで、シティ・ポップな山本達彦が出てきたり。角川映画のプロジェクトで薬師丸ひろ子とかね。後にユニバーサルやワーナーを立て直した石坂敬一さんの邦楽セクションが産声をあげたタイミングでしたね。
――そんななか、東芝EMIとしては新人や、ロックに力入れていこうみたいな風潮だったのですか?
 そうでもなかったかなぁ。でも、演歌とユーミンしか残ってなかったんですよ。そんな時にもともと洋楽にいらっしゃった石坂さんが邦楽畑に殴り込んで来たんです。ご存知の通り、ビートルズやピンクフロイドをやられていたロック一筋な方でしたから。そんな意味では一気にロックな風土ができたのかもね。
――その後、完全に東芝EMIというレコード会社は邦楽でもロックのイメージが固まっていきましたよね。
 とはいえ、エピックソニーの丸山茂雄さんがやられたようにゼロからやるノウハウもないじゃん? そうなるとどうするかって言うと、移籍に頼るしかないんだよね。石坂さんがもうガンガン契約をとって。そこにはRCサクセションがあり、サンディー&ザ・サンセッツがあり、M-BANDがいたんだよね。その移籍シリーズのひとつに、ビクターと徳間を経由してきたBOOWYがいたんです。
――BOOWYは、東芝EMIへは3社目の移籍だったんですよね。
 移籍です。当時の東芝EMIは、ひと月に2アーティストは契約してました。他社のロックバンドをね。で、我々は「あ、まただ」と思っていて。で、「鶴田どうだ?」なんて一番年下なのでよく聞かれました。そのなかにBOOWYという、全くスタッフの誰もが知らなかったバンドがいたんです。
――まだそういう存在だったんですね。
 だからまぁ新人ですよね。移籍っていうのも、担当になって調べたら「あ、移籍じゃん!」みたいな。
――しかも2社経由ですもんね。なぜ鶴田さんが担当になったのですか?
 ユーミンのプロジェクトが一段落したタイミングがあって、何も担当してない状態だったんです。今でも覚えているのは、いまはももいろクローバーZなどをやられているスターダスト出版の菅谷憲さんが課長で、まったく情報を知らないまま「お前BOOWY担当だからよろしくね!」って言われて「あ、頑張ります!」って。「早速だけどロンドン行ってくれる?」って言われて(苦笑)。「事務所やミュージシャンに現地で挨拶して」って(苦笑)。「いやだから、もう向こうにいるから!」ってせかされて。なんじゃこりゃと思って。初海外出張の手続きをしてるうちに、アーティストについて調べなきゃってなって、そうしたら先輩の子安次郎さんが担当だってことがわかったんです。「メンバーを子安が紹介するから」という話だったんですよ。
――ちなみに、東芝EMIとBOOWYを結び付けたのは最初のきっかけは誰だったんですか?
 糟谷さんが長渕をやっていたから、事務所のユイ音楽工房の代表の後藤由多加さんだと思いますね。後藤さんが、新田さんがいなくなった後に石坂さんとつながったんでしょうね。
――なるほど。
 石坂さんってプロモーションの主軸がラジオだったんですよ。音専誌でもファッション誌でも有線でもテレビでもなくて。もともと洋楽全盛期にラジオでヒット出していた人だから、なので、BOOWYを糟谷さんにつないだ東海ラジオのディレクター、加藤与佐雄さんとのパイプもあったと思います。ある種、洋楽の人って制作と言ってもA&Rじゃないですか? 石坂さんってやっぱり一流のビートルズのプロモーターだったから。
――そんな流れがもしかしたら、BOOWYのイギリスでのライブにつながったのかもしれませんね?
 そうかもしれないね。で、結局、子安さんはレコーディング、ミックスが長引いてロンドンには行けませんってことになったんですよ。「え、じゃあ俺は誰にアーティストを紹介されて、誰と仕事するの?」みたいな(苦笑)。でも、とにかく行けって。それなりに一生懸命調べて。でも音はないんですよ、かつての音しか。新作のレコーディング中なので。
――ああ、そうですよね。
 で、ミッションが2つあると言われたんです。キーとなるアーティスト写真をロンドンで撮影してこいと。そして「デビュー前の大トピックのために、ロンドンの伝説的なライブハウス、マーキー・クラブで日本人として初めてライブやるから、そこをちゃんと成り立たせて、且つトピックとして持って来い、日本での宣伝に反映させろ!」っていうのが僕のミッション。ただ、まだ入社したての若造でしたから。ユーミンで修業したとはいえ。まず海外に行ったことないし、英語はしゃべれない、バンドとは会ってないし、事務所の人とも会ってない、子安さんは来ないっていうし「ああヤバイ!」と思ったんですよ(汗)。しかも、石坂さんからは「絶対コーディネーターなんか雇うんじゃないぞ!」って言われて……。雇おうと思ってたのに(苦笑)。菅谷さんとは「雇っちゃえばいいんだよ。お前ロンドンわかんないだろ!」って話してたんだけどね。でも、石坂さんには「お前が全部自分でやれ!」って言われたんですよ。あと、もう一つミッションが増えちゃって。イギリス本国のEMIに連れてけって言われたの、BOOWYを。
――あ、本社ってことですね。
 そう。石坂さんに「これから日本でNO.1になるアーティストをEMIにプレゼンして来い!」言われたの。「あ、もう終わった、俺もうできない……」って思ったんだけど、まぁ一応やりましたよ。
――ちなみにロンドンへは誰と行ったんですか?
 音楽評論家の平山雄一さんです。
――新宿LOFTでの最初のライブも平山さんは観てらっしゃるんですよね。
 僕がBOOWYの情報をもらったのは、子安さんでも石坂さんでもなく、全部平山さんなんですよ、飛行機の中で。
――すごい、そうなんですね。
 平山さんがベーシックな、情報を全部教えてくれました。
――その時の平山さんの話で印象に残る話ってあります?
 すごいなと思ったのは、僕が何にもできそうにないというのを見透かされていて。でも優しくて、そしてフォトグラファーとしてハービー山口さんをブッキングしてくれたんですね。「ハービー山口がいれば写真は安心だから!」って。
――初の海外出張でロンドンに着いたときはどんな状況だったんですか?
 まずホテルに行ってメンバー4人とマネージメントの糟谷さん、土屋浩さんへ挨拶しました。ものすごい存在感を感じましたね。なんかこうキレがあるというか。挨拶自体は淡々としていたと思いますね。
――4人に会ってみて誰が一番印象的でしたか?
 そのときは氷室さんでしょうね。リーダーとしての立ち居振る舞いが素晴らしかったんです。アー担になってからもリーダーだなって思うシーンがいっぱいありました。BOOWYは氷室さんがリーダーのバンドなんだと感じましたね。
――ライブや撮影はどんな感じでしたか?
 ロンドンでは、3月12日にマーキー・クラブでライブをやって、それが終わってリラックスしてから、街で写真撮影をしました。マーキー・クラブでのライブは、本当になんだろ、ものものしいというか、すごい緊張感がありました。リハの後も毎日深夜にミーティングをしてたんですよ。ユイが雇ったコーディネーターとメンバーと我々でミーティングをする毎日。一つにはライブを成功させること。そして、あわよくばロンドンで話題にしたいというレベルの高い目標がありました。で、もう一個驚いたのは、マーキー・クラブでライブをやるリスクがあったんですね。最悪壊し屋というか、パンクな輩が、日本人がこんな伝説的なクラブに来るなんて許せないって潰しに来るだろうっていう最悪のシナリオの対策も考えていて。時代ですよね。なので、いわゆるニュース作りですごい楽しみだねって感じでは全くないんです(苦笑)。ピリピリしてました。
――うわ~、実際トラブルはあったのですか?
 これが全然なかったんです。
――あ、大丈夫だったんですね。
 いっぱい客も来たしね。あと、映画監督の石井聰互(現 石井岳龍)さんも観に来てました。8mmカメラもまわしてましたよ。スタッフ以外で日本人は彼ぐらいだったんじゃないかな。
――ちょうどロンドンにいらしてたんですね。ロック好きでパンクな方ですもんね。
 そうそう。この時点からすでにプロジェクトは上手くすすんでました。コーディネーターとしても、事務所経由でクマ原田さんとカズ宇都宮さんという当時のイギリスでのトップ・コーディネーターがダブルでついていて。一番感動したのは、ロンドンの街を歩いたり、シューティングのロケハンをしているとBOOWYのポスターがたくさん張られていたんです。
――それはすごいですね!
 スミスとかそういう地元のバンドが貼ってあるところにBOOWYのポスターがあるのよ。しかもすごい良いデザイン。イギリスのバンドのデザインにも負けてなくって。今でも鮮やかに覚えているのですが、綺麗なブルーのね。わりとダークな色が多いじゃないですか、向こうのポスターって。でも綺麗な鮮やかなブルーに白でBOOWYって書いてあって、バンドがどんな風貌かもわかるデザインで。
――1985年当時の日本のアーティストの海外進出って、前例があまりなかった時代ですよね。しかも新人バンドで。ライブ後はどんな感じだったのですか?
 その時のエピソードは、音楽雑誌の『B-PASS』で喋ったことがあるんですけど、実はちょっとしたトラブルがありました。単純な話なんですけど、スタッフがシールド(ケーブル)を忘れたんですね。それをホテルに取りに戻らないとリハができないってなって、マネージャーの土屋さんが「鶴田さんすみません、部屋の鍵を渡すから、シールドを取りにもどってもらっていいですか?」ってなって。もちろん「いいですよ!」って。時間もありましたから。タクシーでホテルに取りに戻って全然間に合ったんです。ライブも大成功して。その晩、打ち上げの後にミーティングがあって、で、みんな「これ良かった!」、「あれ良かった!」、「ボンドガールが観に来てたよね!」とか、いろんな話があるなかで、氷室さんが土屋さんに「なんでレコード会社のスタッフにシールドをトリに行かせたんだ?」って言い出して。僕はびっくりしたんだけど「それはマネージャーの仕事だろ!」ってことだったんですね。筋を通すのが大切というか、バンドのプロフェッショナルなアティチュードをみましたね。
――仕事のあり方ですね。いいお話ですね。氷室さん、かっこいいなぁ。
 仕事の考え方に感動しましたね。そういう風に気を回してくれたってことじゃなくて、リーダーとしてのマネージャーとの真剣なやり取りにね。
――その後、ロンドンでのハービー山口さんとの撮影はどんな感じだったんですか?
 もうね、本当にハービーさんが、平山さんの言うとおりで、ロンドンを知り尽くしてる男だったんです。車の運転も彼が、俺は運転もできなかったからね(苦笑)。ロケハンも彼がやって。デュランデュランはここで撮ったとか、ポールジ・マッカートニーやジョージ・ハリスンがよくお店とか、で「まじすか!?」ってなって(笑)
――それはテンション上がりますね(笑)
 ロック観光もしながら、ベストな場所でガンガン撮っていくんです。そして、ベルリンでのミックスが終わってプロデューサーの佐久間正英さんも合流したんです。ディレクターの子安さんはテープを持って日本へ帰国したんですけどね(苦笑)
――なかなか子安さんには会えなかったんですね(笑)
 そうなんですよ(苦笑)。佐久間さんはバンド、プラスチックスでの活動など、ロンドン経験があって、バンドを食事に連れていってくれることになって、僕も便乗したんです。超おしゃれなレストランに連れてってくれて。とてもジェントルマンなんですね。その時の佐久間さんの立ち振る舞いや、おもてなしに感動しました。あと、やっぱりみんな真面目だからレコーディングの話になりましたね。「ミックスはどんな感じっすか?」みたいな。音楽の先輩としてのレクチャーだね。すごいなんかいい晩餐でした。あ、俺も「レコーディング順調だったんですか?」みたいなね(苦笑)
――スタッフ同士が海外でまず最初に出会うというシチュエーションが奇跡的ですよね。そして、実は海外進出からリスタートしたBOOWYというストーリーの面白さ、ワクワク感。しかも、帰国後すぐに赤坂ラフォーレ・ミュージアムで、マスコミ招待のコンベンション・ライブを4月13日に行ったんですよね。
 ロンドンのマーキー・クラブでのライブからちょうど1ヶ月後ですね。当時、赤坂ラフォーレ・ミュージアムはライブで簡単に使える会場ではなかったんですよ。しかも、まだまだ売れているわけじゃない人たちに貸すような会場でもなくて。でも、やっぱり移籍後のインパクトと、マスコミに対してベルリン?ロンドンでスタートしたバンドのハイレベルなテンションを伝えるために会場探しにこだわったんですね。「いやもう、今回やばいですよ、本気ですよ!」って気持ちを伝える為にね。結果、素晴らしいライブでコンベンションはめっちゃくちゃ盛りあがりました。
――そして、ベルリンでレコーディングした新作音源をもってマスメディアへプロモーションされたじゃないですか? 3rdアルバム『BOOWY』の手応えはいかがでしたか?
 実は、マスメディアへの評価は非常に厳しかったんですよ。ライブの評価はどんどんあがっていたんですけどね。でも、まだパンクやニュー・ウェーヴをメジャーな媒体が扱う時代ではなかったんです。まだコアな存在というか、ものすごい先入観があったんですよね。なので媒体へ行くと「お前、ユーミンどうしたの?」って話になるんだけど、BOOWYの話をしても「無理無理」って感じで。「わかるけど、ウチではないじゃん?」みたいな。それでも、ロンドンの熱狂や赤坂ラフォーレでのコンベンションの成功、そしてアルバムの素晴らしさついて丁寧に伝えていったのですが、マスコミからの返答は非常に冷たかったですね。そんななか、媒体よりも音楽ジャーナリストからの評価は高かったんですよ。平山さんに次ぐ若いライターたちや、女性編集者とかね。
――そんななか、テレビの深夜番組『オールナイトフジ』に出演していますよね?
 そうそう。このタイミングで東芝EMIのアーティスト担当スタッフに一人加わってくるわけですよ、小澤啓二くんが。彼はフジテレビに強かったんだよね。あとは、有線をまわったね。氷室さんも有線試聴会にも来てくれたし、やれることはゲリラ戦ではあったけどいろいろチャレンジしました。
――後からこの時期のBOOWYの歴史を振り返ってみると、アルバム『BOOWY』を1985年6月21日にリリースして、25日に渋谷公会堂でワンマン公演をやってるんです。それって、ブレイク前であったのにキャパ的にはものすごい挑戦的にランクアップをされているんですよね。
 まだライブハウス、渋谷ライブ・インでやってた頃だよね。あの頃はライブ・インがオシャレっていうか、メジャーな新人がやるハコだったんだよ。でも、すでにBOOWY自身のライブでの勢いは本当にすごかったんです。お客さんはいっぱい掴んでいたんです。だからさっきお話ししたマスメディア受けに対してのチグハグな感じとかには全く心配なかったんです。要するにバンドとしての人気、ライブ動員はものすごい勢いで伸びていました。会場のキャパを広くしていくのと、客が増えていくスピードがもう追いかけっこみたいな感じでしたね。だからコンベンションで使った赤坂ラフォーレにも一般の客さんがたくさん来て大変だったんですよ。コントロールが。
――そうなんですねぇ。渋公での最初のワンマン時のエピソードで覚えていることはありますか? 実は1回目の渋公の時のエピソードってあまり残っていないんですよね。
 う~ん、なんだろうね。ある種の賭けっていうか、余裕はなかったと思うな。とりあえずチャレンジでやろうみたいな感じで。あと、動員はあってもレコードのセールスに結びついてなかったんですよね。やっぱり、一般的には露出ができなかったんですよ。インタビューやレビューも載っけてくれなかった。繰り返しちゃうけど、当時を振り返ると過渡期というか、日本のロックをメジャーなメディアで紹介するっていう考え方が、残念ながらまだできあがってなかった。それをスイッチしたのがBOOWYやREBECCAだったんだよね。相当、壁は分厚かったねえ。だって、俺はがっつりユーミンでだいたいの雑誌メディアの担当を押さえていたんですよ。だから簡単にインタビューもレビューも載っけられるって会議で言っちゃたぐらいで(苦笑)。全然ダメだったね……。それはBOOWY自身の問題ではなくて、日本のメディアの人たちのロックへの理解の前提がなくて「そんなもの何で載っけなきゃいけないの? 違うものあるじゃないいっぱい、もっとアイドルとかわかりやすいヤツ!」という反応との戦いでもありました。
――音楽シーンのターニングポイントだったわけですね。しかもBOOWYから80年代末の熱狂的なバンドブームが生まれていきましたからねぇ。
 そうですよね。当時はネットがなかったんですけど、一番のプロモーションになったのはファンによるクチコミのすごさでした。ツールとしてカセットテープでのコピーでどんどん広がっていったんですよ。ライブの違法録音も広がってましたから。それこそネット的な現象ですよね。そして、ライブ動員が伸びていく早さに驚かされました。
――動員が伸びたであろう気になるポイントとして、NHKの番組『ミュージックウェーブ』で、日本青年館でのライブが1985年12月31日に放送されてますよね。NHKは80年代初頭、積極的にロックやインディーズ文化をいち早く紹介していました。そこでBOOWYが紹介されたことが一般的な飛躍のきっかけに感じました。
 今でいうロックフェスに近いバンドのライブの盛り上がり、いわゆるオムニバス・ライブ。仙台の『ロックンロールオリンピック』もNHKで放送してたでしょ? NHKがロックをヤングカルチャーの兆しとして捉え始めたんだと思う。あと、この頃エピックソニーとか含めて、邦楽ロックの玉がそろい始めてきたんですよね。
――そういうタイミングでもありますね。
 うん。レコードショップなどお店は実は気がつき始めていて。メディアはちょっと時間かかっただけどね。「ロックってジャンルはニューミュージックの次にいけるんじゃない?」みたいなバイヤーがあらわれ始めたんだろうね。
――ちょうど1985年といえば10月21日発売でREBECCA「フレンズ」のヒットもあったりとか。
 大きいよね、REBECCAの存在は。ロックバンドからスタートしたけど、NOKKOを軸に洋楽センスを邦楽として上手くローカライズしてポップスターになったんだよね。この頃、時を同じくしてソニマガ系というか音楽雑誌がブレイクしていくんですよ。『GB』や『PATi・PATi(パチパチ)』とか、ヴィジュアル重視の紙面作りが時代性にハマったんだよね。BOOWYは『Arena 37℃ (アリーナサーティセブン)』など、音楽専門誌には早いタイミングから出ていたんだよね。しかも、BOOWYを掲載すると部数がガンガン出るってことに編集者が気がついてきたのが1986年ぐらいなのかな。メディアのコントロールはマネージャーだった土屋さんがすごかったよ。各雑誌別にネタも写真もしっかり分けてるんだよね。お互いに信頼関係をもってやってた。それは素晴らしいマネージメントだったと思う。
――たしかに、BOOWYは媒体ごとに露出イメージを変えてましたよね。普通だったらどの媒体も同じような記事になりがちなところを。
 その辺がさっきのほら、ある意味びっちゃん(土屋)の強いところっていうか、ファンが喜ぶイメージとかストーリー作りね。なんたって紺待人(小説『BOOWY STORY 大きなビートの木の下で』の作者)ですからね。雑誌が面白く売れるように、ネタや写真の伝え方や振りワケはすごい見事だったと思う。
――書き手であるライターもキャラクター別に明確に分けていましたもんね。
 音専誌をバランスよくやっていくうちに、びっちゃんと俺で、ライター・グループときっちりアライアンスを組むっていうことをやったんです。BOOWYに関しては、5人のライターだけに全部情報を出していくという。いわゆるオフィシャル・ライター、BOOWYライターズっていうのをやり始めたんですね。正しい情報を深くしっかり届けたいという理想型ね。音専誌が盛り上がってきたタイミングで、一歩BOOWYのPRが抜きん出ていた理由はこれだよね。もうしょっちゅうみんなで飯を食ってたわけ。場所まで決まってたの、赤坂の寿司屋なんだけど。そこに2週間に1回くらいは集まって濃い情報を伝えていたんです。ものすごく効果的なジャーナリスト対策。雑誌『ロッキングオン』出身の佐伯明、水村達也、藤沢映子とかね。編集者や編集長にも協力してもらいつつ、だんだんとソニマガの『PATi・PATi(パチパチ)』が主戦場になっていくんだよね。アルバム『JUST A HERO』の頃だね。
――1986年3月1日リリース、4枚目のアルバム『JUST A HERO』で一気にセールスも上がったわけなんですが、その理由をどう考えましたか?
 あれはシングル「わがままジュリエット」の効果だと思うよ。もともと戦略的に、ちゃんと認知されるためのブレイクポイントはシングルだって考えていたんです。「ラジオでかかったり、普通の音楽ファンが聞ける音楽とはなんだ?」ってなって、バンドが出してきたのが「わがままジュリエット」だったんです。レコード会社もびっくりするくらいのポップさというか。この曲から、メディアへの壁がこわれて、とにかくレビューも掲載されてラジオもかかるようになったの。シングル戦略でそれをこじ開け始めたという。
――よくその後も氷室さんはソロ時代でも「シングルは名刺代わり」だってずっと言い続けてましたけど、「わがままジュリエット」での効果がきっかけなのかもしれませんね。
 そして、アルバム『JUST A HERO』はオリコンチャート5位に入ったから、一気に変わるよね。メディアの人たちが手のひらを返してきました。あと、やっぱりフジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』への出演だよね。クチコミで広がっていた流れが一般層まで一気に広がりました。それこそチェッカーズとか聴いてた子たちまで巻き込んでさ。音楽性はもちろん、ヴィジュアルのインパクトもあったよね。チェッカーズもおしゃれなんだけど、BOOWYはそこにパンクさもあって尖ってたんだよね。びっくりしたと思うよ、こんなバンドがいるんだって。
――あと、「わがままジュリエット」のミュージックビデオを力入れて作られてるじゃないですか? BOOWYにとってミュージックビデオはあれが初なんですよね。なんであそこまでアーティステックにしっかりした作品が作れたんですか? いま観てもクオリティの高さに驚かされます。
 シングルヒットを考えると、当時はスペシャなどCS放送はまだなかったけど、ビデオは大事だって認識はあったんだよね。洋楽的な石坂さんのセクションでもあるし、メンバー本人たちも洋楽志向だから力を入れたんだよね。で、あのビデオってのはレコードショップの店頭で流したんだよ。お店が熱い時代で、エピックソニーがビデコン(ビデオコンサート)をショップで始めた時期。その後は、TV神奈川の音楽番組『ミュートマ』とかでミュージックビデオは使えたけど、まだまだお店のためにって時代。MTVムーヴメントが日本ではまだ追いつけていなかった時代。それこそロックフェス『ロックンロールオリンピック』があったから、アルバムは仙台のお店ですっごく売れてたね。東北は熱かったね。『JUST A HERO』の頃なんかは、お店主催でサイン会とかやってたよ。フィルムコンサートもやったよね。ベルリンやロンドンのレアな映像を使ってさ。
――あと、1986年の全国ツアーでのホールのキャパがどんどん右肩上がりになってますよね? 伝説となった武道館でのワンマンもありました。これって、ヒットの兆しが見えた『JUST A HERO』のリリース前段階から、前もってハコを押さえていたわけですよね? すごい戦略的なプランニングですよね。
 パートナーシップとしてのイベンター、DISK GARAGEの存在が大きかったんじゃないかな。ものすごい力が入ってたよね。事務所、レコード会社、イベンターに温度差がまったくない。ほんとに3社がっつり組んでいたから。そして、とても挑戦的だったから。
――1986年のBOOWYってものすごい密度の濃いスケジュールなんですよね。ツアーがありながら、3月1日 に4thアルバム『JUST A HERO』発売して、7月2日に日本武道館、そして7月31日にライヴアルバム『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』。さらに11月8日に 5thアルバム『BEAT EMOTION』を発売という。なかでも日本武道館での公演は、BOOWYにとってターニングポイントになったと思うのですが、どんな印象でしたか?
 1年にアルバムの重要作を3枚出しているなんてほんと駆け抜けているよね。でも武道館公演ってバンドにとって、別モノというかオリンピックみたいに目指してきたものだったから特別だったよね。でも、ライブが終わったあと打ち上げに行くバンにたまたま一緒に乗ってたけど、はしゃいだりとかまったくなかったんですよ。すごい感無量だったんだろうね。そこから打ち上げへの途中で、いつもなんだけど沈黙を破るのがドラムのまこっちゃん(高橋まこと)。「やっと風呂付きのアパートに移れるのかな」って言ってました。みんなクールに黙ってるのに、まこっちゃんだけが生活感があったなぁ(苦笑)。
――しかも、武道館公演は同じ月の月末に、ライブ盤『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』としてレコード、カセットテープ、CDの3種類をボックス10万個限定で発売されてますね(1989年にCDのみで再発)。日本ではライブアルバムでのヒットってなかなか貴重な出来事でしたよね。まさにBOOWYがライブバンドであることの証明というか。
 ライブ盤で限定版というのは、レコード会社の掟破りだから。わりと彼らが温めていた秘策だよね。武道館いっちゃったからこその、BOOWYらしさというか、ファンとの絶妙な距離感をあらわしたインディペンデントな表現だよね。にわかなファンじゃ聴けないアイテムってすごいよね。
――翌月にはメモリアルになった新宿都有3号地でのイベント『ウォーターロックフェス』を開催という、今のロックフェスに繋がるようなイベントを主催して、その1週間後には仙台のロックフェス『ロックンロールオリンピック』へ出演という。このアグレッシヴなスピード感をどんな風に見てましたか?
 世の中がBOOWYを認めたタイミングで、新宿都有3号地とか、誰もやってない場所でライブをするという試みが新らしかったよね。そういう意味ではキャッチアップされても、もっと先に行くというライブ戦略を打ち出せていたんでしょうね。マスコミは、渋公や武道館だと行きやすいんだけど、都有なんとか地とか言われてもわけわかんないじゃない? そうすると、ほんとに好きな人しか来なくなるからね。
日本武道館公演あたりから、メディアも増えてきました?
 ちょっと大変だったね。みんな手のひらをひっくり返したように観たいっていうからさ。インビテーションをすごく厳しくしたよね。レコード会社の中からも観たいって言われたけど、まぁ今更という(苦笑)。
――BOOWYの成功とともに、東芝EMIというレコード会社がよりロックなイメージになっていきましたよね。
 当時、それまで主流だったニューミュージックっていうポップスがなくなっちゃったからね。このタイミングでロックバンドとしてポップシーンを切り開いていったBOOWYと契約できたことはラッキーでした。でも、レコード会社としては、コンセプトワークとか、ロックのレーベルとしてのイメージ作りとかが結構たいへんだったのよ。かたや新興レーベルとしてエピックソニーとか出てきちゃうしさ、お店でエピック祭りとか盛り上がるんだよね。そこで東芝EMIのロックでのブランディングを『オン・ザ・ロック』っていう名前ではじめたんです。BOWWOWやRCサクセションとかでくくって、ロック新聞をレーベルから出しました。で、雑誌『宝島』編集部の佐川秀文さんにやってもらって。すごいぐちゃぐちゃな感じなんだけど、BOOWYがしっかり売れ始めたときに後からレーベルを整える一つの試作になったよね。ラジオ番組もやったしね。
――アルバム『JUST A HERO』を売っていくにあたってプロモーションで、ちょっと変わったことをされたりってありましたか?
 原宿の竹下通りのシャッターに、BOOWYのジャケットアートワークのペイントをしましたね。シャッターだからお店の閉店時しか見れないんだけど盛り上がったよね。ストリートプロモーションの走りだと思います。当時の原宿は情報発信力がすごかったんだよね。
――そういえば、その名残が赤羽の飲み屋のシャッターに残っていて、誰かが勝手に書いているBOOWYのペイントがあるんですよ(笑)。今度行きましょう!
 へぇ~(笑)。
――『JUST A HERO』のブレイクから間髪を空けずに5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』のレコーディングへ入り、9月29日には先行シングル「B・BLUE」を発売という。当時、どうやってこの勢いあるプランニングを発案されたのかが気になっています。ツアーがあって、取材もやって、レコーディングもしてってことですよね。
 ねぇ。でも、やっぱりすごいクレバーだと思ったのは、ライターのチームを作ったことで効率よく効果的なプロモーションができたんだよね。書き原稿も含めて、紙面での露出はずっとし続けているんだよ。なので、メンバーのストレスはあまりなかったと思う。レコーディングやライブに集中できてたんじゃないかな。余計なプロモーションやメジャーなお話は断っていたからね。いわゆるアイドルがブレイクして寝る暇がないっていうような状況ではなかったから。
――情報出しのこだわりの結果、バンドを芸能界的に消費されずにすんだということですね。
 メンバー稼働させない話題作りというか仕掛けを工夫してましたね。ひとつひとつのキャッチコピーや、アートワークのインパクトへのこだわりとか。本人たちに依存しないでできること。デザインやジャーナリストに頑張ってもらうこと。そこは割とクールにやってました。土屋さんの戦略でもあったし。
――あと、5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』のクレジットに“B・BLUE BOYS & GIRLS”って書いてありますけど、あれはなんなんでしょうか?
 そもそもなんだけど、氷室さんから「B・BLUE」はタイトルも含めて、PRチームに任せるって言われたのよ。で、「B・BLUE」ってタイトルはBOOWY宣伝チームが曲を聞いて名付けたのね。宣伝スタッフの小澤案なんですよ「B・BLUE」って。もとは「TRUE BLUE」というタイトルだったんだけど、マドンナがたまたま同名のアルバムを発表したので変更を迫られて。スタッフもさ、タイトルを付けると盛り上がるでしょ、レコード会社。そりゃ宣伝も頑張るよね。
――確かにそうですよね。
 で、BOOWYプロジェクトの下に、若いなんでもやるチーム作ろうってなって“B・BLUE BOYS & GIRLS”ってのができて。後にピチカートファイブを担当された飯塚君や、レコード会社のフォーライフに入社した水野君がいたんだよね。有線プロモーションや、リクエストはがきを書いたり、ストリート・プロモーションをやってくれたんです。すごい地道な、いわゆる、大手ファンクラブの若手がボランティアでやってるようなことを、インターン感覚で有能な学生がやっていたの。もちろんBOOWYファンだし、一番お客さんに近い子たちだから、マーケティングにもつながってくるよね。いまだとアンバサダー・マーケティングっていうのかな?
――完全にそうですよね。ファンの人たちにより広めてもらうという。その施策の時に、白いコートみたいなの作られたり帽子など配ったそうですね。レアアイテムですよね。
 当時、今以上に渋谷や原宿に発信力があっったんですよ。要はメディアとかじゃなくて街からの発信がいいよねっていう発想で。“B・BLUE BOYS & GIRLS”にBOOWYオフィシャルのコートとかカバンとか帽子を持たせて、ただ歩かせるみたいな、すごい変わったプロモーションしてました。
――何人くらいいたんですか?
 マックス60人くらいいたんじゃないかな? でも、オフィシャルではあるんだけど学生に運営は任せていたんだよね。
――そして「B・BLUE」は、当時超絶人気だった音楽テレビ番組『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演されて、そこでのライブパフォーマンスは伝説的なカッコよさとなりました。今もYouTubeに動画があがってますが、痺れますね。
 当時、フジテレビの現場にいたのでよく覚えています。メンバーは相変わらずクールで余裕がありましたよ。ぜったいに売れるバンドだとは思っていましたが、『夜のヒットスタジオDELUXE』をきっかけに、もっと予算がついちゃうバンドになるなぁと思ってました。俺はわりと会社の中でヒットに関われた担当でもあるんですけど、業界の政治力の怖さも感じてたんですね。このまま成功していくと、いろんなことがBOOWYに押しかかる予感があったから。だからテレビ番組の出番前に、久々に待ち時間があったので「BOOWYでレーベルを作りましょうよ!」って話をしました。メンバーは覚えてないかもしれないけど。
――なるほど、BOOWYのレーベルっていいですね。
 BOOWYレーベルを作っておけば、フットワークの軽い対応も出来るようになるし、いろんな事がこの先自由になるんじゃないかなと。でも、1年後に解散するとは思ってなかったからね。
――大きな枠組みである『エキスプレス・レーベル』の中でやるよりもということですね。発想が新しいです。
 唐突な話ではないんですよ。それまでに、レコード会社から発信するメディアを作っていたから、これはもう次なる一手はレーベルでしょっていう。
――そして、鶴田さんの考え通りに『夜のヒットスタジオDELUXE』出演から3日後、11月8日アルバム『BEAT EMOTION』が発売され、ついにチャート1位を記録。これが決定的な人気の裏付けとなりました。さらにマスメディアからの注目度も高まるなか、全国ツアーが始まっていくんですよね。
 きっかけとしては、『夜のヒットスタジオDELUXE』でのライブもすごかったんだけど、「B・BLUE」ミュージックビデオもアーティスティックでよかったんですよ。アートワークもシンプルに洗練されているよね。いろんな意味でロックミュージックのあり方を塗り替えていったんだよね。
――そしてシングルでのチャート1位を記録したシングル「Marionette」のリリース。こちらもアートワークへのこだわりを感じます。アニメーションを活用したミュージックビデオも画期的でした。
 やっぱり早いよね。デザインとか映像に目覚めていって、余計なことしないで、他アーティストをまた引き離していくみたいな。「Marionette」のミュージックビデオにおけるアニメのアイディアは、デザイナーの永石勝さんかな。制作はアニメ制作会社ガイナックスだったんだよね。通常ミュージックビデオって短期間で制作するんだけど、アニメだと時間がかかるんですよ。なので、実は宣伝タイミングには間に合わなかったので、メイキングと称して2ヴァージョンあるんですよね。
――映像は、完全に漫画『AKIRA』的なデストピア世界観なんですが、映画『AKIRA』のちょい前なタイミングだったことに驚かされます。
 へ~、そうなんだね。1987年は、バンドはテレビにもでなかったからミュージックビデオは宣伝として大活躍しました。6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』はタイトルやアートワークから、難解な雰囲気も含めて、アーティスティックに到達した作品というのが伝わってきたんだよね。考えさせられる作品を生み出してきたよね。なんでもできる状況だからこそ、誰にもできない作品を作り出した、みたいな。そこがまた、予測を裏切る感じであって最高だったよね。
――鶴田さんは『PSYCHOPATH』のリリースのときにもうラストって知っていたんですか?
 ははは(笑)どうだろうね……。……まぁ、知ってたと思うよ。でも、一回聞いて忘れた感じだったかな。そうしないとねぇ。友達がどんどんいなくなっていくよね……。だって宣伝していくにあたって自分も知らない風になりきるしかないでしょ?
――たしかに、そうですよね。アイディア満載のプロモーションをやってきたBOOWYが、『PSYCHOPATH』に関しては突飛なことをやってないんですよね。それは何かあったんですかね?
 難しい質問だね。……芸術的、音楽的にやりたいことをやりきったアルバム作品が完成したから、大事にプロモーションしようみたいな感じだよね。……最後だからとかじゃなくて。でもすごい難しかったねえ。やっぱり。アートワークとか一般的な目線からは反対意見をものすごい言われたの。俺たちはかっこいいと思ったんだけどね。でも、だからこそBOOWYだなって思いましたよ。めちゃめちゃマニアックなジャケットじゃないですか? それが売れちゃうんだから。
――躍動感ある『BEAT EMOTION』のアートワークとの対比がすごいですよね。
 『PSYCHOPATH』というタイトル自体が相当難解なキーワードだったしね。いまの時代でこそ理解できるキーワードでしょ? しかも『DR.FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』なんて、難しくも長いツアータイトルも付けちゃってるし。
――1987年10月26日にリリースした最後のシングル「季節が君だけを変える」の発売エピソードも印象的でした。
 解散を知らないスタッフは勢いのある8ビートな「PLASTIC BOMB」を推してたんだよね。でも「季節が君だけを変える」で押し切ったっていう。ミュージックビデオもメンバー本人たちが極力出ない映像として最高の出来だったよね。
――1987年12月24日の渋谷公会堂。ライブビデオ『1224』の映像見ると鶴田さんも映っていたんですけど、当日はどんな雰囲気でしたか?
 やっぱり長い一日だったね。武道館あたりからメディアのインビテーション対応をめちゃめちゃ厳しくしてたんだよね。なのでそういった仕事は終わらせていたんだけど、入れないファンがどんどん集まってきちゃって、不穏な感じでした。
――解散するかもしれないという噂は広がっていたんですか?
 噂というか、何かしらステートメントがあるらしいっていうのが流れちゃっていたね。内容じゃなくて。だから、会場の中にいないと聞けないじゃないですか? ライブが観たいってよりもその場に立ち合いたいって感じだろうね。一部暴徒化しちゃっていて、実際俺の部下は殴られてました。ワイルドな感じではないんだけど、人が多すぎちゃって、渋公のガラスが割れちゃって。それでもう、イベンターのDISK GARAGEのスタッフもやばいってなって。で、メンバーと話して、メッセージを聞きに来てるんだったら、メッセージは会場の外でも伝えるからお騒がないでってお願いして。
 で、実際DISK GARAGEの中西健夫さんが、氷室さんの発言を全部伝えるっていう約束をしたら、みんな騒がなくなって。
――ライブ後はどんな行動をされてたんですか?
 その後は……覚えてないな。あ、その日さ、俺の親戚があらわれて。なんか入り口にいたらDISK GARAGEのスタッフから「鶴田さん親戚の人が来てます」って言われて。「それどころじゃないから行けないんだけど、ていうか親戚が来るわけがないよ」って。なんか俺の名前をかたって裏口から入ろうとした女の子が来てたらしいんだよ。でも嘘じゃん? そうしたら「じゃあ表に回します」って言われちゃって、知らない子に会ったんですよ(苦笑)。暴動寸前だわ、部下は殴られるわ、ガラスは割れるわ、嘘の親戚があらわれるわ、すげえ日だなって(苦笑)。
――そして、翌日新聞で解散メッセージが新聞で発表されました。
 全紙で出したんだよね。当時は新聞で伝えるのが一番早かったから。翌日は、テレビや雑誌メディアからのオファーがすごかったです。でも「新聞に載っている通りです」ってね。会社のエグゼクティブも解散を知らなかったようなプロジェクトだったから。まぁ、情報統制は身内からだよね、徹底するっていうのは。
――で、そこから東京ドームでの最後のライブ『LAST GIGS』まで4か月間空くんですよね。その期間は何をされていたんですか?
 意外と淡々としててさぁ、レコード会社って担当を複数持つから、BOOWYだけじゃないからね。なんか新しい仕事に戻ったんじゃないかな。『LAST GIGS』は、もう次のプロジェクトも動いていたから、割とみんなすごいすっきりしていたよね。あれって早すぎた再結成みたいな感じで。準備も割と粛々と進めていて、それこそBOOWYライターズに任せていたよね。
――東京ドームでやるっていう話はいつ頃耳にされました?
 年明けくらいかな。俺は広告担当だったから割と早めに知っていたと思います。オープンしたばかりの新しい会場なのでBOOWYらしいなって思いました。しかも、キャパ10万人でも観れないファンもいっぱいいるだろうって、そこで一ヶ月後にライブ盤をリリースすることになったからね。発売前に音がなくてもレコード店から受注していたってことでしょ? すごいよね。
――たしかにそうですね。音楽への真摯な向き合い方ですよね。ファンを大事にされていますね。そんなBOOWYプロジェクトに関わられたことで、鶴田さんはどんな成長がありましたか?
 やっぱりなんだろう、こんな短い期間でスターって生まれていくんだって目の当たりにしたよね。やっぱり4人のヒーローとしての存在感がすごかったから。売れるだけじゃなくて、音楽とファッションの先端を走っている存在としてのスター性なんか極めて洋楽っぽいし、なかなか真似ができないよね。うん、何か一つの真似できでも、トータルには真似できないというか。ステージ衣装で着ていたジャン・ポール・ゴルチェのタイアップとかもあって、バンド・シーンと文化服装なツバキハウス的なシーンの両面いけてたのもすごいよね。それでメジャーで売れていくっていう。そこがやっぱりBOOWYらしさだよね。
――「何か一つの真似できでも、トータルには真似できない」ってたしかにBOOWYの魅力の本質を言いあらわしていますね。
 ゴルチェとのタイアップは、国内代理店のオーワードと打ち合わせしたことをよく覚えています。いまでこそあるのかもしれないけど、ゴルチェの売り場にBOOWYの情報をちゃんと出していたからね。ミュージシャンがブランドに寄り添うってより、ほぼ対等なタイアップだったんだよね。
――それって時代的にも早いし、画期的な組み方ですね。
 いまの女の子が、女子モデルを追いかけるかのようにBOOWYを追いかけてたんだと思う。スタッフにも音楽業界にはいなそうな女の子がいつの間にか入って活躍していたからね。レコード会社をも変えてしまう勢いがBOOWYにはあったね。やっぱり不思議な力のある4人だったんじゃないかな。
<インタビューを終えて>『BOOWY STORY ARCHIVE』第2弾、元東芝EMI BOOWY担当A&R 鶴田正人 氏への3時間に渡る2万字インタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWYの躍進のきっかけとなった数々のプロモーション秘話。時代を彩った音楽雑誌でのアプローチや、原宿竹下通りシャッターでのペイント、B・BLUE BOYS & GIRLSといった知る人ぞ知るストリートプロモーションの存在。レコード会社視点からの貴重なトークを語って頂きました。引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWYの伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫 氏
 https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=2

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る