過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂

 

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 ┃ 振り返る昭和 vol.15  1962(昭和37)年 国産旅客機YS-11初飛行 ┃
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 |2009(平成21)年 3月10日(火)|発売。定価580円(税込み)
 └─――――――――――――┘念願の初飛行
3年後の1965(昭和40)年6月1日(火)、半官半民の特殊法人・日本航空機製造が設立され、大きなプロペラや強力な高揚力装置を備えた短距離離着陸性能を持つ60人乗りの※3 ターボプロップ機の開発が進められた。ちょうどその頃、航空機大国アメリカでは、世界初の大型ジェット旅客機の開発が進められつつあった。かたや日本は戦前、プロペラ機しか経験がなく、その技術力からして地方路線を飛ぶプロペラ機の開発を企図したのである。日本には短い滑走路の飛行場が多かったことも大きな理由の一つだった。
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 http://doraku.asahi.com/earth/showa/090310.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/1962%E5%B9%B4
 http://www.starlight.to/room/seiko/history/biography/index.cgi?no=1
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 ┃ 振り返る昭和 vol.19  1969(昭和44)年 東大安田講堂落城 ┃
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 |2009(平成21)年 4月 7日(火)|発売。定価580円(税込み)
 └─――――――――――――┘◆東名高速道路、全線開通
写真◆全線開通した東名高速道路。空から見た酒匂川(神奈川県)付近
1969(昭和44)年5月26日(月)、東京と愛知県小牧市を結ぶ東名高速道路(正式名は第一東海自動車道)が全線開通した。全長は346.7キロ。昭和37年(1962)5月に着工され、昭和43年4月から部分開通していたが、最後の未通部分だった大井松田(神奈川県)~御殿場(静岡県)間の25.8キロが開通したもの。これにより、昭和40年に開通していた名神高速道路とあわせて、東京と兵庫県西宮市をつなぐ大動脈が完成した。日本の高速道路の整備は、アメリカやドイツなどに比べて大きく遅れていたが、この後、高速道路網が全国に広がっていく。東名高速道路の建設は、総工費約3425億円という大事業であったが、沿線の人口増と産業の振興をもたらし、流通やレジャーにも大いに貢献した。なお、開通間もない6月1日(日)には、東名高速道路での初の死亡事故が起こり、便利さの裏に潜む車社会の危険を早くも露呈した。
****** http://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4
 http://doraku.asahi.com/earth/showa/090407.html
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『笑点』に異常事態……大喜利で三遊亭圓楽以外の全員が座布団0枚に
2014/6/2(月) 00:13 Scoopie News 
 ●1(日)日に放送した『笑点』内の人気コーナー「大喜利」終了時の状態が話題となっている。
この日は桂歌丸に代わって三遊亭圓楽が司会を担当。
圓楽は最初の設問から三遊亭小遊三を「天野さん」と本名で指名するなどやりたい放題。また、「圓楽は先代の人がよかったなあ」と言う同門の三遊亭好楽に「その名前も継げなかったくせに」と毒舌を見舞った。
さらに、自分の回答者席に座布団を勝手に1枚加えて、周囲が失笑しても「いいじゃねえかよ司会だから。権力ってものはこういうふうに使うもんなんだよ」と腹黒キャラを貫いた。
一方で、歌丸に対しては「アタシの大事な宝物ですから、あのおじいさんは」と気遣うそぶりも見せた。その後、回答者も禁止された歌ネタを披露し続けるなど悪ノリしたため、圓楽は座布団を容赦なく没収。番組終了時には圓楽9枚、他の出演者0枚という異例の事態となった。
ネットでは「やり過ぎwww」という声があがったほか「圓楽の司会は安定しておもしろい」といった反応が寄せられた。
歌丸は先月7日(水)に帯状疱疹を発症して入院。22日(木)に退院しているが大事をとって休養中で、『笑点』には来週8日から復帰する。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20140602-00156499-scoopie

 業務外の救命措置で消防指令停職6カ月―いのちを救う代価か法律か―
‡2011(平成23)年06月01日(水) リンク: 業務外の救命措置で消防指令停職6カ月 石岡市:茨城新聞ニュース. 
 今日から6月に入ったが、不思議というか、考えさせられる事件が起こった。
 2011(平成23)年05月31日(火) 業務外の救命措置で消防指令停職6カ月 石岡市 東名事故で静脈路確保 石岡市は
 2011(平成23)年05月31日(火)、業務外で救急救命行為を行ったとして、救急救命士で、同市消防本部の男性消防司令(54)を停職6カ月の懲戒処分にしたと発表した。併せて、監督責任として、消防長ら上司5人を訓告とした。 同消防本部によると、消防司令は
 2011(平成23)年04月14日(木)午後0時半ごろ、静岡県内の東名高速道路で自家用車を運転中、追突事故に遭遇。医師の指示を受けないまま、不当に所持していた同消防本部所管の救急備品の医薬品などを使って、けがをした男性運転手に静脈路確保の救命措置を行った。男性運転手の命に別条はなかった。同消防本部は、人命救助を目的だとしても、関係法規に抵触する可能性があるとして処分を決めた。鈴木徳松消防長は「再発防止へ、備品管理の徹底と再教育を図っていきたい」と話した。タイトルに「いのちを救う代価か、法律か」をサブタイトルに入れた。この件については、脳科学者の茂木健一郎さんが即座にTwitterで、断罪している。これは、法令の方がおかしいし、現場で救命措置をした人を処分する側の判断の方が間違っている。確かにそうだと思う。仮に、この消防司令の方が、消防士ではなく一般人であれば、感謝状が出るだろう。その感謝状を出すのも、皮肉なことに、この消防司令を処分する消防本部である。根本的な疑問が存在する。業務外(要するに一般人として)で、救命救急行為をすることは、違法なのだろうか?消防士であっても、エンジニアであっても、一歩離れれば、バッチを外せば、ただの人である。24時間、365日、救命救急士であるという誇りを持っていただろうが、その誇りは素晴らしいものであっても、消防士ではない。増して、茨城県ではなく、静岡県という、シャバ以外の場所での行為であれば、尚更のことのはずだ。もちろん、不法所持をしていたのであれば、それは、裁かれなければならない。それは、窃盗などの他の罪になるはずだ。どう見ても、石岡市の処分は、説明に難儀がする。本来、法律は人を守るために、人の行動を制限するためにあるはずだ。だから、禁止内容とそれに伴う罰則が設定されている。だから、仮に、この消防司令の方が、救命救急士の資格がなく、医療行為をしたのであれば、それは断罪されてしかるべきだ。しかし、いのちを救うために、とっさにやった行為で裁かれるのは、どうなのかなと思わされる。法令を守ることは必須事項だと思う。まして、相手がいのちを取り扱う人であればなおさらだと思う。法令を守らなければ、彼らにいのちの危険を委ねることは出来なくなるのだから。だからと言って、それが筋であるという理屈は通るといえ、なんともしっくりとこない事件だった。どう思われるのだろうか?法律を守るために人が存在しているのではなく、人を守るために法律が存在している。この原則をもう一度見直すべきだと思っている。
 http://joel.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/6-aa82.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8D%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95

 缶ビールに穴!“犯人”は棚のネジ
‡2015(平成27)年 6月1日(月)15時1分『ミニ事件簿』配信『大分合同新聞社』
 先日、佐伯市内のスーパーから「陳列していた缶ビール3本に小さな穴が開いている」と佐伯署に通報があった。店によると、6本1セットで販売しており、各セットとも1本ずつ、側面にペン先ほどの引っかいたような小さな穴が開いていた。2週間前にも同様に穴が開いた商品があったという。署員は「何者かが意図的に開けたのでは」と現場を捜査。陳列棚を奥の方まで確認すると、止め付け用のネジの留め具が棚の側面に飛び出しているのを発見した。缶ビールの穴とネジの位置がぴったり一致。商品を並べる際に穴が開いたことが分かった。「いたずら目的の犯行ではなくひと安心。でも商品管理には細心の注意を」と署員。

●保存版●保存版●保存版●保存版●保存版●保存版●
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 ┃ 『特命リサーチ200X』 ┃日本テレビ系列
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  FAR EAST RESEARCH Co. Internet Selection/Established 1997
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 |F.E.R.C Research Database 1997(平成九)年 6月 1日(日)報告|
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   File No.0627「謎の旅客連続墜落事故を追え(乱気流)」
   担当エージェント:伊達 徹、片山 健
 1975(昭和50)年6月24日(火)ジョン・F・ケネディ空港で発生した墜落事故は、死傷者123名という大惨事となった。この当時の1960年代から80年代後半、アメリカ全土では、なんと44件もの航空事故が起きている。これらの航空事故には人的ミスは見つからなかったが、驚くべき共通点があった。それは
(1)着陸体制に入ってから墜落
(2)巨大な機体が垂直上昇
(3)上昇直後、一転して急降下し墜落
気象学者の第一人者の土屋理学博士によると、この事故は「マイクロバースト現象」によるものという。積乱雲が一万メートルの極めて温度が低い大気に到達すると、最上部の水分が一気に凍り、「ヒョウ」になる。この「ヒョウ」は自らの重さに耐え切れずに落下する。するとその「ヒョウ」の通過点の空気が冷やされ重くなり、地表へ一気に落下する。このとき、その速度は秒速70メートルにもなる垂直降下突風となり、空気が地表で跳ね返り激しい上昇気流を起こす。これが「マイクロバースト現象」である。謎の墜落事故の原因は、着陸体制時にマイクロバーストと遭遇、機体は上昇気流に巻き込まれ垂直上昇。秒速70メートルの下降気流に巻き込まれ、急降下に至ったと思われる。
 1966(昭和41)年3月 5日(土)、当時の最新鋭の英国BOAC機が富士山一合目の太郎坊付近に墜落した。機体は飛行中に空中分解を起こし、キリモミ状態で落下。目撃者の証言によると、BOAC機は90度近い急上昇中に左翼とエンジンが外れ、急降下した時に左翼・尾翼が取れ、墜落している。機体は半径2km四方に飛び散った。この状況は、アメリカで起こったマイクロバースト現象の墜落と酷似している。しかし事故当日は、雲一つない天気であり、マイクロバーストではないと判明した。また、竜巻ではないかとの証言もあったのだが、土屋博士によると、竜巻が起こっているとき、上空は気流の回転がゆっくりしているため、事故の原因にはならないという。
 1962(昭和37)年3月17日(土)、自衛隊F-86F戦闘機が富士山上空の東側を飛行中、墜落した。この事故は富士山で起きた英国BOAC機の事故に酷似している点が次々と浮かび上がった。自衛隊F-86F戦闘機が、富士山東側の太郎坊上空5400mを飛行中、機体が上下に揺られ損傷、その時にマイナス5Gという負荷がかかり、そのため機体の一部が損傷して、落下。さらにプラス8Gというすさまじい負荷がかかり、再び機体が損傷を受け落下した。BOAC機がバラバラになった原因はGであったが、大型旅客機に巨大なGを与えたものの正体はなんであろうか。
事故当日、富士山の周囲は半径50kmの圏内で、強い乱気流が発生していた。また、相模湾から房総半島にかけて実に65kmに及ぶ巨大な雲が存在していた。この雲は富士山によってできた山岳波と呼ばれる風によるローター雲という。この日、観測史上最大級の秒速70mの突風が吹いていた。通常の「からっ風」は速くて秒速20mなのだ。この秒速70mの強大な「からっ風」が山岳波となりBOAC機を直撃。上昇気流に乗ったBOAC機は、コントロールを失い、巨大なGによる負荷で機体が損傷したと考えられるのだ。
このような事故を未然に防ぐため、関西国際空港ではドップラーレーダーにより、マイクロバースト現象を発見することができる。 
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 |F.E.R.C Research Database 1997(平成九)年 6月 1日(日)報告|
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   File No.1979「ヤセの大食いの謎(大食い人間)」
   担当エージェント:吉川 美佐、和田 栄一
信じがたいほど食欲がありながら全く太っていない、ヤセの大食い現象はなぜ起こるのか? 藤沢さんは、身長170cm、体重55kg、一般男性の平均に比べ少々ヤセ型である。だが、食生活は1日5食、総カロリー13810kcalと、一般平均の約6倍のカロリーを摂取しているのだ。 これだけの量を食べても太らないのは胃に特徴があるのではないか?胃には釣り型、エル字型、ルシュカ型、牛角型と4つの種類があり、中でも藤沢さんの胃は、油分を好む西洋人や、相撲取りなど食事量の多い人によくみられる牛角胃ではないかと推測された。しかし、藤沢さんの胃をレントゲン撮影したところ、形は日本人に多い釣型で、なんと大きさは一般平均に比べ小さかったのである。そこで胃の動きに注目してみると、胃は活発な収縮・拡張運動を行っていて、食べ物は即座に腸へ送り込まれ、胃の上部が常に空間を保っていたのだ。しかし、藤沢さんはいくら食べても満腹感がないという。京都府立医科大学・吉田俊英氏によると、脳の満腹中枢に異常がきたしているのではないかという。満腹中枢は脳の視床下部の中にあり、胃や腸の膨張を感じる神経の反応、消化による血糖値の上昇という2つの信号から満腹感を感じるのである。では、満腹中枢が働かないとどうなるのか?マウスによる実験では、満腹中枢に異常のあるマウスは2倍に太ってしまったという結果が出ている。しかし、満腹感がないからといって食べてもヤセの大食いはなぜ太らないのだろうか?その謎を解き明かすカギは、心臓の大動脈周辺や脇の下など限られた場所にしかない「褐色脂肪細胞」にあった。「褐色脂肪細胞」とは、急激な温度変化から体を守るため、体温を37度前後に調整し、余分なエネルギーを熱として放出し、肥満を防いでいる細胞である。ヤセの大食いの場合、「褐色脂肪細胞」の働きが極めて活発なため、どんどんエネルギーを放出し、たくさん食べても太らないというのである。 原因は他にもあると考えられる。それは肥満体質を作る「白色脂肪細胞」が増加する時期に、余分な栄養を摂取しないことであるという。肥満体質が決まる時期は、一生のうち3回あり、妊娠9ヶ月頃、生後1年間、思春期に、「白色脂肪細胞」が増加してしまうと、その後一生減ることがない。では、大人になってから「褐色脂肪細胞」を活発させ、「白色脂肪細胞」を減らす方法はないのか?「褐色脂肪細胞」を活発にするには、スポーツ、特に水泳が効果的であるという。「褐色脂肪細胞」は本来、回りの低い温度から体温を保つ細胞なので、体温より低い水の中で運動すれば、陸上より効果的に褐色脂肪細胞を働かすことができるという。さらに1984年、イギリスで世界の注目を集める薬が開発された。β?3アドレナリン受容体作動薬という薬で、褐色脂肪細胞を活発に活動させ、白色脂肪細胞を小さくさせる効果があるという。マウスの実験では100%やせる効果が確認されたとされ、人体に効く薬は現在も研究中である。 
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 http://web.archive.org/web/20090418031447/http://www.ntv.co.jp/FERC
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%91%BD%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%81200X
 https://www.youtube.com/playlist?list=PL_-f9xY02hovQpgxp6z2uuOvB_HbOTJKv
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「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか? 「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ 
2017/06/01東洋経済オンライン 山岸 良二
戦国武将たちの中で、最強と呼べる人物はいったい誰なのか(写真近現代PL/
織田信長や豊臣秀吉をはじめとする数々の英雄が誕生した戦国時代。強い者が弱い者を倒して生き残る下克上の世は、誰もが一国一城の主はおろか天下を握るチャンスさえ持っていた。その結果、出自は問わず、持って生まれた才能と実力のみで、大きく躍進を遂げた者も数多い。そんなあまたの戦国武将たちの中で、最強と呼べる人物はいったい誰だったのか?「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「戦国最強の武将」を解説する。確かに「戦国の覇者」は徳川家康だが…1467年に京都で始まった「応仁の乱」足かけ11年にわたるこの戦いの終結後も、各地では争乱がやまず、その後100年以上ものあいだ、長く激しい戦乱の嵐が吹き荒れました。現代の私たちが「戦国時代」と呼ぶこの期間には、国内各地で群雄がひしめき、その中で数多くの伝説的英雄が誕生しています。彼らは歴史の教科書に限らず、テレビドラマや漫画、ゲームなどでも頻繁に取り上げられ、織田信長をはじめ伊達政宗や真田幸村などは、いまなお多くのファンから支持を受けています。そんな多くの戦国の英雄たちの中で、「『最強』の名にふさわしい武将」はいったい誰なのでしょう。今回は「戦国最強の武将」をテーマに、さまざまな「強さ」を持った個性あふれる戦国武将たちについて解説します。
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1.戦国時代、「最強の武将」は誰だったのですか?非常に難しい質問です。一口に「最強」といっても、「強さ」をどのような尺度で捉えるかによって答えは変わるからです。「単に戦闘力の強さ」もあれば「チーム力の強さ」もあります。また、戦術面など「頭脳的な強さ」も戦いには必要です。まずは「戦闘能力に優れた武将」について見てみましょう。「戦場で絶対に出会いたくない」武将たち【勇猛果敢さで最強】上杉謙信(1530―1578 越後国春日山城)上杉謙信は、生涯で70回の合戦に臨み、そのうち敗れたのはたったの2回のみと言われています。その恐れを知らぬ勇猛さは、敵味方双方を驚嘆させます。1559年、味方がこもる「唐沢山城」の危機が報じられ、謙信は救援に駆けつけます。しかし進軍が間に合わず、城は3万5000の敵兵に攻められ、すでに落城寸前でした。ところが、彼はこれを見るや否や、わずか44騎の手勢を率い、いとも容易くこの包囲を突破。城内に入ると、城兵を鼓舞しそのまま敵を撃退してしまいました。【生涯合戦数で最強】織田信長(1534―1582 近江国安土城)織田信長が生涯で戦った回数は、トータルで「155戦(113勝28敗14分)」にものぼります。これは、15歳の初陣から計算すると、1年間に平均4.4回という驚くべきペースです。敵とみれば容赦はせず、残虐に敵を攻め滅ぼすこともしばしばでした。ご存じのとおり、織田信長は天下統一を目前にして「本能寺の変」で暗殺されてしまいますが、もしこの事件がなければ、さらに記録は伸びていたでしょう。【怪力で最強】延沢満延(1544―1591 出羽国野辺沢城)出羽(山形県・秋田県)の最上(もがみ)氏の家臣である延沢満延(のべさわみつのぶ)は、その「怪力」で知られます。彼が愛用した武器は、槍(やり)や刀ではなく、なんと長さ五尺一寸(約150センチメートル)の鉄棒でした。この鉄棒の一撃をくらった敵は、頭が胴体にめり込んだと言われています。また彼に体をつかまれ、投げ飛ばされた者は、そのまま深田に頭から杭打ち状態で突き刺さったとも言われています。桜の木を根っこごと抜き倒したという逸話も伝えられています。【不死身で最強】本多忠勝(1548―1610 伊勢国桑名城)徳川家康の家臣、本多忠勝は、家康を打ち負かした武田信玄も認めた「名将」として知られています。生涯で57回の戦いに参加しながら、ついに1度もケガを負いませんでした。そのため、彼が晩年に死を迎えた原因は、「つめを切り損ねて、指先をわずかに傷つけてしまった(はじめて血を流した)から」などといったうわさがささやかれるほどでした。ちなみに、同じ家康の家臣である井伊直政は本多忠勝とは対照的に、それを目にした誰もが驚愕した傷だらけの体だったそうです。
Q2.勇猛さとは異なる「強さ」を誇った武将はいますか?自らの能力や特性を駆使し、大きな脅威として敵から恐れられた武将もいました。腕力だけでなく「特技を生かした強さ」も、戦国の世を生き残る強力な武器と言えましょう。続いて、独自の能力に優れた武将をあげてみます。戦いは「腕力のみ」で勝つのではない【知謀で最強】毛利元就(1497―1571 安芸国吉田郡山城)毛利元就(もとなり)は、それまで安芸(あき・広島県西部)の小領主にすぎなかった毛利家を、わずか1代で中国地方のほぼ全域を支配する大大名へと躍進させました。彼の強さの秘密は、何といっても「周到な策略」にあります。1555年の「厳島(いつくしま)の戦い」では、2万の大軍を率いる陶(すえ)氏に謀略を仕掛け、あらかじめ定めておいたせん滅地点(厳島)へ誘い込むと、わずか4000の兵で奇襲を行い大勝します。彼に戦いを挑んだ敵はことごとくその術中にはまり、蹂躙(じゅうりん)されました。【動員力で最強】豊臣秀吉(1537―1598 山城国伏見城)戦国時代後半は、経済力を武器に大量動員で敵を圧倒する戦い方が増えてきます。なかでも、織田信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、「九州平定」で約22万人、「小田原征伐」で約21万人、朝鮮半島に出兵した「文禄の役」で約16万人と、「動員力」では群を抜いています。ちなみに、徳川家康が「大坂冬の陣」で率いたのは約20万人、あの天下分け目の戦いで知られる「関ヶ原の戦い」は東西両軍あわせても16万人程度です。【水軍で最強】九鬼嘉隆(1542―1600 志摩国鳥羽城)九鬼嘉隆(くき よしたか)は、全国でも珍しい水軍を率いた大名です。特に、九鬼氏の船の建造技術は非常に高く、1578年に行われた信長の「石山本願寺攻め」には、信長からの依頼で6隻の「鉄甲船」を建造して参加。その船は全長約30メートル、船体を鋼板で覆い、大砲を多数搭載した大型船でした。「石山本願寺攻め」では、この鉄甲船を中心にして大阪湾の海上封鎖を行い、本願寺の救援に駆けつけた村上水軍を、圧倒的な火力で撃退しました。【築城で最強】藤堂高虎(1556―1630 伊勢国安濃津城)豊臣秀吉や徳川家康にも仕えた藤堂高虎(とうどう たかとら)は、武勇だけでなく「難攻不落の城造り」にも定評のある武将でした。江戸城をはじめ、京都聚楽第、宇和島城、二条城、さらにはその堅牢な城郭構造に恐怖を抱いた幕府が天守の建造を許さなかったという丹波篠山城など、生涯に20以上に及ぶ城のデザインや改修に携わりました。ちなみに、藤堂高虎は城以外にも日光東照宮、上野寛永寺、京都南禅寺三門等の建立にも深く関係しています。
Q3.結局のところ、「戦国最強の武将」は誰なのでしょうか?さまざまな武将を見てきましたが、「戦略・戦術」に優れ、なおかつ「知謀」から「動員力」までを幅広く備えた「総合力の面で最強の武将」は、やはりこの人でしょう。【総合力で最強】武田信玄(1521―1573 甲斐国躑躅ヶ崎館) 武田信玄の「戦の天才」と呼ばれる上杉謙信と終始互角に渡り合った実力はよく知られています。百戦錬磨の織田信長さえ、武田信玄を恐れて全面対決を避け続けたほどでした。16歳の初陣から14戦無敗、北信濃侵攻中に敗戦を3度経験するものの、その後、31歳から53歳で死ぬまでの残り22年間は、ふたたび50戦無敗でした(生涯戦績は72戦49勝3敗20分)。その強さの秘密は、彼が体得した「孫子の兵法」にあると言われています。情報収集や謀略などを用いて、戦いが始まる以前に相手を弱らせ、「勝つべくして勝つ」戦略を基本としていました。徳川家康が天下人になれたのも、敵でありながら彼を信奉し、武田氏滅亡後はその遺臣を多く取り込み、その組織形態を模倣したためとも言われています。「大坂冬の陣」での真田幸村の大活躍は、かつて真田家が武田時代に培った兵法そのものですから、信玄の強さはその存在とともに群を抜いていたと言えます。歴史には「教訓」と「ドラマ」が詰まっている 戦国武将をこうして一人ひとり注目してみると、皆それぞれが自らの個性、特性を武器に精一杯、時代を生き抜こうと努力していたのがよくわかります。もちろん、彼らがここまで必死だったのは、文字どおり「戦での敗北が、そのまま死に直結するから」です。当時の日本が過酷な時代だったことをあらためて強く実感します。戦国時代は、群雄割拠の争いの中、たくさんのヒーローたちが生まれ、また消えていった時代でした。その中で歴史に名を残した武将には、それぞれの「学ぶべき長所や教訓」が少なからずあります。また、今回とりあげた戦国武将たちは実際には直接対決していないことも多く、「もしも知謀の毛利元就ならば、武田信玄にどう挑んでいただろう?」などと想像をめぐらすことも、歴史の楽しみ方のひとつです。ぜひ、「教訓」と「ドラマ」が詰まった歴史を学び直すことで、現代を生き抜く知識と教養を、楽しみながら、身につけてください
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/lockscreen/historical_scenary/ar-BBBKHyc?ocid=ems.msn.11172017#page=2

生誕
Helen Adams Keller
1880年6月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・アラバマ州タスカンビア 
死没1968年6月1日(87歳没 
あなたの顔を日の光に向けていなさい。そうすれば影を見なくてもすみます。いつも真理-に目を向けていなさい。そうすれば、あなたの心から不安や心配は消えます。
 問題と対峙しなさい、でも決してそれに支配されてはならない
その問題から、忍耐と思いやりを学ぶのです
自分や他の人の人生に どんな奇跡を引き起こすか分からない     ヘレン・ケラー

グッド モーニング エクササイズ
?この種目は、スティッフ レッグ デッド リフトと似ています。両脚をのばした姿勢で立ち、肩にバーベルを担ぎます。そのまま股関節を中心に体を前傾させます。ベンド オーバーという呼び方をする場合もあります。morning.gif (5069 バイト)
?ハムストリングス(ももの裏側の筋肉)や大殿筋(おしりの筋)、そして下背部を発達させるのに効果的といわれています。
?この種目では膝を伸ばしてある程度の重量を支える形をとります。このことで、足の部分とバーベルの間に大きなスペースが生まれ、腰と肩関節の間の距離が長くなることから腰椎に大きな負担がかかることになってしまいます。
?また、膝を伸ばしたままの状態で行うために、坐骨神経が通常の長さ以上に伸ばされる可能性があるようです。おそらく膝を曲げてこの運動を行うことで、坐骨神経への負担は小さくなるものと思われます。
?ブルース リーが1970年にこのエクササイズを行ったところ、坐骨神経の上流に当たる仙骨神経叢を痛めて医師から「再起不能」宣告をされたそうです。このけがで、彼は約3ヶ月間寝たきりに近い状態になり、さらに3ヶ月間はベッドと椅子の間を歩く程度しか許されなかったとのこと。そこからはい上がってアクション スターとして最高の地位に昇りつめるところは彼のすごいところですが、この障害が治ったわけではなく、彼が痛みを我慢することで普通の生活を可能にしていたのです。そのような訳で、映画の撮影のときは相当な痛みがあったといわれます。
http://web.icofit.net/exercises/resistance/risky_items/good_morning_exercise.html

2009年6月1日、「ライ麦畑でつかまえて」の続編と称し、2009年9月にスウェーデンの出版社から発売される予定の作品「60年後 ライ麦畑を通り抜け」(著者は「J・D・カリフォルニア」)に対し、著者であるサリンジャーは出版差し止めを求め、作者と出版社を著作権侵害で提訴した[3][4]。訴状でサリンジャーは、「知的財産を被告に使わせるつもりはない」「続編はパロディーでも批評でも批判でもない」としている。2009年7月1日、ニューヨーク連邦地方裁判所はアメリカ合衆国内での出版差し止めを命じた[5]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%A7%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A6
The Catcher in the Rye
Published July 16, 1951 (Little, Brown and Company) 
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Catcher_in_the_Rye

『ライ麦畑でつかまえて』解説
Uブックス版『ライ麦畑でつかまえて』には、これまで野崎孝氏による訳者解説が付いていましたが、原著者との新たな契約により書籍に掲載することができなくなりました。このホームページ上にて、訳者解説を再掲いたしました。ご利用ください。もう2年以上も前になるが、アメリカの月刊誌『エスクァイア』(1981年12月号)に、“Catcher Comes of Age”と題する記事が載ったことがある。とりたてて言うほどの斬新な内容ではなかったが、その中で「長年にわたって、若い反逆者たちに、その人生を左右するような影響を与えてきたこの作品も、今や30歳という成熟の年齢に達した」という指摘に接したとき僕は、なるほど、The Catcher in the Ryeも出版以来もう30年か、といった感慨を覚えざるを得なかった。あれが出たのは1951年、朝鮮戦争のさなかであった。最初サリンジャーが持ち込んだ出版社からは、主人公が「クレージー」だと評されて突き返されたこの小説が、ボストンのリトル・ブラウン社の手で出版されたとたんに評判になり、にぎやかな毀誉褒貶の渦の中でみるみるうちに売れ行きをのばし、たちまちにして出版社の予測をはるかに上廻る出版部数を記録したことは既によく知られているところであろう。その後も作者は、それまでに発表した29篇の短篇小説の中から9篇を選んで一本にまとめた『ナイン・ストーリーズ』(1953)を上梓し、引き続き週刊誌『ニューヨーカー』に短篇小説「フラニー」(1955)、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」(1955)、「ゾーイー」(1957)、「シーモア──序章──」(1959)を発表したばかりか、1961年には前記の「フラニー」と「ゾーイー」とを合わせて一本をつくり、63年にはその余の二篇をいっしょにした形の単行本を刊行してもいるからして、その頃のサリンジャーは、アメリカの読書人たちの意識に、しょっちゅうその存在を印象付けていたわけで、しかも、「フラニー」を初め、グラース家の七人兄弟姉妹の誰彼を主人公にした上記4つの作品は、いずれも技巧の限りをつくした、きわめて異色ある繊巧な達成ばかりである上に、それぞれが独立した短篇小説としての完結性を持つと同時に、互いに他を補足し合いながら全体として一つの大きな長篇小説の世界を構成するという結構をも備えていたものだからして、それらは「グラース・サーガ」と通称されたりしながらますます話題を呼び、賛否両論の批評とともに一般読者の関心をいやが上にも煽り立てて、サリンジャーは一時、アメリカ文学界の人気作家となった観があったことも、これまた周知のところであろうと思う。しかしながら、それぞれの作品の魅力にとらえられた読者たちの胸中には、作者とその作品に寄せる異常なまでの愛情と期待とが湛えられているというのに、以後サリンジャーのペンからは、長い間にわたって新しい作品は生まれなかった。1965年になってようやく、6年ぶりの新作短篇「1924年ハプワス16日」が『ニューヨーカー』に掲載されたとはいうものの、それから後は再び沈黙、何の音沙汰もないままに、はや20年近くもの長い長い歳月が流れているのである。いや、作品だけではない。作者そのものの動静すらも皆目見当がつかなくなった。1919年1月1日、ハムの輸入を業としていたユダヤ人の父と、スコッチ・アイリッシュの母との間にニューヨーク市で生まれたサリンジャーは、この大都会の喧噪と雑沓の中で人目にさらされることなくその人間形成期を過ごしたのであったが、『キャッチャー』の出版を契機に突如として襲来し始めた好奇と穿鑿の目の執拗さに堪えかねて、1953年、いわば世の「響きと怒り」から逃れるように、その居をはるか北方ニュー・ハンプシャー州の小邑コーニッシュに移したが、それからは、屋敷の周囲に高い柵を廻らして人目を避け、隠遁者にも似た生活を送っているという風評が伝ってくるのがせいぜいで、作者そのものが世人の眼前からほぼ完全に姿を消してしまった感じなのである。もっとも、1974年には、『ナイン・ストーリーズ』に彼があえて収録しなかった残余の短篇小説を、作者に無断で出版したサンフランシスコの学生グループに、サリンジャーが電話で抗議してきたという『ニューヨーク・タイムズ』の記事を読んだことはある。1980年には、マイケル・クラークソンというカナダのあるニュース雑誌の記者が前年に書いたサリンジャー探訪の小文を読む機会に恵まれた上に、おそらくはその記者がそのとき隠し撮りしたものと思われる二葉のサリンジャーのスナップ写真を見ることもできた。それから例のジョン・レノンを射ったチャプマンという男、その男の上着のポケットにThe Catcher in the Ryeのペーパーバックが入っていたという新聞記事を読んだ記憶もあることはある。いずれも、サリンジャーに対する関心が今なお熾烈であることを窺わせるものかもしれないが、なにせ、それが僕の手にしている情報のすべてであるばかりか、アメリカの敏腕な探訪記者でさえも、それ以上のことは知らないありさまなのだ。もともと正体を人前にさらすことを極端に嫌うサリンジャーではあったけれども、これほど徹底して、これほど長くその消息すらが世間の耳目から隠され続けているならば、移り気な世間の関心はいつしか冷えて、さすがのサリンジャーももはや忘れ去られるのではあるまいかと、僕は秘かに懸念していたのである。ところが先の『エスクァイア』の記事は、この長篇小説が今なお出版当初と同じ売れ行きを続けていることをも伝えていた。30年といえば一世代だが、その記事の筆者も言うように、この作品は世代から世代へと読みつがれ語りつがれながら、読者各自の胸に生き続けてゆくだけの生命を持っているのであろう。もはや近代古典の仲間入りを果したと見てもよいのではあるまいか。独りアメリカだけではない。イギリスはいうまでもなく、フィンランド、ドイツ、フランス、イタリー、ポーランド、イスラエル、チェコ、それにソヴェートでも翻訳出版されて著しい反響を呼んだそうだ。ということは、この作品が、国境を越えて、現代の文明世界の広大な地域にわたるさまざまな人たちに訴える魅力を備えている証拠であり、ここに描かれている主人公の姿には、人種や社会制度や歴史の相違を越えて、現代人一般の共感を呼ぶ普遍的なものが造形されているということである。作品の基本的性格を単純化して言えば、子供の夢と大人の現実との衝突ともいえるだろう。いつの世にも、どこの世界にもある不可避的現象だ。純潔を愛する子供の感覚と、社会生活を営むために案出された大人の工夫との対立。子供にとって、夢を阻み、これを圧殺する力が強ければ強いほど、それを粉砕しようとする反撥力は激化してゆくだろう。主人公ホールデンの言葉や行動が誇張にみちて偽悪的なまでにどぎついのは、大人が善とし美としている因襲道徳や、いわゆる公序良俗なるものの欺瞞性を何とかしてあばこうとする彼の激情の所産である。仮面が身についた大人の常識からすれば、たしかに正気の沙汰とは思えぬ所業であり、ひんしゅくすべき野卑な言葉をまきちらす要注意人物かもしれない。そういう観点からこの作品を禁書目録にのせた学校も地方当局もあったし、逆にまた、心理学その他の教材に使用している教師も少なくないと聞く。しかし、「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならばそんなことは絶対に言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば、葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。祈りもしないのに祈ると言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書く??その無神経、そのインチキさ。更には「幸運とは何か」、相手の「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか、それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反撥の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反撥が理解できれば、この小説は一挙にわかるはずだ。ところが、ホールデンの住む世界には、そうした彼の思考と感情に共感する人間はいなかった。そこで彼は、「孤独だ」「気が滅入った」と繰り返しながらも、心のつながりを求めて遍歴を続けるわけである。何度も何度も電話をかけようとしたり、折りあるごとに「ことづて」を伝えてもらおうとするのは、彼のこの気持を示す象徴的な動作だが、その遍歴の過程において、彼の接触する大人の世界の実体が、彼という触媒の作用によって、ふだんは見せない意外な姿であらわれても来る。その際作者はホールデンを、あの王様の裸を暴露した子供のような、単なる〈イノセンス〉の化身としては設定していない。もちろん子供の夢に全身をひたしている少年ではある。だから、たとえば、自分の金で買った金魚だからと誰にも見せない子供の話などを読むと、「これには参ったね」と文句なく降参してしまうし、妹のフィービーはもちろん、博物館で会う子供でも、スケート靴をはいている少女でも、教会帰りの少年でも、およそ子供には全身的共感を彼は示す。しかし、同時に彼は、大人の心事を見てとるだけの精神的成長をすでにとげている面をもあわせ持っている。サーマー校長でも、オッセンバーガーでも、前に兄のガール・フレンドだったリリアン・シモンズでも、すべてその心の動きを彼によって正確に見抜かれている。「幸運を祈る」といわれることに嫌悪を催した彼が、生きて行くためには「お目にかかれてうれしい」と、うれしくもなんともないときでも、言わなければならないのだとあきらめている姿は、彼が大人の世界に入りかけていることをたくみに示す叙述である。図式化して言い直せば、彼は子供の世界にありながら、大人の世界に片足突っこんだ不安定な姿勢で立っているともいえるし、彼という一個の人間の中に、子供の夢と大人の現実とが混在しているともいえるだろう。16歳の彼の頭の半分が白髪で一杯だというのは、彼の精神状態を象徴的に示している。そういう彼だから、背のびの意味でも、好んで大人の世界に入りたがる。しかし、大人の正体はある程度見抜けても、大人たちが巧妙に、あるいは狡猾に案出した現実処理の方法は十分に会得していない。だから、大人ならばコンヴェンションに従って上手にすりぬけてゆくところを、彼は自分独自の方法で対処するか、方法も見つからぬままに体ごとぶつかるしかない。その結果、大人でも子供でもがあかすことのできない現実の意外な姿があきらかになってゆくわけだ。「見なれた場面を、常とは変わった、興味をひく視点から写し出すこと」がピカレスク小説の一つの特徴であってみれば、これは現代の一種のピカレスク小説ということもできるだろう。個性ゆたかな主人公が自分の体験を自分の口から語って聞かせるという趣向をも含めて、アメリカでは遠くマーク・トウェーンの『ハックルベリー・フィンの冒険』に先蹤を見るし、日本ではさしずめ漱石の『坊っちゃん』あたりに最も卑近な同類を見ることができる。その際、ホールデン少年が最も敏感に嗅ぎわけて、最も烈しい嫌悪と侮蔑を示すのは、彼のいわゆる「インチキ」なもの、「いやらしいもの」であることは前にのべたが、既成の価値観にしばられず、かといってみずからの価値観も確立されていない彼にとって、これが法律上の罪や倫理的な悪などであろうはずはなく、単なる嘘やごまかしでさえなくて、精神の下劣さ低俗さ、根性のきたなさ、そこから来る糊塗、欺瞞、追従といった性質のものである。その不潔さを、思弁的に決定するのではなくて感覚的に感じとり、反射的に反撥するのだから、ことは明快で迅速で、まことにすがすがしい風が全篇を吹きぬけることになる。しかも歯切れのよいきわめて個性的な文体のリズムが、主人公の一方的な自己主張や言動の矛盾などを孕みながら、いやが上にも作品の魅力を増大せしめていることもつけ加えなくてはなるまい。この文体──ホールデンが自分の体験を語ってきかせる、その言葉つき──これは、50年代アメリカのティーン・エージャーの口調を実に的確に捕えていると推賞され、遠い将来には、この時代の口語を探る絶好の資料としても読まれるであろうと評されているものだけに、これを日本語に訳すことは至難であり、それを承知しながらあえてこの難事に挑戦した私の暴挙が、果たしてどこまで原文の感じを移すことに成功しているか、それは大方の判断にまつほかはない。最後に一言、使用したテキストにふれておこう。テキストにはこの作品を初めて出版したアメリカのLittle, Brown and Companyの本を使用した。わざわざこれをことわるわけは、この小説には他にイギリスの版があって、それとこの初版本との間には、かなりの相違があるからである。この相違の生まれたゆえんに疑問を持った僕は、直接作者に問い合わせたのだが、エージェントからの返事によると、イギリス版の改変は先方が勝手にやったことで作者の関知しないところだから、翻訳はアメリカ版によるべきであるということであった。相違の実体を考えると、「先方が勝手にやった」だけでは腑に落ちないふしもあるのだけれど、それを解明する手だてを持たない僕としては、エージェントから上のように言われた以上、全面的にアメリカ版に従うより他に途はなかったわけである。なお、本書は最初、《新しい世界の文学》シリーズの一冊として刊行されたものだが、このたび《Uブックス》の中に加えられることになったのを機会に、かねて気になっていた訳文の不備を及ぶ限り補正したつもりであることを附言する。
    1984年4月  野崎 孝 

ライ麦畑でつかまえて 
もっと詳しく U51 ライ麦畑でつかまえて
J.D.サリンジャー 著/野崎 孝 訳

インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。  
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/rye20.php

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