過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1965(昭和40)年10月07日(木) マリアナ海難、台風で日本漁船が遭難。死者・行方不明者209人 ⇒ 南太平洋に出漁中のカツオ・マグロ漁船7隻が、台風の進路を避けマリアナ諸島アグリガン島付近で台風を待避しようとしたところ、予想に反し台風の中心が同島付近を通過。死亡・行方不明者209人という海外での海難事故としては最大の被害を出した。写真は、巡視船のゴムボートに乗る救助された乗組員ら【時事通信社】※2023年説明追加
 2014(平成26)年10月07日(火) 日本人3人にノーベル物理学賞 ⇒ 赤崎勇名城大教授、天野浩名古屋大教授、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の3氏がノーベル物理学賞に選ばれた。写真は発表記者会見で映し出された3氏の顔写真【AFP時事】※2023年説明削除
 1969(昭和44)年10月07日(火) 西鉄ライオンズの投手が八百長行為で解雇され黒い霧事件に発展
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃    Moses Fleet Walker    ┃
 ┃ モーゼス・フリート・ウォーカー ┃
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‡1856(安政三)年10月07日(tue) Born
 1884(明治17)年05月01日(thu) MLB debut メジャー初出場
 1884(明治17)年09月04日(thu) Last MLB appearance 最終出場
 1924(大正13)年05月11日(sun) Died (aged 67)
 Note・・・弟のウェルデイ・ウォーカーとともに、現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされているヨ(=^◇^=)
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②┃ Weldy Walker ウェルディ・ウォーカー ┃
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 1860(万延元)年07月27日(fri) Born 
 1884(明治17)年07月15日(tue) MLB debut メジャー初出場
 1884(明治17)年08月06日(wed) Last MLB appearance 最終出場
 1937(昭和12)年11月23日(tue) Died (aged 77)
 Note・・・現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされているヨ(=^◇^=)
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 ┃    William Edward White    ┃
 ┃ ウィリアム・エドワード・ホワイト ┃
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‡1860(万延元)年10月XX日(XXX) Born 
 1879(明治12)年06月21日(sat) MLB debut メジャー初出場
 1879(明治12)年06月21日(sat) Last MLB appearance 最終出場
 1937(昭和12)年03月29日(mon) Died (aged 76)
 Note・・・アメリカ野球学会の研究により、メジャーリーグで最初にプレーしたアフリカ系アメリカ人である可能性が示唆されているヨ(=^◇^=)
******************* https://www.uta-net.com/song/78844
①https://en.wikipedia.org/wiki/Moses_Fleetwood_Walker
②https://en.wikipedia.org/wiki/Weldy_Walker
③https://en.wikipedia.org/wiki/William_Edward_White
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 ┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1972(昭和47)年10月07日(土) 300二塁打 対阪神タイガース25回戦 阪神甲子園球場 3回表に村山実から左翼線二塁打 ※史上11人目
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
 https://www.uta-net.com/song/2025
 https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2005(平成17)年10月07日(金) 若大将・原辰徳が監督復帰 
‡2017(平成29)年10月07日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月7日だ。 
 写真◆新コーチ陣がガッチリ握手。前列中央・原監督、右・吉村禎章二軍監督、左・近藤昭仁ヘッドコーチ(当時)
 初のCS進出が断たれた巨人。この時期に、この記事を載せると「ややこしいことを書くな」と叱られそうだが、企画の趣旨をご理解いただき、ご容赦を。 
 2003(平成15)年、「球団内の人事異動」(渡辺恒雄オーナー)で監督を退任した永遠の若大将・原辰徳が2005(平成17)年オフ、堀内恒夫監督のあとを受け、監督復帰。5位、さらに球団ワーストの80敗を喫し、滝鼻卓雄オーナーが「球団創設以来の危機」と発言する中での就任だった。 
‡2005(平成17)年10月07日(金)は、チーム再建に向けた新コーチ陣が発表された日だ。 
 ヘッドコーチにロッテ、横浜で監督を務めたこともある近藤昭仁を置き、二軍監督に吉村禎章、さらには斎藤雅樹(一軍投手コーチ)、岸川勝也(一軍打撃コーチ)、篠塚和典(一軍内野守備総合コーチ)、村田真一(一軍バッテリーコーチ)ら、現役時代からともに戦ってきた戦友たちを呼び戻した。 
 おそらく、野村克也氏からは「お友達を集めてどうする」とぼやかれそうだが、原監督の中では、仲間たちを集めることで退路を断つ思いもあったはずだ。 
「幾多の試練を乗り越え、皆さんと分かち合いたい。分かち合いたいということは、強いチームを作ることはもちろん、何より優勝だと思っています」 
 2005(平成17)年10月05日(水)の就任会見でそう語った原監督。06年は4位に終わったが、その後、CSスタートの07年からはリーグ3連覇。有言実行、見事にチームを立て直した。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1994(平成六)年10月08日(土) 最終戦同率決戦! 伝説の「10.8」
 2017(平成29)年10月08日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月8日だ。 
◎指揮官に悲壮感なし
 写真◆気持ちよさそうに宙を舞う長嶋監督。会心の一戦だった
「みなさん、こういう試合は初めてですか。やりますよ! 総動員です。もう社会現象というか、国民的行事になっていますからね」 
 巨人・長嶋茂雄監督が満面の笑顔で報道陣に語ったのが、
‡1994(平成六)年10月7日(金)、新横浜駅の新幹線ホームだった。ナゴヤ球場で行われるシーズン最終戦への出発前だ。 
 130試合制の129試合を終え、巨人は翌8日に対戦する中日と同じ69勝60敗。最後の一戦での勝者がリーグ優勝という劇的な戦いとなっていた。現役時代、73年の最終戦の阪神戦も勝てば優勝。そのときを思い出していたのかもしれない。優勝か2位かの大勝負だが、目をキラキラさせた長嶋監督に悲壮感はまったくなかった。 
 長嶋監督はその夜、宿舎で槙原寛己を呼び「あすは、お前と斎藤(雅樹)、桑田(真澄)に任す。まず、お前が先発で行け」と告げ、次に桑田を呼び「しびれる場面で行くぞ」と声を掛けた。なぜか斎藤は呼ばなかったようだが、巨人が誇る「先発三本柱」にすべてを懸けたのだ。 
◎槙原が思わぬ乱調
 写真◆二番手で登板し、気迫の投球を見せた斎藤
 決戦当日、試合前のミーティングで、長嶋監督は顔を紅潮させながら「俺たちは勝つ! 勝つ! 勝つ!」と叫び、選手たちも「おう!」と大声でほえた。「選手冥利に尽きるでしょう」と長嶋監督は試合前に話していたが、間違いなく、自分も選手として出たいと思っていたはずだ。 
 初回、巨人の攻撃を中日先発の左腕・今中慎二が簡単に3人で打ち取る。その裏、マウンドに立った槙原がピリッとせず、2本のヒット、1死球を与えるが、大一番の緊張もあってか中日の拙攻に救われ、無失点に抑えた。 
 2回表、均衡を破ったのが、FA入団1年目、40歳の四番・落合博満だ。今中の真ん中低めの速球をスタンドに運び1点。その後、巨人はさらに1点を加えた。 
 しかし、その裏、またも槙原が崩れ、同点に追いつかれ、さらに無死一、二塁とされる。ここで長嶋監督は早くも槙原を見切り、斎藤にスイッチ。槙原は「特別な緊張感はなかったけど、それがよくなかった。何となく自信があって、その勢いのまま先頭打者に初球を投げて、打たれたことですべておかしくなったんです」と語った。 
 そのときブルペンにいた斎藤は「バッテリーコーチの山倉(和博)さんに、斎藤!って呼ばれたけど、こんな場面で投げたくないと、聞こえないふりをしました」と振り返るが、おそらくジョークだろう。ピッチングは気合十分。2日前に先発している疲れを感じさせぬ力投で、その後を抑えた。 
 3回表には川相昌弘がヒット、松井秀喜のシーズン初の送りバントの後、落合がライト前に運び、ふたたび3対2とリードした。 
 しかし、その落合が3回裏の守備中に左足の内転筋を痛めてしまう。痛み止めを打って一度はグラウンドに戻ったが、「迷惑をかけると思い、自分から言った」と4回からベンチに退く。 
◎村田真、コトーの本塁打
 4回表、巨人打線が今中をつかまえた。一死から村田真一、二死からコトーがソロで2点。流れが一気に巨人に傾く。さらに5回表には、今中から代わった山田喜久夫から松井が20号。珍しく右手を大きく上げ、塁を回った。 
 結果論だが、中日にはまだ最多勝の山本昌広、防御率1位の郭源治がいた。巨人同様、早めに2人につなぐ展開も考えられたが、高木守道監督はなぜか動かなかった。 
 二番手の斎藤は6回裏に1点を取られたが、被安打は3で中日打線を沈黙させた。大きな声でほえ、何度もガッツポーズを繰り出す気迫のピッチングを貫く。実は、途中で内転筋を痛め、テーピングでぐるぐる巻きにして投げていたという。捕手の村田真は「足がちぎれても投げろ!」と乱暴な活を入れた。長嶋監督も斎藤を「この試合、一番の功労者」と称えている。 
 7回には桑田が登場。こちらも3日前に8回を投げ、「体がバリバリだった」と言うが、斎藤同様、気迫を前面に出したピッチングで三者凡退に斬って取る。 
◎落合の涙
 写真◆胴上げ投手となった桑田が捕手の村田真が抱き合う
 8回裏、中日も意地を見せた。桑田にとってはPL学園高の後輩でもある立浪和義が三塁前の当たりで一塁にヘッドスライディング。内野安打としたが、左肩を脱臼し退場となった。「野球には流れがある。自分が出たら絶対点になると思った」と語った捨て身のプレーだ。意気消沈としていた中日ベンチにこれで再び火がつき、一死一、三塁とする。 
 しかし、ここで桑田は「さすが立浪。PL野球だ。俺はお前のためにも勝つぞ」と自らを鼓舞し、ギアを上げる。しっかり後続を断った。9回表には、バックスクリーンに当たったかに見えた川相の幻のホームランもあったが、結局、無得点。ただ、きょうの桑田に、もう援護の必要はなかった。 
 その裏、最後の打者を空振り三振に打ち取り、桑田はガッツポーズ。走ってきた捕手の村田真に思い切り、飛びついた。 
 時計は21時22分。笑顔の長嶋監督が5度宙を舞う。自身、1977(昭和52)年以来、17年ぶりの優勝胴上げだ。その後、ベンチから足を引きずって出てきたが、胴上げには参加しなかった落合と長嶋監督が抱き合う。落合の目に涙が浮かんだ。「長嶋監督を胴上げするために来た」と巨人入団。まさに有言実行となった。 
 インタビューで長嶋監督は「竜の背中にまたがり、天にも昇るような気持ちです」と語った。この試合のテレビ視聴率は関東で48.8パーセント。まさに国民的行事だった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171007-11
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171008-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.078 ┃30円
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‡1959(昭和34)年10月07日(水)号 特集 ライオンズ1億円の大攻勢
 2018(平成30)年01月13日(土) 11:08 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『特別リポート 南海は巨人を意識している』
 写真◆表紙は右が中日・森徹、左が桑田武
 今回は『1959年10月7日号』。定価は30円だ。巻頭グラビアは『別所299勝の感激』。ついに巨人・別所毅彦がスタルヒン(巨人ほか)に続く300勝投手となる日が近づいている。 
 本文巻頭は『特集 ライオンズ一億円の大攻勢~三原脩の闘魂未だ消えず』。4連覇がほぼ絶望となった西鉄が総額7000万円とも1億円とも言われる補強費で、有望新人を取りまくっているという話だ。あわせて三原監督の留任も発表されたが、それに対しては、三原監督はいっさいノーコメント。オフの混乱がこの時点から予想される。 
 ペナントレースはセが巨人、パは南海がともに独走。『特別リポート 南海は巨人を意識している』と早くも日本シリーズを展望した記事も登場している。 
 対談は『川上哲治大いに語る』。NHKアナウンサー、岡田実が巨人・川上ヘッドコーチに迫っている。その中で大型新人として期待されながら、なかなか結果を出せない王貞治について触れた個所がある。抜粋しよう。 
 岡田 王君がまあ、正規の一塁手にならないまでも、ジャイアンツの一塁手として活躍する時期は、来年になりますか。 
 川上 そう、来年になるですかねえ。あの人はゆったりしてますからねえ(笑)。 
 岡田 あれがなんとも言えない魅力だな(笑)。 
 川上 いつ欲がついてくるかが問題でね(笑)。 
 岡田 なんか大器という感じがしますね。 
 川上 ほんとに。大物になりますよ、あれは。 
 若手時代の王の性格はよく「大陸的」と書かれている。ルーツが台湾という“色眼鏡”もあるのだろうが、実際に、のんびり、いつもニコニコしていたようだ。 
 新人では阪神で獅子奮迅の活躍を見せていた村山実が腰、左足、さらに右ヒジを痛めて9月4日の試合中に自らマウンドを降り、離脱。新人王の声もかかっていたが、チームが低迷していたこともあり、「無理しないつもりです。来シーズン、ダメになれば元も子もないですしね」と回復するまで登板を回避する方針のようだ。 
 その後、完全に離脱したわけではなかったようだが、9月は結局、勝ち負けなしで10月に3勝0敗。この年の新人王が18勝10敗、防御率1.19(最優秀防御率)の村山ではなく、31本塁打でホームラン王ながら打率.269の大洋・桑田武となったのは、投票にあたる東京と大阪のマスコミの確執があったという話を聞いたことがあるが、この終盤の離脱も響いたのかもしれない。 
※前回記事に対するコメントで9月以降入団なら日本シリーズ出場は無理、の指摘がコメント欄でありました。確かに61年9月入団の巨人の村瀬広基は同年の日本シリーズに出場できず、明らかに現編集部当コーナー担当者の「誤読」だったと思われます。週明けにもう少し調べてから近日中に前回記事を修正したいと思います。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.281 ┃  50円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1963(昭和38)年10月07日(月)増大号 巨人・宮田征典、リリーフ時代の始まり
 2018(平成30)年08月23日(木) 18:16 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎天秤棒打法の秘訣は右ヒザ?
 写真◆表紙は左から巨人・王貞治、長嶋茂雄
 今回は『1963年10月7日増大号』。定価は10円上がって50円だ。 
 巨人・長嶋茂雄と広島・古葉毅の首位打者争いが熾烈になってきた。 
 9月22日時点で長嶋.342、古葉.337。長嶋が「ここ2,3試合で一度は古葉に抜かれるが、俺はあと15試合のところで抜き返すよ」。死球を受けた指がそのくらいには完治するの意なのか。 
 一方の古葉は「巨人より残りゲームが多いから先に長嶋さんが終わって、目標を決めてくれるといいですね」とタイトルに意欲を燃やしていた。 
 南海・野村克也は9月23日現在で41本と小鶴誠の日本記録51本塁打更新に向け、順調だ。ただ、野村自身は目標を自己最多44本塁打更新と語り、51本については「あっさり甲を脱ぐよ」と無関心を装っていた。 
 日本におけるリリーフ投手の確立は明確なスタートの判断が難しい。 
 通常、“8時半の男”と言われた65年の巨人・宮田征典からとあるが、62年、広島・竜憲一が60試合で19完了、南海・杉浦忠が43試合で同じく19完了とリリーフ専門投手は徐々に誕生していた(杉浦は血行障害で長いイニングが投げられなかった)。 
 ただ、2人の防御率はともに3点台。守護神とはとても言えず、最多交代了はセが大洋・秋山登の32、パが近鉄・久保征弘の29。先発が合間に抑えを兼ねる球団がまだまだ主流だった。 
 その中で、この63年の宮田征典が元祖と言ってもいいのではないか。 
 47試合に登板し、交代了はリーグ最多の25、防御率は1.88となっている。 
 当時の球界であれば、このくらいのピッチングをすれば自然と先発に回っていくが、宮田の場合、心臓に持病があり、長いイニングを投げることが難しかった。 
 本人も「僕は先発ではない。ただ、いつも1回表一死も取れず、先発が崩れてもマウンドに上がるつもりでいる」と言う。訓練し「いまは15球で肩ができる」とも語っている。 
 天秤棒打法の大洋・近藤和彦が自身の打撃について語るコーナーもあった。 
 ただ、「なんとなくやっているうちにそうなった」と構えにはさほどこだわっていないようだ。 
 むしろ大事にしていたのは、踏み出す右ヒザ。ここを柔らかく使い、投手の変化に対応しているという。 
 基本記事は午後13時までにアップ目標だが、時々所用で遅れてしまいます。 
 ご容赦を。 
 では、またあした。<次回に続く> 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180113-13
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180823-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.543 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年10月07日(月)号 阪神・江夏豊、ライバルの巨人・王貞治から狙って決めた奪三振日本新記録
 2019(令和元)年09月09日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎試合は江夏自らのサヨナラ打で決着
 写真◆表紙は阪神─巨人戦。バッキー乱闘事件
 今回は『1968年10月7日号』。定価は60円。 
 1968年9月17日からの阪神─巨人4連戦(甲子園)は、当時、阪神の凋落もあって魅力が落ちていた「伝統の巨神戦をよみがえらせた戦い」とも言われた。 
 全部書くと、かなり長いものになるので小出しにしていく。 
 7月4日時点で10ゲーム差あった巨人との差を8月に一気に詰めた阪神。9月17日の試合を前にゲーム差は2となっていた。 
 この日、阪神先発はプロ2年目の左腕・江夏豊。すでに345個の三振を奪い、西鉄・稲尾和久の持つ353三振まで、あと8個。完全に射程距離だ。「新記録は巨人戦で作りたい」と言い続けてきた江夏の願いがかなった(あるいは計算どおり?)ともいえる。 
 朝、阪神の寮。ほかの選手がすべて朝食をすませても、江夏はまだ眠っていた。もともと朝は遅いタイプだが、この日はさらに遅い。 
「俺は大試合になればなるほど、その前夜ぐっすり眠れるんだ」 
 と江夏。正午に起き、午後4時、合宿を出た。 
 この日は母親も観戦した。江夏は、 
「よし、タイ記録は王(貞治)さん、新記録は長嶋(茂雄)さんからいくか。おふくろも来ていることだし、負けられない」 
 と話していたという。 
 江夏は序盤から快投を見せ、4回に王からこの試合8個の三振を奪い、タイ記録。さらに次の回の先頭打者・長嶋から新記録を狙ったが、センターフライとなった……。 
 と、この号にはあるが、江夏の自伝などでは「絶対に王さんから新記録と思っていた。1つ間違えていてタイのときに新記録と思ったのだが、あと1つと聞いてあせった」という内容になっている。 
 いずれにせよ、新記録は王と決めていたのだろう。 4回で8三振の江夏は、その後、7回の王の打席まで、1つも三振を奪わず、点も取られない、という奇跡のようなピッチングを見せた。 
 迎えた7回、一死で王だった。第1球は外角低めへのストレート、次は真ん中に入ってくるカーブでファウル。3球目、高めの捨て球の後、4球目。見送ればボールの高めの真っすぐに王のバットが空を切った。新記録達成だ。 
 江夏はこう振り返る。 
「王さんの目は血走っていた。2-1のカウントから空振り三振に打ち取ったとき、王さんの目は何ともいえないくらい険しかった」 
 消化試合などではない。互いに絶対負けられない死闘の中での江夏の圧倒的で、かつ芸術的なピッチング。ただただ、すごい。 
 ただし、この試合、巨人先発の左腕・高橋一三も好投を見せ、0対0のまま延長戦に入った。  
 延長12回二死一、二塁。打席は江夏だった。このとき阪神のコーチは藤本定義監督に「代打を出しては」と言ったという。打者顔負けの江夏のバッティングは分かっていたが、球数が120球を越えていた。すでに中2日で19日の試合でも先発させる予定だったからだ。 
 しかし藤本監督は、 
「勝つまで江夏に投げさせる」とそのまま打席に送ると、なんとサヨナラ安打だ。 
 阪神の全ナインが飛びだし、江夏を握手攻め。 
 村山実は、「本当によくやった。江夏はこれから阪神を背負って立つエースや。ますます楽しみな男や」と興奮して話す。 
 記者団が差し出したマイクに江夏は「うれしい」を連発。タオルで盛んに顔を拭いていたが、ふき出た汗だけでなく、光った目からあふれるものをぬぐっているようにも見えた。 
「辻(恭彦)さんのリードに助けてもらいました。この4連戦はうちにとって絶対に負けられないものです。きょうの第1戦に勝ててほっとしています」 
 7回の王のとき、三振を取れると思ったか、の質問には、 
「はい。そうなったから言うわけではありませんが、取れると、そのとき思いました」 
 とはっきり答えた。 
 次回は同じ号から18日の戦い。今度は世紀の乱闘だ。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.544 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年10月07日(月)号 蹴って、殴って、どっちも痛かった?阪神・バッキー対巨人・荒川博コーチ(前編)
 2019(令和元)年09月10日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎真相は藪の中?
 写真◆表紙は阪神─巨人戦。バッキー乱闘事件
 今回は(今回も)『1968年10月7日号』。定価は60円。 
 1968年9月17日からの阪神─巨人4連戦(甲子園)からの第2弾だ。 
 前回は阪神の2年目左腕・江夏豊が巨人・王貞治から“狙って”の日本新の奪三振記録をつくり、かつ自らのバットでサヨナラ勝ちした17日のゲームを紹介した。 
 これで阪神は、7月4日時点で10ゲーム差あった首位巨人との差を1ゲームとした。 
 翌18日はダブルヘッダーだ。 
 まず初戦は阪神の先発・村山実と巨人・堀内恒夫の投げ合いとなったが、0対0で来た9回裏、阪神の捕手・辻佳紀(ヒゲ辻)が堀内からサヨナラ2ラン。ゲーム差もなくなった。 
 2試合続けての名勝負、しかも阪神の連続サヨナラ勝ちに、甲子園のボルテージも上がっていたが、この日の第2試合がとんでもない展開となった。 
 先発バッキーの乱調で、阪神劣勢で迎えた4回表だった。 
 バッキーが巨人・王に投じた2球目が1球目に続けて、王をのけぞらせる球となる。 
 王はバットを持ったままマウンドに向かい、バッキーと何やら言葉を交わすが、このとき巨人ベンチから荒川博コーチがバッキーに向かって猛ダッシュ。勢いのままに蹴りを入れようとした荒川に対し、バッキーが右パンチを繰り出し、頭部付近に当たった。 
 そこからは両軍入り混じっての大乱闘だ。 
 あとでバッキーは、 
「ボクが2球目を投げた後、王が歩いてきた。なんですか? って聞いたら、危ないじゃないのバッキー、気をつけてくれ、と言ったのよ。だから僕は(捕手の)サインどおりインコースに投げただけといったのよ。そしたらオーさんは、OK、と言って分かってくれた。ところが、巨人のコーチ(荒川)が走ってきて、いきなりボクのことを蹴飛ばした。ボク、しようがないからパンチで防いだんだ。守るためには、仕方がないね。 
 32番(滝)、35番(千田)もボクのことひどく殴った。オーが納得してくれたのに、なんで巨人ベンチからあんなにいっぱい来て、ボクをいじめたのか分からない。ホント、クレージーだよ」 
 と話していた。 
 一方、荒川は、 
「王がバッキーのほうへ歩み寄ったとき、いきなり千田(千田啓介)が走っていった。それでこれはいかん、止めようと思って止めに入ったんだ。ところがバッキーは何を勘違いしたか、いきなり殴りかかってきやがった」 
 という。 
 これで荒川は前頭部裂傷、バッキーは全治2カ月の右手親指骨折となった。 
 特にバッキーは痛い。 
 巨漢のバッキーに対し、突っ込んだ荒川を無謀と思うかもしれないが、荒川は合気道の有段者。当時は「荒川は本気にならなかったのが、バッキーには幸運だった」とも言われた。 
 こう書くと、荒川がハッタリ屋のように思うかもしれないが、当連載担当者が、20年ほど前、生前の荒川を取材した際、 
「好きなように押してみなさい」 
 と言われて(やりたくなかったが)やってみたが、まったく動かなかった。 
 シーズン復帰絶望となったバッキーはさらに続ける。 
「十年間野球をやってきて、こんなことは初めて。悲しい、とても。もう嫌。それに日本のプロ野球はひどい。ボクの投げるインコースの球全部、ビーンボールにする。アメリカじゃあんなことない。ボク、どこに球を投げたらいいのか」 
 結局、荒川、バッキーの退場で20分後試合が再開されたが、今度はバッキーに代わった権藤正利が王の頭部へ死球。そのまま頭を押さえて倒れ込んだ。 
 巨人・金田正一の、 
「わざとやったんだろう」 
 の声を合図に再び乱闘がスタート。客席からも次々乱入者があった。 
 ちょっと長くなってきたので、この試合の記事、あしたに続きます。 
 では、また。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.545 ┃  60円
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‡1968(昭和43)年10月07日(月)号 ワンちゃんのためにも!長嶋茂雄、怒りのホームラン
 2019(令和元)年09月11日(水) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎江夏は中1日でまたも完封勝利
 写真◆表紙は阪神─巨人戦。バッキー乱闘事件
 今回は(今回もさらに)『1968年10月7日号』。定価は60円。 
 1968年9月17日からの阪神─巨人4連戦(甲子園)からの第3弾だ。 
 第1弾は、阪神の2年目左腕・江夏豊が巨人・王貞治から“狙って”の日本新の奪三振記録をつくり、かつ自らのバットでサヨナラ勝ちした17日のゲームを紹介した。 
 第2弾は、翌18日はダブルヘッダー。初戦は阪神の村山実の完封勝ち。最後は辻佳紀(ヒゲ辻)のサヨナラ2ランだった。 
 しかし第2戦では阪神先発・バッキーが王に投じた危険球をきっかけに大乱闘となった。 
 さらに退場となったバッキーに代わった左腕の権藤正利が、打席の王の頭部へ死球を与えてしまい、再び大乱闘……。 
 ここまでが前回のあらすじ。 
 先に進める。 
 そのまま頭を押さえて倒れ込み、タンカで病院に運ばれた王だが、幸い軽症。後日、少し耳鳴りがあったらしいが、「気にしない」と明るい声で言っていた。 
 王は“事件”についてこういっていた。 
「バッキーは大事な一戦で劣勢に立ち、それもエラーがまじった点の取られ方でカッカしていた。だから、そろそろきわどい球(ビーンボール)を投げてくるんじゃないかと思ったら、案の定1球目から来た。だからそのときも注意した。ところが2球目もまた来た。それで“危ないじゃないか。スポーツマンらしくフェアにいこう”、そういおうと思ってバッキーのところに行った。バッキーは“ぶつけようとしたんじゃない。捕手のサインどおりに投げたんだが、それが近くに行き過ぎた”というんで、戻ったんだ」 
 さらに権藤からの死球については、 
「ワンスリーで僕も向かっていったところだった。急にボールが見えなくなって、ガツーンだよ。でも、権藤さんは絶対に意識的に投げたんじゃない。そう信じている」 
 さすが人格者・王。 
 この試合、これだけでは終わらない。 
 巨人の選手に1人、乱闘を少し離れたところで静かに見ていた男がいた。次打者の長嶋茂雄である。 
「冷静だったというわけじゃないんだ。腹の中にはバッキーへの怒りがあったけど、あのもみ合いの中に入っていく気はなかった。 
 ワンちゃんが死球で倒れた後、その怒りを変な形でぶつけちゃいけない。野球選手の怒りはゲームの中で表現しなくちゃね。そういう意味じゃ、あのとき俺燃えてたね」 
 カッコいい。 
 その言葉どおり、長嶋はダメ押しともいえる3ラン。巨人は10対2と大勝し、再び首位を取り戻した。 
 さらに第4戦もすごい。中1日で先発した阪神・江夏豊は、またも完封、またも自ら勝ち越し打だ(3対0)。これで阪神は再び巨人にゲーム差なしとした。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.035 ┃ ONLINE
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 代走だけで1シーズン25盗塁を決めたスペシャリスト藤瀬史朗
 2018(平成30)年1月27日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 すさまじい快足
 代走だけで106盗塁をマークした藤瀬
「ゴーゴー、ふ・じ・せ!」 
 近鉄が連覇を飾った1979(昭和54)、80(昭和55)年ころ、多少リードされていても、終盤に一人、塁に出ると、客席が一気に沸き、西本幸雄監督が、その男の名を告げると、大コールが始まった。 
 すさまじい快足で、すぐ二盗、さらに次のヒットでホームまでかえってくる代走屋の藤瀬史朗が出れば「勝負は、まだまだ分からんでえ」というワケだ。 
 実働7年で、代走では106盗塁(全体で117盗塁)。成功率も高く、
 1979(昭和54)年は代走だけで25盗塁、成功率は9割を誇る。絶対に走るだろうと警戒されながらの数字だけにすごい。 
 当時、最大のライバルの阪急戦を得意とし、
‡1977(昭和52)年10月7日(金)から
 1981(昭和56)年08月に刺されるまで33回連続、約5年間にわたってアウトなし。同一カードの連続盗塁成功最多記録も持っている。 
「1979(昭和54)、1980(昭和55)年は緊迫した場面での出場が多かったんですが、そんなときほど盗塁の面白みや喜びがあるんですよ。相手バッテリーが警戒してクイックやけん制を多投したり。もう化かし合いですよね。それをかいくぐって大事な場面で誰かのヒットをホームインにつなげたという充実感は、そりゃ大きかったですよ」と藤瀬は語っている。 
 藤瀬史朗(ふじせ・しろう) 
 1953(昭和28)年7月2日(木)生まれ。桜宮高から大体大を経て
 1976(昭和51)年ドラフト外で近鉄入団。徐々に代走での起用が増えた。年間代走盗塁数25、同一カード(阪急戦)連続盗塁成功33は日本記録でもある。
 1984(昭和59)年限りで現役引退。通算成績436試合、45安打、4本塁打、12打点、117盗塁(うち代走で106)、打率.206
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.196 ┃ ONLINE
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 前日頭部への死球で病院に運ばれながら放った劇的満塁弾
 2018(平成30)年7月7日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 ◎広島との熾烈なデッドヒートのなかで
 写真◆満塁弾を放った巨人・クロマティ
 鈍い音が客席まで届き、一瞬、満員の神宮球場が静まり返った。 
 1986(昭和61)年10月2日(木)、ヤクルト対巨人の6回一死。ヤクルト・高野光の145キロのストレートが巨人・クロマティの右頭部のヘルメットに直撃。大きく三塁側にはねた。タンカで運ばれ、そのまま救急車で病院へ。試合後、「外角球と思い、踏み込んだのでよけ切れなかった。ぶつかった瞬間も覚えているし、大丈夫」と本人のコメントが出され、治療に当たった医師も「首に痛みがあるようだが、頭の中ではない。後遺症はないでしょう」と説明した。 
 8月に入り、首位に立った巨人だが、
 1986(昭和61)年9月23日(火)直接対決で敗れて広島に抜かれ、さらに翌日、四番の原辰徳が広島の守護神・津田恒実の球をファウルした際、左手有鉤骨骨折で離脱。試合も敗れた。 
 だが、そこから巨人は息を吹き返し5連勝。再び広島を抜く。その原動力となったのが新四番・クロマティだ。そこでの死球。試合には勝ったが、王貞治監督の眉間のシワがさらに深くなった。 
 翌1986(昭和61)年10月3日(金)、クロマティは再検査を受けた後、家に戻り仮眠。そこから自分で車を運転し、ヤクルト戦開始近くに神宮球場入りした。練習はしていないが、王監督には「代打でいいから出してほしい」と申し出た。 
 巨人は水野雄仁が先発も初回、いきなり3失点。それでも3回表に3点を取って同点にし、マウンドに斎藤雅樹を送った。クロマティもブルペンに向かい、投手の球筋を追う。いまさらバットを何回も振るより、目を慣らしたほうがいい。あとは1球で仕留めればいいのだ。 
 ◎奇跡のひと振りでベンチも涙、涙
 6回だった。二死満塁とし、打者は一番・松本匡史。ここで王監督は決断した。クロマティの名を告げる場内アナウンスと同時に、すさまじい歓声が起こる。1ボール2ストライクの後、尾花高夫の外角への速球だった。バットを一閃すると打球はバックスクリーン左へ。満塁本塁打だ。クロマティは右手こぶしを突き上げ、大きくほえた。 
 ホームにかえると選手、コーチが泣き笑いで次々抱きついてきた。巨人ファンからクロマティが好きな「バンザイ」コールが起こった。 
「みんな泣いていたし、オレも泣いたよ。ベリー・エキサイティング!」とクロマティ。一番泣いていた感激屋の中畑清は「こんな試合をしたんだ。絶対優勝できるぞ!」と目をぎらつかせて語った。 
 この試合、8対3で勝利した巨人は、さらに翌日の阪神戦にも勝ったが、広島も負けない。巨人は
‡1986(昭和61)年10月07日(火)、同じ神宮でヤクルトに逆転負けし、ついにゲーム差なしながら2位転落。
 1986(昭和61)年10月12日(日)には広島の優勝が決まり、巨人はわずか3厘差で優勝に届かなかった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
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 燃え尽きてもなお黒田博樹がマウンドに上がる「新たな使命感」
 2015(平成27)年12月28日(月)8時0分『webスポルティーバ』配信 前原淳●文 text by Mehara Jun
 現役続行を表明した広島・黒田博樹 photo by Koike Yoshihiro 
「燃え尽きたところがある」
 2015(平成27)年10月7日(水)のシーズン最終戦終了後にそう口にしてから62日目。黒田博樹(広島)が出した答えは、現役続行だった。9年間も力を証明し続けた前田健太が「世界のマエケン」になる日「1年間必死に戦ってきた中でどこかで燃え尽きた部分もあったんですけど、来季やるにあたっていろんなモチベーションを探して……。やっぱりモチベーションを探すというのは、どこかでもう1年やりたいというか、やらないといけないという気持ちがあったんだなという気持ちですかね」自ら決断した理由を探すように、言葉を紡(つむ)いだ。41歳で歩む現役続行は厳しくつらいものになると、覚悟を要した。何度も引退の道に歩を進めようとする自分がいた。だが、そのたびにもう一方の道の先で待つ人たちの顔が立ち止まらせた。「球団、ファンの人を含めいろんな人にまだやれるということを言われ、それに応えないといけないというか、応えるのがプロとしてやらないといけないことかと。あとは若い投手の中に『来年もよろしくお願いします』と。社交辞令かもしれないですけど、そういう言葉をもらって、そこで辞めるという決断を自分にはできなかった」広島に入団してから19年、野球を楽しいと思ったことはない。海を渡っても、その思いは変わらなかった。8年ぶりの日本復帰。大歓声で迎えられるマウンドは特別であっても、楽なものではなかった。プロとして投げてきた。ならば、たとえ厳しい道であっても、そこに自分を待ってくれている人がいるならばマウンドに立たなければいけない。そう自らを奮い立たせ、引退への道を断ち、現役続行の道を歩むことを決めた。昨年のオフはヤンキース残留、米国内の移籍、広島復帰、現役引退の4つの選択肢だった。そして「広島復帰」の道を選んだ。広島のファンだけでなく、日本全国のファンから歓迎され、注目を集めた。そして期待に違わぬ投球を見せた。07年まで広島で見せていた力強い直球で押すスタイルから、投球は円熟味を増した。カットボールやツーシームを両サイドに投げ分けながらストライクゾーンを目いっぱい使い打ち取っていく。マウンドでの立ち居振る舞いが、7年間メジャーリーグで結果を残してきたことの何よりの証明となった。6月までに6勝を挙げ、オールスター戦にはファン投票で選出された。だが、5月の右足くるぶし付近の炎症による登録抹消に続き、7月には右肩炎症により2度目の登録抹消を味わった。日本の蒸し暑さなど7年過ごした米国との違いに適応することは容易ではない。40歳の体は悲鳴を上げる寸前だった。それでも今季、黒田は26試合に先発し、11勝8敗。防御率2.55の成績を残した。ファンは「現役続行」を疑わなかった。それどころか、米球界復帰を不安視する声まで聞かれた。だが、球団関係者や担当記者の中では「引退するのではないか……」という声が上がっていた。08年からドジャースと結んだ複数年契約の最終年となる10年から「いつ最後の試合となってもいい」という気持ちで投げてきた。だからこそ球団側が複数年契約を提示しても、単年契約を希望した。そういう男だ。今季も目の前の試合にすべてをかけてきた。普段は関西のおもしろいおっちゃんの印象も、登板日が近づけば周囲を寄せ付けないオーラを漂わせる。マウンドに上がれば、戦う男。打球に対し右手を出して止めに行こうとすることもあった。緒方孝市監督や畝龍実投手コーチがいくら言っても、黒田の戦う本能を止めることはできなかった。さらに、相手投手を威嚇することもあった。苦手な打撃でも腕を目いっぱい伸ばして食らいつこうとする。勝利への執念を人一倍見せた。それは同時に自ら燃え尽きようとしているようにすら感じたほどだった。実際、シーズン終了後は「燃え尽きた」と語った。それでも現役続行の道を歩む決断をした。野球を楽しいと思ったことはない。それでもプロとして求められる存在でありたいと思い続けた。広島でエースとなり、海を渡っても名門で大黒柱を担った。日本に帰ってきた今季、歓声は想像以上だった。41歳となる来季も、自分を求めてくれる人がいる。「プレッシャーはありますけど、最後はやらないといけないというのが自分のどこかにあったんじゃないかなと思います」新たな使命感を胸に、黒田は来季へ歩を進めている。結論を出した明確な答えは、その道程にあるのかもしれない。

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