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2024(令和六)年六月弐拾弐日もうひとつの(土)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)


 映像◆【自民党の闇】コロナ利権と参院選と|参政党
 2022(令和四)年06月08日(水) 13:52 午前10時に東京で記者会見
 2022(令和四)年06月09日(木) 13:42 収録日
 2022(令和四)年06月16日(木) YouTube公開 105,934回視聴16:37 2022/07/25(月)
 自民党の闇?献金、無人病床、歯科健診義務化、緊急事態条項などなど、参政党 参議院埼玉選挙区支部長の坂上さんと対談してみました。
※あくまでダニエルはどの団体にも肩入れしません。このチャンネルの視聴者メリットがあるので対談をしているスタンスです。
 ~ゲストプロフィール~坂上仁志(さかうえひとし)参政党 参議院埼玉選挙区支部長 株式会社フォスターワン 代表取締役社長 経営コンサルタント 講演・研修講師
 坂上さんからのお知らせ↓↓↓
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 参政党・埼玉、ボランティア募集中!
‡2022(令和四)年06月22日(水)ポスター貼り、チラシ配り、SNSも
 2022(令和四)年06月23日(木)ポスター貼り、チラシ配り、SNSも
 https://bit.ly/3lgIeIV
 

「生還不能の新兵器」で多くの部下を死に追いやった「司令部の無能ぶり」 一度は却下されたはずが…
‡2022(令和四)年06月22日(水) 05:00『現代ビジネス』神立尚紀
 1944年10月25日、75年前の今日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする「搭乗員必死」の戦法は、戦局が圧倒的に不利になってから採用された作戦である。だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われない戦場へ搭乗員たちが死を決して出撃していくという状況になっていたという。この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻という作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部のあまりの無策ぶりにあるという。
 <【前編】特攻機の盾となった戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」>に引き続き、その経過を語ります。
■たった一度の攻撃で戦力の8割を失う■
このときの日高隊には、さらに追い打ちをかけるような、隠れた出撃時の不手際があった。
通常、空母から発進するさいには、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れないまま発艦していたのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携がとりづらい欠点があった。
空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置がわからない。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時にかかった荷重のせいか、故障していて何も聞こえない。無線も通じず、進退きわまった日高は、列機を小隊ごとに解散させ、おのおのの小隊長の航法にまかせて母艦に帰投を試みることにしたが、2機が機位を失して行方不明になった。
日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐことができたが、このために、ただでさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とほぼ半減し、敵空母上空に待ち構えていた38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。
艦攻、艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火をかいくぐって、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機、艦爆17機、零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆はそれぞれ4機のみである。8割を超える艦爆、艦攻を、たった一度の攻撃で、搭乗員とともに失ったのだ。
 昭和17年10月26日写真◆南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」c 現代ビジネス 昭和17年10月26日、南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」
「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長とともに戦死したのは、このときのことだった。
――日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令どおり、攻撃隊の護衛についていれば味方攻撃隊の犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、そうするとみすみす敵機による味方機動部隊への攻撃を許すことになり、ミッドウェー海戦の二の舞になった可能性もゼロではない。
こんにちの目で日高の判断の是非を論じるのはむずかしい。だが、現場指揮官が遭遇し、瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも、「自分が日高大尉の立場ならどのように行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われたほどの教訓を、この戦いは残した。
■「サクラサクラ」■
機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、ただちに第二次攻撃隊の準備にかかり、「翔鶴」から零戦5機、九九艦爆19機、「瑞鶴」から零戦4機、九七艦攻16機を発進させた。
第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、さらに対空砲火を浴びて、艦爆12機、艦攻10機、零戦2機を失った。米空母「エンタープライズ」と戦艦「サウスダコタ」に新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力にはすさまじいものがあった。
そんななか、第二次攻撃隊に参加した「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉/1921-2005。戦後、森永製菓勤務)は、被弾し、気息奄々としている敵空母「ホーネット」を上空から見て、機上でバンザイを叫んだという。佐々木原は、日記に次のように記している。
〈クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信してくるのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判らなければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話に切り換えたが感度なく、電信にダイヤルを切り換えると間もなく感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼びかけているのが聞こえた。シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書きとめる。
『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』
次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する〉
 写真◆空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
「翔鶴」より索敵に発進していた吉野治男一飛曹(のち少尉/1920-2011。戦後、東京電力勤務)は、途中、敵艦上機と遭遇したほかは敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰ってきた。吉野は語る。
「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入っていた。「翔鶴」はそれを回避するために右に転舵したのである。吉野の目前で、「翔鶴」はたちまち、おびただしい水柱と煙に覆われた。
「翔鶴」には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェーのときのような誘爆は起さずにすんだが、「瑞鳳」に続いて発着艦が不可能になった。吉野機をはじめ、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は、すべて「瑞鶴」に着艦せざるを得なくなる。同じ頃、艦隊前衛の重巡「筑摩」も、敵の爆弾4発を受けた。
 写真◆空母「翔鶴」艦攻隊・吉野治男一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「翔鶴」艦攻隊・吉野治男一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
■魚雷の命中はサッカーと同じチームプレー■
いっぽう、機動部隊本隊の西方にいた前進部隊の空母「隼鷹」は、敵との距離280浬(約520キロ)の位置から、志賀淑雄大尉(のち少佐/1914-2005。戦後、会社経営)が指揮する零戦12機、九九艦爆17機の第一次攻撃隊を発進させている。志賀の回想――。
「断雲の間から、いきなり1隻の空母が現われ、飛行甲板からグラマンが2機、発艦するのが見えました。『あ、いいぞ、あれに行くんだな』と、艦爆が単縦陣になって降下していく上を、戦闘機のほうがスピードが速いのでつんのめらないようにエンジンを絞って蛇行運動しながら、ついて行きました。とにかく、艦爆はどっちに行く?敵戦闘機は?と考えながら、対空砲火なんか全然目に入りませんでしたね。
そして、いくつかの断雲をぬけて、あっと思ったら戦艦の真上に出てしまったんです。『あれ、戦艦だ』と思う間もなく高度70メートルぐらいにまで下がったと思います。大きな煙突が目の前に現われて、てっぺんに金網が張ってあるのがはっきりと見えましたよ。艦爆の三浦尚彦大尉機について行ったはずだったんですが、雲の中ではぐれたんでしょう、三浦機がいつ火を噴いたのかもわかりませんでした」
 写真◆空母「隼鷹」飛行隊長として零戦隊を率いた志賀淑雄大尉(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「隼鷹」飛行隊長として零戦隊を率いた志賀淑雄大尉(右写真撮影/神立尚紀)
志賀は意識しなかったが敵の防御砲火はここでも衰えを見せず、艦爆隊17機のうち9機が撃墜されている。
「隼鷹」ではさらに、第二次攻撃隊として、九七艦攻7機に魚雷を積んで、零戦8機とともに発進させる。雷撃隊は、敵空母に魚雷3本、巡洋艦に1本を命中させたと報告したが、2機が撃墜され、艦攻隊の全機が被弾した。空母「飛龍」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃で戦艦「オクラホマ」、ミッドウェー海戦で空母「ヨークタウン」に魚雷を命中させた「隼鷹」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(のち少尉/1922-2010。戦後、木材会社勤務)は、この攻撃でも「ホーネット」に魚雷を命中させている。
「雷撃というのは、サッカーと同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めして初めてゴールできる。私の魚雷が命中したといっても、単機で攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けてくれて戦死したみんなの力なんですよ」
と、丸山は回想している。
 写真◆空母「隼鷹」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 空母「隼鷹」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)
■戦死者数が日米逆転した海戦■
「瑞鳳」と「翔鶴」が被弾し、空母が「瑞鶴」だけになった第一航空戦隊は残存機をかき集め、零戦5機、九九艦爆2機、九七艦攻6機の第三次攻撃隊を発進させる。ここまでくると、もはや敵の反撃もまばらになっていた。
「隼鷹」も、帰ってきたばかりの第一次攻撃隊の生き残りのなかから使用可能な飛行機を集め、零戦6機、九九艦爆4機からなる第三次攻撃隊を編成した。零戦隊指揮官は志賀大尉、艦爆隊は、第一次攻撃で分隊長クラスが戦死したので、初陣の加藤瞬孝中尉が指揮をとることになった。
初めての戦闘で、すさまじい防御砲火をくぐりぬけてやっと生還した加藤中尉は、報告の声もしどろもどろで、まだショックから立ち直っていなかった。搭乗員待機室で参謀・奥宮正武中佐から、
「加藤中尉、もう一度願います。こんどは君が指揮官をやってもらいたい」
と伝えられた加藤中尉は、
「えっ! また行くんですか」
と、驚いた顔をして立ち上がった。志賀は語る。
「加藤中尉はトンちゃんの愛称で親しまれている、かわいい男でした。蒼ざめている彼に、『トンちゃん、戦争だぞ。敵を最後までやっつけないと勝ったとは言えないぞ。俺がついてるから、攻撃がすんだら、戦闘機を誘導せずにまっすぐに帰ればいいから』と励まして出撃したんです」
「隼鷹」第三次攻撃隊は「ホーネット」に全弾を命中させ、艦爆隊は志賀に言われた通り、一目散に母艦へ帰っていった。すでに夕闇が迫っていた。志賀は列機をとりまとめ、クルシーのスイッチを入れた。すると、母艦からの電波が入り、クルシーの航路計の針がピクンと動いた。発艦前、志賀は海軍兵学校で一期先輩の「隼鷹」通信長・佐伯洋大尉に、
「もし、無線封止だなんて言って電波を出さなかったら、帰ってきたらぶっ飛ばすぞ」
と言い置いて出てきたが、通信長の律儀さがありがたかった。故障しやすいクルシーが生きていたのも幸運だった。翼端の編隊灯をつけ、はぐれないようガッチリと編隊は組んだまま、針が指し示す方向に飛ぶこと1時間あまり、周囲はすでに暗闇に包まれている。突然、針がパタッと倒れた。志賀が下を見ると、真暗な海面に、パッと母艦の中心線のランプが、縦一線に灯った。「隼鷹」であった。この海戦で、日本側は米空母「ホーネット」と駆逐艦1隻を撃沈、「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」ほか2隻が被弾。空母の喪失はなかったものの、飛行機92機と搭乗員148名、艦船乗組員約300名を失った。これは結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊に対し、互角以上に戦った最後の機会となったが、搭乗員の戦死者数で見ると、
 同年6月5日~6日 空母4隻を失い大敗したミッドウェー海戦の121名をも上回る。特に、真珠湾攻撃以来、実戦の経験を積んできた艦上爆撃機、艦上攻撃機の主要指揮官の大部分と練達の搭乗員を失ったことは、以後の作戦にも大きく影響する、取り返しのつかない痛手だった。米軍パイロットの戦死者は、ミッドウェー海戦では日本側の倍近い210名だったのに対し、南太平洋海戦でははるかに少ない26名(別に艦船乗組員約240名)だったとされている。艦船の得失では日本側の勝利ともとれるが、人的損失と、それによって受けたダメージは、日本側の方がはるかに大きかったのだ。岩下邦雄は、この海戦で兄・石丸豊大尉が戦死したのは、日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が、進撃途中で編隊を離れ、味方の攻撃に向かう敵機と戦ったために、艦爆、艦攻隊の護衛が手薄になった一面は否定できないが、自身の経験と照らせば責められないと言う。
「自分がのちにフィリピンや沖縄で、艦爆隊や特攻機の護衛をした経験からいえば、どうやったら効果的な掩護ができたのか、どうすればベストだったのか、最後まで答えが出ないままでした。いまもときどき自問自答しますが、ほんとうにわからない。攻撃隊を護衛したことのある戦闘機乗りならみんなそうだったと思います。だから、兄貴が戦死したことで、日高さんの判断をとやかく言う気は全くない。兄貴と日高さんは海兵同期なんですよ。クラスメートを護衛できなかった日高さんも、かなり辛い思いをされたんじゃないでしょうか」
 写真◆岩下邦雄(左)と日高盛康(右)。平成14年9月、靖国神社にて(撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 岩下邦雄(左)と日高盛康(右)。平成14年9月、靖国神社にて(撮影/神立尚紀)
■1度は却下された「生還不能の新兵器」■
南太平洋での日本軍の敗勢が明らかになった昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を搭載したまま敵艦に突入するという、捨て身の作戦が議論に上っている。
昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦攻、艦爆に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とするよう、当時、航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は、
「搭乗員が100パーセント死亡するような攻撃方法はいまだ採用すべき時期ではない」
としてこの意見を却下した。同年10月には、黒木博司大尉、仁科関夫中尉が共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を軍令部に提出したが、これも却下された。だが、
昭和19(1944)年2月17日、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けたことで潮目が変わった。
2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直されることになり、呉海軍工廠魚雷実験部で極秘裏に試作が始められる。これはのちに「回天」と名づけられる水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。
昭和19年4月4日、軍令部第二部長(軍備)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦)・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なうよう、海軍省に要望した。昭和19年5月には、一〇八一空の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」を着想、同隊司令・菅原英雄中佐を通じて空技廠長和田操中将に進言、航空本部と軍令部で研究を重ねることになった。
6月19日には第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申。岡村はさらに、軍需省航空兵器総務局長になっていた大西瀧治郎中将のもとへも赴き、体当り戦法に適した航空機の開発を要望している。昭和19年8月に入ると、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」案をもとに、空技廠に試作を命じた。のちの「桜花」である。特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬にかけ、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。ただし、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされていない。
■「ダバオ水鳥事件」■
昭和19年9月13日付で、海軍省に「海軍特攻部」が新設され、大森仙太郎中将が特攻部長に就任した。「特攻」は、すでに海軍の既定路線だった。
体当たり攻撃隊の編成開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆撃機隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。ただ、精鋭部隊といっても、南太平洋海戦の頃とは状況が違う。飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状から、まともに考えれば敵機が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。こちらの都合のみをよいように考えたこの作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。
案の定、というべきか、台湾沖に出現した敵機動部隊を攻撃に向かった日本の航空部隊は、昭和19年10月12日から16日にかけて戦われた「台湾沖航空戦」で、敵空母を一隻も沈めることができずに約400機を失い、惨敗した。
敵機動部隊は、ほぼ無傷のままフィリピンに向かい、
 10月17日には米上陸部隊が、レイテ湾沖に浮かぶスルアン島への上陸を開始している。ところが、フィリピンに展開する日本海軍の基地航空部隊(第一航空艦隊)の戦力は約40機しかない。
フィリピンにおける日本海軍の航空兵力がこれほど弱体だったのは、台湾沖航空戦での損失とともに、前月に起きた二度の不祥事が原因だった。
 9月9日から10日にかけ、第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置いていたダバオが、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。10日早朝、見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告が入り、浮き足立った根拠地隊司令部が、「ダバオに敵上陸」を報じ、玉砕戦に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却し、自ら司令部機能を失ってしまう。飛行機は空襲被害を避けるため、フィリピン各地に分散していて、ダバオには飛べる飛行機が1機もなく、報告の真偽を確かめられなかったのだ。
夕方になって、美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、暁闇の海面の白波を、敵の水陸両用戦車と見間違えたのだ。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集められたままになっていた第二〇一海軍航空隊(二〇一空)の零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。基地指揮官・中島正少佐の発進命令が遅れ、離陸直後の不利な態勢で敵戦闘機に襲われたのだ。フィリピンでの決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして失われた。「セブ事件」と呼ばれる。
この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。この司令長官交代劇は、周到に準備されていたものではなく、あくまで寺岡長官が責任をとらされた偶発的なものである。
大西中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(のち主計少佐/1917-2008。戦後、丸三証券社長)によると、米軍のスルアン島上陸を受け、大西は門司を伴って10月17日午後、第一航空艦隊司令部のあるマニラに到着する。その日のうちに、前任の寺岡中将と大西との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の長官就任は20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差し支えない。
 写真◆大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影/神立尚紀)c 現代ビジネス 大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影/神立尚紀)
■「惰性で人の命を奪ってはいけない」■
聯合艦隊司令部は、敵のスルアン島上陸を米軍による本格的なフィリピン侵攻の前ぶれととらえて、それを迎え撃つべく、10月18日夕刻、「捷一号作戦」を発動する。これは、栗田健男中将率いる戦艦「大和」以下の大口径砲による砲撃で敵上陸部隊を殲滅することを柱とし、それを成功させるため、敵機動部隊を引きつける陽動の空母部隊や、レイテ湾を南北から挟み撃ちにする別働隊などを配する、日本海軍の総力を注ぎ込んだ大作戦だった。
新たに着任した大西中将は、配下にあるたった40機の飛行機で、主力艦隊のレイテ湾突入を支援しなければならなかった。門司は、
「海軍では『特攻』は既定路線だったんでしょうが、大西中将がフィリピンで、ほんとうに特攻隊を出す決心をしたのは18日の夕刻、すなわち『捷一号作戦』発動のときだったと思います」と語っている。
大西は、翌
 10月19日朝、現地航空隊の司令、飛行長に、マニラの司令部への参集を命じた。ところが、戦闘機隊の二〇一空本部のあるマバラカット基地はこの日、間断のない空襲を受け、司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は午後になっても到着しなかった。業を煮やした大西は、門司副官を伴い、車でマバラカットへ向かった。
その道中、右前方にアラヤット山を望むあたりで、門司は、
「決死隊を作りに行くのだ」
という、大西のつぶやきを聞いている。
 写真◆門司親徳(左)と大西瀧治郎中将。昭和20年5月、台湾にてc 現代ビジネス 門司親徳(左)と大西瀧治郎中将。昭和20年5月、台湾にて
二〇一空に特攻隊の編成を指示したのは、その夜のことだった。少数の航空兵力で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるためにできることは、たとえ沈めないまでも、敵空母の飛行甲板を一時的に使えなくすることしかない。それとともに、大西が特攻隊編成を決意したのは、
「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」
という思いがあったからだった(このことは、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない)。
大西の要請を受けて、二〇一空副長・玉井浅一中佐が人選し、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名づけられた最初の特攻隊が編成されたのは10月20日、第1回の出撃は21日のことである。22日に若桜隊、23日に菊水隊が新たに編成される。
 昭和19年10月21日写真◆マバラカット西飛行場で出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿左端が関行男大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊c 現代ビジネス 昭和19年10月21日、マバラカット西飛行場で出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿左端が関行男大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊特攻隊は、味方索敵機が報告する敵情にしたがって出撃するが、予定海面に達したときにはすでに敵艦隊が移動していて見当たらず、帰投することを繰り返した。その間、突入が確認されないまま未帰還になった隊員もいる。10月25日、関大尉が突入したのは、4度めの出撃のときだった。
 昭和19年10月25日写真◆マバラカット東飛行場で、敷島隊最後の発進c 現代ビジネス 昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊最後の発進だが、特攻隊の、文字通り命を爆弾に代えた犠牲もむなしく、栗田中将はレイテ湾突入を断念、「決戦」はまたも日本側の大敗に終わる。それでも、米軍のさらなる侵攻を食い止めようと、特攻隊は次々と編成され、飛び立っていった。栗田艦隊の失敗で敵の勢いを止められなくなったいま、「敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする」という当初の限定的な目的が、変容せざるを得なくなったのだ。南太平洋海戦で兄を失った岩下邦雄大尉は、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊戦闘第四〇一飛行隊長として、フィリピンで、連日のように出撃を重ねていた。
「12月16日、ミンドロ島の米攻略部隊攻撃に、艦爆隊を護衛して出撃したときのことです。ぼつぼつ予定地点かな、と思ったとき、断雲の下に敵攻略部隊を発見しました。驚いたのは上陸用舟艇の数です。まるでバケツ一杯の羽根をまき散らしたように無数の船が航行していて、私は、これは味方が全弾命中させてもかすり傷にもなるまいと、力が抜けるような気がしました」岩下はその後、主戦場が沖縄に移ってからは横須賀海軍航空隊笠之原派遣隊指揮官として、九州から沖縄方面への出撃を繰り返すことになるが、その間、戦場で感じた「特攻」の意味の変化について、次のように語っている。
「フィリピンでの最初の特攻は、それまで通常攻撃でさえ、出撃した飛行機のほとんどが未帰還になり、しかも戦果を挙げられないような場面が多かったから、搭乗員の側にも仕方がない、という空気はありました。われわれみんな、遅かれ早かれこの戦争で死ぬものだと思ってましたからね。関君たちが、たった10機で栗田艦隊を上回る戦果を挙げたことも大きかった。
しかし、フィリピンを取られ、沖縄も占領され、もうどうにもならなくなっても続けたことについては、大いに疑問に感じています。死を覚悟した軍人であっても、惰性で人の命を奪ってはいけない。海軍の身内を悪く言いたくはありませんが、司令部の怠慢ととられても仕方がないように思います」
特攻隊については、これまでさまざまな論考がなされているが、まず否定ありきの偏った考察によるものが少なくない。それらに対する反証は、2018年4月15日に寄稿した拙稿「日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270で述べた。
なかでも、「海軍兵学校出身者が温存され、予備士官や下士官兵ばかりが特攻に出された」とか、結果論で「特攻は、1隻沈めるのに〇人の命が失われた非効率な作戦」といった、俗耳に入りやすい言説には、そうではない具体的な根拠を挙げたつもりである。敵艦1隻を沈めるのに失われた搭乗員の数は、「南太平洋海戦」も「特攻」も大差ない。
失われた人命に比しての戦果という見方をすれば、3948名の犠牲で8064名の敵の命を奪い、10000名以上に傷を負わせた「特攻」は、大戦中期、ガダルカナル戦以降のどの航空作戦よりも効果的に戦果を挙げた。――だから特攻は優れた戦法だった、と肯定する気はない。問題はそこではないのだ。
かつて、特攻戦没者を愚弄するようなオブジェが「芸術作品」と称して展示され、話題を呼んだ。特攻隊員をはじめ戦没者の死を「無駄死に」であったとする声も、一定の割合で必ず聞こえてくる。だが、歴史は大きな流れのなかで段階を踏んで進んでいる。好むと好まざるとにかかわらず、現在は、あの忌まわしい戦争をも含めた歴史の上に成り立っている。どんな時代であれ、自分の生きた世界を懸命に生き、そして死んだ人たちのことを、嘲る資格など誰にもないはずだ。とりわけ、戦没者を侮辱することは、世界のどこでも許されることではない。
いまの時代が、たとえば70数年後、どのように評価されることになるのかはわからないが、先のオブジェが優れた美術作品と評価されるとは考えにくい。現代を生きるわれわれは、過去を嘲るのではなく、そこから何ごとかを虚心に学ぶべきだろう。特攻についても、今後、さらに事実が解明され、幅広い考察がなされることを期待したい。ただ一点、危惧するとすれば、これからの世代は当事者の声を生で聞けなくなることだ。
本稿執筆中、特攻隊員として4度の出撃を重ねて生還し、戦後は神奈川県警刑事となった長田利平氏(「4度の特攻から生還した男が『刑事』として生きた激動の戦後」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56662参照)が、93歳で亡くなったとの知らせが届いた。砂時計の砂は、無情に落ち続けている。
 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%94%9F%E9%82%84%E4%B8%8D%E8%83%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%85%B5%E5%99%A8-%E3%81%A7%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E9%83%A8%E4%B8%8B%E3%82%92%E6%AD%BB%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E3%81%AE%E7%84%A1%E8%83%BD%E3%81%B6%E3%82%8A-%E4%B8%80%E5%BA%A6%E3%81%AF%E5%8D%B4%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C/ar-AAYIjRp

 ワクチンは人を殺す為の生物兵器だった!!
 2021(令和三)年06月21日(月) 17:20:00 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:健康・ヘルスケア12位
 以下、文字起こし ⇒  こんにちは、船瀬俊介です。今日は私の最新の本を紹介させていただきたいと思います。『ワクチンの罠』、イースト・プレスから発売になったばかりですが。この本はですね、ぜひまず、若いお母さんがたに、読んでいただきたい。そしてまた、可愛いお孫さんがいる方にも、ぜひ読んでいただきたい。なぜ私がこの本を書いたかと言いますと、私自身が、取材する過程で、体が何度も、恐怖で震えたからです。ワクチンというのは、私の想像をはるかに超えておそろしい存在なんだ。この本の中で私はワクチンは時限爆弾である、体の中に埋め込まれた時限爆弾。ですから予防接種は、打ってはいけないということを、なんども繰り返してます。あるお母さんから聞かれたんですね。なぜうちの0歳の子供に、ワクチン打つんでしょう。それも、10回、20回、生まれたばかりの赤ちゃんに。あんなちっちゃな、まだ、本当にいたいけな赤ちゃんに。なんで打つんでしょう。その答えはここに書かれてます。ワクチンを赤ちゃんに打つ理由はただ一つ。その子を将来殺すためなんです。だからワクチンの正体は、実は生物兵器だったんです。これを言ってもほとんどの人は首を振ると思います。私自身が、ワクチンが生物兵器だなんてことは信じられなかった。ところが1972(昭和47)年に、実は、WHO、世界保健機構の、極秘文書が一人のジャーナリストによって明らかにされたんですね。そのWHOの極秘文書には、驚愕する内容が書かれてました。すなわちWHOは、ワクチンの形態をした生物兵器を開発する、それが、WHOの、背筋の凍る、秘密プロジェクトだったんです。皆さんはWHOといえばですね世界保健機構という名前からもおわかりのように、世界の人々の健康を守る国際機関だと皆さん思ってると思いますが大間違いですね。WHOを作ったのは1921(大正十)年、ロックフェラー財閥が、まずですね、外交問題評議会という国際機関を作りました。その外交問題評議会というものは、実は、国連を作り、その国連の中に、WHOを作ったんです。もう言うまでもなく、ロックフェラー財閥、彼らは世界の医療を根底から支配している、まさにその、医療マフィアの、頂点に立ってる。これが闇の力です、闇の権力ですね。彼らがすなわち、国連を作り、そしてWHOを作った。ということは国際医療マフィアが、実はWHOを思いのままに、道具として今も使ってるということなんです。そのWHOが、世界の人々の命を救うどころじゃない。世界の人々の命を奪うための、ワクチンという生物兵器、バイオウェポンを、密かに開発して、そし全世界に普及させてる。1972(昭和47)年の話です。私は、非常に驚きました。その時に、0歳児に、なぜワクチンを、10種類、20種類、アメリカでは35種類、あんないたいけな赤ちゃんの腕に、打つのかはっきりわかりました。このWHOの、生物兵器、ワクチンという名前の生物兵器がどう作動するか、そのメカニズムは3ステップあるわけです。まず最初に、全く体の免疫機構がまだできていない赤ちゃんに、まずそのウイルスの種を仕込むんです。何十種類も。二番目は、思春期になった時に、この体の、ワクチンのバイオウェポン、生物兵器が作動するトリガーを仕込むんです。引き金を仕込むんです。そして3番目は、まさに殺す段階です。なにをやるかっていいますと、3番目には鳥インフルエンザとか、WHOに、嘘のパンデミック、大流行を宣伝させて、世界が大変な、要するに超インフルエンザが流行った、大変だっていうデマをばら撒いて、そして各国政府は、第3番目のワクチンの接種を国民に強制してくるわけです。すなわちトリガーの引き金を引くんです。その3番目のワクチンに何が入ってるかといいますとアジバンドという、これは免疫増強剤と言われてますけどその正体は、生物兵器の引き金です。それを打つことによって、体の中に仕組まれた時限爆弾のスイッチがオンになって、体には何が起こるんですか、免疫の暴走。免疫の爆発。免疫の嵐が起こって、ひとりでに、あっという間に亡くなっていくわけなんですね。これを、サイトカイン・ストームという。まさに、自らの中の免疫システムの暴走によって自らが死んでいくんです。だから原因が不明なんです。何で死んだかわからない。これはかつて1918年の1億人が死んだと言われてるスペイン風邪で彼らは学んだんですね。この免疫の大暴走、免疫のパニック。これで、わずか、症状が出て2日か3日で、あっという間に亡くなる。しかし何が原因かわからない。だからこのワン・ツー・スリーのステップ、生物兵器、この引き金を引くのが最終仕上げのワクチンですね。だからこの生物兵器を体の中に埋め込むという、だから、それで私は全ての謎が解けたんです。さらにもう一つ謎が解けたのは、1992(平成四)年、ブラジル環境サミットというのが行われました。これは、地球環境問題は人類にとっての大変な危機だから、世界各国の閣僚たちが、ブラジルのリオデジャネイロに、集まって、地球環境問題を解決するための、サミットを開いた。私は当時は非常に素晴らしい試みだと勘違いしてたんです。しかしその地球環境サミット、そこで、実は、21世紀に向けての行動計画というのが採択されたんだよ、それがAGENDA21です。このアジェンダ21、私は、この取材で調べて、はっきり言って腰を抜かしましたね。なんて書いてますか。要するに、人類にとっての最大の環境問題は、人口問題だった。はっきり言ってます。さらに、地球は人口が増えすぎた、適正人口は十億人であると。だから、85%の人口、すなわち60億の人口を抹殺、削減すると。はっきり明記してるんです。アジェンダ21。私はもう、背筋が震えましたね。これが出されたのは、WHOが、1972(昭和47)年に、これは内部告発ですっぱ抜かれた、そのスリーステップの、ワクチンの、生物兵器の製造するという極秘文書が暴かれて、その20年後に、なんと、世界の人口85% すなわち60億を抹殺する、処分する。そういう文書がスタートしたんです。そこで私は全ての謎が解けたんです。すなわちどういうことか。ワクチンの目的は人口削減である。それも、大量人口抹殺です。そのために彼らはワクチンを発明した。それだけじゃない。戦争も、それから環境ホルモンも、医療も、抗がん剤も、環境汚染も、農業も、さらにその、食品添加物。あるいは遺伝子組換え。みんな何のためにやるんですか。全ての目的はただ一つ、人口削減です。そして、最終的な仕上げは、おそらく戦争でしょう。そして彼らは莫大な軍事産業で富を得て、ワクチンでは莫大な製薬利権で富を得て。そして命を奪う。金を取る、命を取る。このダブルインカム。これがすなわち闇の勢力、この地球を支配している連中の、最終的な目的であることがはっきりわかりました。だからあなたの、若いお母さんがた。いいですか。だからワクチンは病気を防ぐなんて。ワクチンがですね、病気を予防したという科学的・医学的証拠はこの地球上に存在しないんです。一つの論文すら存在しない。なぜならばワクチンは病気を防ぐためではない、病気を作るためである。その人の命を奪うためにワクチンがあるんだ。そのことを私はね、殺されたって何があったって私は訴えたい。そこでですね、ぜひこの本を読んでいただきたいんです。それはあなたのかわいいお子さん、あるいはかわいいお孫さん。愛らしいお嬢さん。その子たちの命を守るためにも、ぜひ読んでもらいたい。ワクチンがいかにバカバカしい存在かということを、一つ例挙げますと、例えば日本脳炎のワクチンというのがあります。あるお母さんは、嫌がる10歳の男の子の手を引きずっていって、押さえつけて、打った。5分で意識不明、あっという間に亡くなりました。なぜか。皆さんワクチンを打つんだったら少しは勉強しなさい。医薬品添付文書っていうのを読んでください。医薬品添付文書になんて書いてありますか。あらゆるワクチンは劇薬って書いてありますよ。劇薬ってのは、辞書を引いてごらんなさいよ。死ぬこともある毒薬。それを子供に打ったら死ぬに決まってるじゃないですか。さあ、それを押さえつけて、我が子に打ったお母さんは、嘆きはもう、死ぬまでそのお母さんは、おそらく死ぬまで自分のやったことを苛むでしょう。苦しむでしょう。だから私は冒頭に書いたんですね。要するに無知は罪である。そして知ろうとしないことはさらに深い罪なんです。お子さんの命をね、守ってあげてほしい。子供を、命を奪う場に引きずっていく、こんな悲しい間違いがありますか。ですから私は、本当に、無知ほど悲しい罪はない、それを何度も繰り返してきました。そこでその日本脳炎、そのお母さんがなぜ10歳の子の手を引きずって行って、嫌がるの、バタくるって嫌がるのを引きずって行ったかって、日本脳炎にかかって欲しくないからです。日本脳炎にかかって欲しくないから、小さな坊や引きずって行ったんです。ところが、皆さん、年間にですね、この日本で日本脳炎の患者が何人いると思います。私も調べてね、あきれ返りました。わずか3人ですよ。1億3000万の日本で日本脳炎の患者が年に3人。それも亡くなったわけじゃない。それを知ったらね、誰が我が子の手、引きずってってね、ワクチンを打たせますか。ジフテリア、未だに予防接種やられてる。1000億、2000億単位の予算で。ところがジフテリアの患者も私、調べてあきれ返りました。わずか2人です、年に。1億3000万人の中で患者が2人。なんでこんなに大量の、何千億単位の金で。まさにワクチン利権だよ。彼らはもう病気を防ぐなんてこと、単なる言い逃れなんです。単なるでっち上げなんです防がなくたって構わない、単なる殺人兵器を子供に打つための方便ですよ。もっとひどいのはポリオです、小児まひですね。ポリオの患者、とにかく私調べて、未だにポリオの予防接種を、政府は1000億単位だなんだでさ、毎年ポリオの予防注射、ポリオの予防注射。私もポリオがまだ流行ってんのかと思いましたよ。ところが調べて私、唖然としましたね。日本で最後のポリオの患者が出たのは、1981(昭和56)年ですよ。それ以降32年間、一人の患者も出てない。患者が32年間存在しないのに毎年毎年何百億だなんだって、税金を投与して薬、病気が存在しないのに薬を強制するってもう完全に狂ってますよ。脳が狂ってます。脳が腐ってんだよ。それに唯々諾々と手を差し出す親ももうはっきり言って脳が狂ってる。無知を通り越してる。そして悲劇は続発してます。バタバタ死んでます。インフルエンザのワクチン、悲劇書いてます。バタバタ亡くなってる。当然のことです。劇薬。おまけに、中に、我々が知らない、わからない、いろんな毒物が、いろんな有害物が、そんなものが80種類から100種類、その、いろんな有害な毒薬からなにから、得体のしれない毒物が配合されてるんだよ。有害物配合されてる。それがワクチンの正体。一切明らかにされてません。一部、サロメチール、水銀、これもう完全に神経毒物じゃないですか。ホルマリン、これ発がん物質じゃないですか。そういうものが、わかってるだけでも、さらに、アジバンドって言われる、これ、免疫増強剤、冗談ではない、これ、動物の不妊薬でしょ。子宮頸がんワクチン、少女たちに、打ちまくってる。なぜですか。人口削減、人口抑制。癌腫政策。こういうことが、平然と行われてる。それをマスメディアは一言も言えないし、行政も言わない。政府は言わない。だから今の安倍内閣も、全部、アメリカの属国ですよ。アメリカを支配してるのはロックフェラーです。フリーメーソンです、イルミナティです。そいつらに支配されてるのが安倍内閣じゃない。その安倍内閣に動かされてるのが厚生労働省、全部、医師会、マスメディア。全部殺人システムの中に組み込まれてるよ。その殺人システムの中で、かわいいお子さんの腕を差し出す。それは無知の罪ですよ。自分の子供が生贄に、羊を生贄の祭壇に差し出すようなことを、みんな知らないでやってるわけです。それがまさにワクチンの罠なんですよ。私は、この悲劇はワクチンだけには留まらない。『抗ガン剤で殺される』という本も書きました。抗がん剤も猛毒。打ってますよ、毒ガス兵器。第一次第二次大戦の毒ガス兵器が、そのまま、がん患者に打つ。そしたら50倍。40倍、50倍、がんで死ぬ、猛毒を打つ。白血病の治療、すさまじい。打ったら10人のうち9人死ぬ、毒薬です。そんなのを平然と打たれてる。それをおかしいと思わない。だから私は最後に申し上げたいけど、アジェンダ21の、人類奴隷化、家畜化計画は、ほぼ完了しているんです。この地球、我々人類はもう、彼らにとっては人間ではないです。明らかに家畜ですよ。だから地球は人間牧場と化してしまった。彼らは、家畜には真実を教えない。なぜ家畜を飼うんですか。いざという時殺して、いざという時命を奪って、利益を上げる。それが家畜の運命です。我々は牛や馬のような家畜の存在になってはいけない。私はその怒り、それから祈りを込めて、この『ワクチンの罠』を書いたんです。これを読んでいただきたい。繰り返しますけど、あなたのかわいいお子さんと、かわいいお孫さんを救うために、テレビを信じるな、新聞を信じるな。これらはあんたがたを洗脳する道具だ。悪魔のメッセージ。あとは、目覚めるか目覚めないかで決まるんです。目覚めてほしい。目覚めない人は我が子を殺し、家族を殺し、自らを殺すことになります。そういう悲しい悲劇を繰り返さないでほしい。その祈りを込めて、まとめた一冊。これが、あなたの愛する人の命と健康と未来を、そしてあなた自身の未来も救うことになります。ですからぜひ、お手にとってもらいたいし、お知り合いに、勧めていただきたい。これはもう命を守る戦いです。戦わない人は殺されますよ。それを最後に、強く訴えたいと思います。ありがとうございました。
 https://ameblo.jp/64152966/entry-12681934755.html
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 動画◆【船瀬俊介】罠https://youtu.be/eLk7HzZSs3Y
 2017(平成29)年01月20日(金) YouTube公開
‡2021(令和三)年06月22日(火) 15,585回視聴 408 17
 
 映像◆【衝撃作】『ワクチンの罠』を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】https://youtu.be/lhlZ6OLwfUo
 2021(令和三)年03月09日(火) YouTube公開
‡2021(令和三)年06月22日(火) 613,448 回視聴 1.7万 756
 


     LED ZEPPELIN
 TIME TRAVELLER 1977.6.22 [Disc 1]
 TIME TRAVELLER 1977.6.22 [Disc 2]
 TIME TRAVELLER 1977.6.22 [Disc 3]
 TIME TRAVELLER 1977.6.22 [Disc 4]
‡1977.6.22 LED ZEPPELIN
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 ┃ 『BBC SESSIONS』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━┛
    LED ZEPPELIN
 1997(平成九)年11月11日(tue) released
 2016(平成28)年09月16日(fri)『The Complete BBC SESSIONS』
 1969(昭和44)年03月03日(mon) Session1, Recording date
 1969(昭和44)年03月23日(sun) Session1, Original broadcast
 1969(昭和44)年03月19日(wed) Session2, Recording date
 1969(昭和44)年04月14日(mon) Session2, Original broadcast
 1969(昭和44)年06月16日(mon) Session3, Recording date
‡1969(昭和44)年06月22日(sun) Session3, Original broadcast
 1969(昭和44)年06月24日(tue) Session4, Recording date
 1969(昭和44)年06月29日(sun) Session4, Original broadcast
 1969(昭和44)年06月27日(fri) Session5, Recording date
 1969(昭和44)年08月10日(sun) Session5, Original broadcast
 1971(昭和46)年04月01日(thu) Session6, Recording date
 1971(昭和46)年04月04日(sun) Session6, Original broadcast
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B01ICXF2MC
 https://en.wikipedia.org/wiki/BBC_Sessions_(Led_Zeppelin_album)
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07VYMQY6B
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃フィンセント・ファン・ゴッホよりテオ宛書簡 No.?┃
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‡1880(明治13)年06月22日(火)頃 クウェム『1958年版書簡集133』
 1880(明治13)年06月24日(木)頃 クウェム『1958年版書簡集133』
 クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからフィンセントへの生活費の援助が始まった
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B#.E6.89.8B.E7.B4.99.E3.81.AE.E5.87.BA.E5.85.B8
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 1962年6月のアルカトラズ脱獄事件 ┃
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 1962(昭和37)年06月11日(月) 22:30 脱獄開始
 1962(昭和37)年06月12日(火) 07:00 脱出発覚
 1962(昭和37)年06月21日(木)、いかだの残骸であると考えられるレインコート素材の断片複数が、ゴールデン・ゲート・ブリッジからそれほど遠くない浜で発見
‡1962(昭和37)年06月22日(金)、アルカトラズ島の50ヤード (46 m)沖合で、刑務所のボート1そうが、同じ素材で作られた、空気の抜けた救命胴衣1つを拾い上げた
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②┃ 潜入調査! 監獄島「アルカトラズ」┃
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 amazon・・・最上級の警備で脱獄不可能と呼ばれたアルカトラズ刑務所。刑務所の実態を熟知する人物たちのインタビューを交え、別名「ロック」の監獄島の真実を紐解く
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 https://www.amazon.co.jp/dp/B086QNMLJX
 https://en.wikipedia.org/wiki/June_1962_Alcatraz_escape_attempt
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 映像◆【脱獄】世界最高セキュリティ「アルカトラズ刑務所」から脱獄した男たちhttps://youtu.be/pjl78kM4Gdc
 
 映像◆【脱獄不可能】アルカトラズ刑務所からの脱走 | ミッシング~迷宮事件の謎~【ゾッとする】https://youtu.be/8mJPebbsILc
 1962年、3人の受刑者が世界最高峰のセキュリティゆえに脱獄不可能と言われた、アルカトラズ島の刑務所から忽然と姿を消した。建物は抜け出せても、2km以上ある冷たい海が最大の難関。しかし、IQが160以上あると言われた3人は、何ヶ月も考えた方法で岸へ渡ろうとする途中、溺れて死亡したと推測されていたが、新たな実験の結果、岸にたどり着いた可能性が浮上し…。■ミッシング~迷宮事件の謎~とは?■科学が進歩し、あらゆるものの動向が監視されている現在、飛行機や船が地球上から忽然と姿を消すことなどあり得ないように思える。しかし、いまだに行方不明事件は起きており、最新の技術をもってしても、行方を突き止められないケースも多い。番組では事実に基づき、有力な仮説を検証。謎の多い事件に新たな光を当てる。果たして、科学の力で大きな謎を解くことはできるのか?
 
 映像◆【脱獄不可能】アルカトラズの謎 [吹替フル]|| 深層解明Xファイル シーズン1 (ID Investigation Discovery) https://youtu.be/5FQlUDsxH6o
 世界で最も有名な刑務所といえばアルカトラズ。この刑務所には謎や秘密が数多く存在する。1962年、3人の囚人が脱走した。脱獄不可能とされたアルカトラズからどのようにして抜け出したのだろう?そこには知られざる秘密が。さらにアルカトラズには謎の施設の跡がある。そしてリンカーン大統領とのつながりとは?#アルカトラズ #3人の脱獄者 #脱獄不可能 ー深層解明Xファイル シーズン1 とはーアメリカの有名な場所や秘密組織などにまつわる知られざる歴史や隠された真実を解き明かす。フリーメイソン、売春宿、刑務所、UFO…。耳にしたことはあるが、これらの実態を知っている人は少ない。よく聞く噂は本当なのか?アメリカに潜む謎の驚くべき真相に迫る。
 

 ┏━━━━━━━━━┓
①┃Morris‘Moe’Berg┃
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 1902(明治35)年03月02日(日) 生誕
 1972(昭和47)年05月29日(月) 逝去
 1934(昭和11)年11月29日(木) 大宮球場試合欠場、ジョセフ・グルー駐日アメリカ合衆国大使の娘を見舞うと偽って東京・明石町の聖路加国際病院へ向かい、その屋上から、東京湾内の軍艦、兵器工場、製油所、皇居、工場群、鉄道線路など、東京市街一円を16ミリカメラで撮影した[1][2]。このほか、武蔵野、三鷹、田無、保谷、船橋、習志野、川口、松戸も撮影し、これらモーが撮影した映像は第二次世界大戦中の1942年に行なわれたドーリットル空襲の航空母艦からの日本本土爆撃の第一資料として利用
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃『THE CATCHER WAS A SPY』 ┃
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 2018(平成30)年01月19日(金) 2018 Sundance Film Festival
‡2018(平成30)年06月22日(金) US released
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Moe_Berg
②https://en.wikipedia.org/wiki/The_Catcher_Was_a_Spy_(film)
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 映像◆異色な大リーガーにスパイ選手 モー・バーグhttps://youtu.be/qN2VrL2XppM
 ▼他のウェブサイトでの再生は、動画の所有者によって無効にされていますヨ(=^◇^=)
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 ベーブ・ルースの直筆サイン
 2021(令和三)年01月12日(木)放送
 鑑定依頼人 米谷温子さん
 鑑定士 山本清司
 ジャンル 野球
 本人評価額 ¥ 100,000
 鑑定士総評・・・直筆に間違いない。サインを書いているのはルースの他にラビット・ウォストラーとトラベリングマネージャーのロバート・シュレーダー。絵の右下部分に鈴木惣太郎のサインがある。鈴木は1934年日米野球を開催するにあたって、来日を渋っていたベーブ・ルースを説得して実現にこぎつけた人物。左下の部分は当日の出場選手、両チームの打撃成績と守備成績。これもおそらく鈴木惣太郎が書いたものだろう。
 https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20210112/06.html

 ┏━━━━━━━━━┓
 ┃『A SONG FOR YOU』┃
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 1972(昭和47)年06月13日(tue) released ※wiki Japanese
‡1972(昭和47)年06月22日(thu) released ※wiki English
 https://en.wikipedia.org/wiki/A_Song_for_You_(The_Carpenters_album)
 1991(平成三)年06月22日 "Intermission" 広島サンプラザ初日

◆映像◆https://youtu.be/PjIPDHVk7tY
【参政党】松田学が大暴走!
 神谷さんや赤尾さんも大爆笑!
 この男、政策以外もデキる!
‡2022(令和四)年06月22日(水) 新宿駅西口 神谷宗幣 松田学 赤尾由美 武田邦彦 吉野敏明 河西 美緒
 参院選公示日初日の街頭演説。比例代表5レンジャー全員と東京地区候補の河西さん、超豪華メンバーでの演説です!公職選挙法の都合でで公示日前の街頭演説では言えなかった事も解禁します!公示日まで取っておいたのでしょう。今回の松田さんは暴走列車になり5レンジャーと観衆は大爆笑です。こんなに笑が聞こえる街頭演説って他にあるのでしょうか?他のメンバーのお話も得票目的とはとても言えない、深い話ばかりです!参政党に投票しなくても、この演説を聞いて日本の問題を考えるという形で「政治に参加」しましょう!
 ///////参政党の街頭演説から学びを広める活動をしている一般党員です。参政党の演説動画は長いので「あの話をもう一度見たいのにどれだっけ?」といった経験はないでしょうか?なるべく、テーマごとに、わかりやすいタイトルや画像を使い、友人や家族、周りの方にシェアしやすいように工夫して参ります。歴史を知り、正しい情報を得、争うのではなく調和を目指して一緒に日本に橙色旋風を巻き起こしましょう!
 

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