過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

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【ススキノ哀歌】午前10時開店の昼バニーガール…コロナ禍で行政が“線引き“ 飲食店は混乱
 2020(令和二)年12月30日(水) 19:04配信 北海道ニュースUHB
 新型コロナウイルスの猛烈な感染第3波に見舞われている北海道。中でも日本3大歓楽街の一つと言われる、札幌のススキノが苦境に立たされている。「感染拡大の大きな増加要因」と行政に名指しされ、休業や時短営業を要請。客足が遠のき、街のネオンが消えた。
 要請に応じず通常営業を続けることへの批判、「なぜうちの店がススキノなのか」と店主が首をかしげる対象地区の選定、そして複雑でわかりにくい支援金のルール…。行政が引いたさまざまな“線引き“で混乱が続いていた。
 写真◆午前10時から営業している「バニーズバー・ミリオン」
■午前10時開店 “昼バニーガール“始めました■ススキノの一角にあるガールズバー「バニーズバー・ミリオン」。店内はカジノを思わせるようなテーブルが置かれ、調度品を間接照明が照らす。客が入店すると3人のバニーガールが陽気な声で出迎えた。「いらっしゃいバニー!」来店したのは土木作業員の常連客で、担当したのは、ソロモンさん(仮名)。来店早々、髪型を変えたことを指摘された。「イメチェンしたかったの」とおどけて見せる。カウンター越しに距離を保ちながらも手をそっと伸ばし、笑顔で乾杯。客は「きょうは癒されにきた」と甘えて見せた。ムードたっぷりの会話だが、時刻は正午すぎ。「オレは昼しか来ないから」と客は笑う。ミリオンの営業時間は午前10時から。料金は1時間のフリードリンクで2500円。4店のうち、3店で昼間営業を本格化させた。コロナの影響で夜の客足が遠のいているための対策だ。
■時短・休業応じず「支援金 家賃すら払えない」■「今年4月からコロナの影響で夜の客が入ってこない。そこで昼間の収益を狙った」。経営者の山田雅人さん(41)は昼強化の理由を明かした。ススキノでは10月、新型コロナウイルスの感染者が確認された59店舗のうち、14店舗の「接待を伴う飲食店」でクラスター(集団感染)が発生。北海道と札幌市は
 2020(令和二)年11月07日(土)から、ススキノの飲食店に休業や営業時間の短縮、酒類の提供時間の短縮を求めた。支援金はミリオンの場合、合計80万円になるが、要請に応えなかった。系列店を含めるとバニーガールだけでも130人。人件費や店の賃料約100万円に光熱費を合わせると、1か月の支出は1000万円にも上る。バニーガールの経歴はさまざまで、中には1人で子育てしながら働く人もいる。「支援金では店の家賃も払えない。雇用を守るためには休業や時短には応じられない」と山田さんは語気を強める。
 写真◆こまめな検温など感染対策を徹底し通常営業を続ける
  次ページは:通常営業への批判「雇用守るために続ける」
■通常営業への批判「雇用守るために続ける」■
「バニーズバー・ミリオン」で働く女性の経歴はさまざまだ
 営業は従来通り。平日が翌日の午前3時までで、金曜日と土曜日は午前4時まで。昼の営業を強化したとはいえ、客は減る一方だ。要請に応じないことへの批判の声も寄せられた。
 「今では落ち着いたが、店のSNSには『なぜこの時期に営業しているんだ』や『感染を広げるな』などと、匿名の書き込みが相次いだ。でも営業しないわけにはいかない」。山田さんは淡々と語った。
■「狸小路商店街はススキノ?」線引きに驚く店主■
狸小路商店街も時短要請対象地域となった
 さらに行政の線引きは営業時間だけでなく、ススキノの区域をめぐり不満が噴出した。
 地下鉄すすきの駅から北に300メートル離れたところにある「狸小路商店街」。東西700メートルのアーケード街に、飲食店や土産物店が約200店、軒を連ねる。北海道と札幌市は要請にあたり、ススキノ地区の北の境をこの商店街の目抜き通りとした。
 「ススキノで店をやっている意識がまったくなかったので正直びっくりした」。狸小路の南側で27年間鍋専門店「ぽんぽこ亭」を営んできた吉川精一さん(45)は驚きを隠せない。
 店はちゃんこ鍋やキムチチーズ鍋など専門店ならではのメニューをそろえ盛況だったが、コロナ禍で鍋が嫌厭(けんえん)され、春から夏にかけ客は前年より7割以上減った。
人通りがまばらになった狸小路商店街(北海道札幌市中央区、12月)
 意を決し10月には店をリニューアル。密を避けるため通路を広くし、感染防止対策を徹底した。メニューも一新。1人用のスープをメインにすえ、女性好みの豆乳やヨーグルトなどの発酵食品を使ったものにあらためた。
 客足がにわかに戻り始めた矢先の11月、ススキノの感染者が急増し、時短要請が出た。「なぜうちの店が入るのかと疑問。しかも商店街を南北に分ける理由が知りたかった」。吉川さんはいぶかしがる。
 根拠を札幌市に問うた。それは機械的な判断だった。
■“機械的判断“の理由「どこで区切っても不満」■
 写真◆狸小路商店街は目抜き通りの”見えない境界線”で分断された
 ススキノは地図上には、地名として存在していない。どこからどこまでススキノと呼ぶのか、あやふやなまま街が発展してきた。
 範囲の定義が明確にない中、札幌市はすすきの観光協会と協議したが、結局、住所で機械的に分けざるを得なかった。札幌市の担当者は「どこで区切っても不満は避けられなかったので、住所で線引きした」と説明した。
 対象から外れた北側は、南側から客が流れてくることも一時期待したが、当てが外れた。商店街から人通りが消えてしまったのだ。
  次ページは:北も南も同じ商店街「ともに人が来なくなった」
■北も南も同じ商店街「ともに人が来なくなった」
 写真◆人通りのない狸小路商店街を眺める「瑠玖」の山口哲生さん(北海道札幌市中央区、12月)
 北側に店舗を構えて35年の刺身居酒屋「瑠玖(るっく)」。新鮮な刺身が手ごろな価格で食べられるとあって、サラリーマンなどに人気が高い。
 「4月、5月より12月が一番ひどい。宴会は3月と4月と9月に1件ずつだった。今年は宴会が3件で終わりそうだ」。山口哲生・事業部長は人通りのない外を眺め、ため息をつく。
客が激減した居酒屋「瑠玖」の店内(北海道札幌市中央区、12月)
 席は1階から4階までを合わせると210席。60人が入る大宴会場も備えているが、今は1階のカウンター席20席とテーブル7卓だけで営業している。売り上げは前年の9割も減った。
 「客にとって北も南も同じ狸小路。これなら初めから区域に指定されて支援金をもらった方がよかったかもしれない。焼け石に水だが、ないよりはましだ」
 11月28日、対策期間延長に合わせ北側も要請の対象となり、“見えない境界線“は消滅した。しかし、客足は戻っていない。
■「私が60万円で友人は30万円」“支援金“の差■
 写真◆スナック「結維。」の木村ゆかりさん(北海道札幌市中央区、12月)
 支援金をめぐっても混乱が生じた。受け取れるのは60万円なのか、30万円なのか。そもそも「接待を伴う飲食店」とは何か――。支給条件の線引きがわかりにくく、札幌市には問い合わせが殺到した。
 「持ち出しだけでも月60万円。それを考えたら店を休んで支援金の60万をいただいた方が楽」
 ススキノのスナック「結維(ゆい)。」のオーナー、木村ゆかりさんはすぐに休業要請に応じた。店は開けるたびに赤字。11月の売り上げは前月の4分の1。渡りに船だった。
 ところが、同じ時期休業した友人のスナックが得た支援金は30万円。「友人はなぜって何度も繰り返し、悔しそうだった」という。
■定義がわかりにくい…「接待を伴う飲食店」■
 写真◆60万円が支給される「接待を伴う飲食店」の条件は風営法の「1号営業」の許可を得た店
 札幌市はススキノの「接待を伴う飲食店」に休業要請を出し、その後市内全域に拡大した。協力すると、60万円が支給されるが、同じような業態でも対象にならないケースがある。
 道や市が指す「接待を伴う飲食店」の条件は、風俗営業法(風営法)の「1号営業」と言われる店。客の隣に座り日常的に接客する店は、公安委員会から許可を得ている。ススキノで約850店、それ以外で約50店だ。
 一方、30万円が支給されるのは▽市が定めたススキノ地区に店舗を構える▽午後10時以降の営業と酒類提供の自粛―が条件。1号営業の許可は必要ない。ただ、スナックやパブでも、カウンター越しにお酒を出すだけの店では、許可がなくても問題がないケースもある。
 市への問い合わせは約900件に上った。支給条件が浸透していないため、許可がないのにもかかわらず60万円の支援金を当てにし、休業してしまう店も出るなど混乱を招いた。
  次ページは:「スナックはすべて休業」オーナーも誤解
■「スナックはすべて休業」オーナーも誤解■
 写真◆ススキノのスナック「グレイシィN12」。1号営業の店ではないため支援金は30万円(北海道札幌市中央区、12月)
 「初めてテレビのニュースで休業要請を知った時には、すべてのスナックが休業だと思っていた」。ススキノのスナック「グレイシィN12」のオーナー、平出麻美子さんはため息を漏らす。
 店は20年目を迎えた。本来の営業時間は午後7時から午前1時まで。独りでカウンターに立ち、切り盛りしてきた。売り上げは前年の8分の1。1号営業の店ではないため、時短営業で30万円の支援金を得たが、苦しい経営は変えられない。
 「午後10時まで営業できるが、この状況では開店休業状態。12月に入ってからはお客とはお会いしていない。(客は)高齢の方が多いので仕方ない。つらい年末になった。支援金もありがたいが、お客に会ってちゃんと話したい」。平出さんは新年に思いをはせる。
■休業→時短へ… “新たな線引き”で年越し■
 写真◆年の瀬を迎えたススキノ(北海道札幌市中央区、12月)
 11月20日、304人と過去最多を記録した北海道の新規感染者数は、二けたに落ち着き始めたが、NTTドコモによると、ススキノの人出は感染拡大前に比べ41%減と低調なままだ。
道と札幌市は12月26日、接待を伴う飲食店への休業要請を、午後10時までの時間短縮に切り替えた。応じた店には1店あたり50万円を支給する。期間は年明けの1月15日まで。見えない境界線に振り回されたススキノで生きる人たちは、新たな線引きで年を越す。
 この記事は北海道ニュースUHBとYahoo!ニュースの連携企画です。新型コロナウイルスで苦境に立たされた歓楽街「ススキノ」の今を伝えます。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/4b696dc6c25aa98c111ec5e6063ea25117e51518

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 ┃ 『原爆市長』 ┃
 ┗━━━━━━━━┛
‡2011(平成23)年01月01日(土) シフトプロジェクト 著+イラスト:浜井信三
 https://www.amazon.co.jp/dp/4990245121


 メロンパン ホームページ開設のおしらせ
‡2016(平成28)年01月01日(金) この度2016年1月1日より、有限会社メロンパンのホームページを開設いたしました。メロンパン取り扱い店舗やお知らせなど、こちらに掲載いたしますので、よろしくお願いします
 https://kuremelon.com/hello-world/


「新型コロナウィルスの真実」
 映像◆マスコミでは絶対、言えない「新型コロナウィルスの真実」に迫る!タブーの日赤の売血ビジネスも!徳島大学名誉教授で免疫生物学専門の大橋眞(まこと)医学博士へのインタビュー!https://youtu.be/CnoEtC6_ZeA
 2020(令和二)年06月01日(月) ライブ配信 39,825回視聴
 
 https://nihon-omokage.com/?p=12807
「新型コロナウィルスの真実」

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①┃ 東京ヒルトンホテル ┃
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 1958(昭和33)年07月21日(月) 東京ヒルトンホテル株式会社:設立
 1963(昭和38)年06月20日(木) 日本初の外資系ホテル開業
 1966(昭和41)年06月29日(水) ビートルズ宿泊一日目checkin
 1966(昭和41)年06月30日(木) ビートルズ宿泊二日目
 1966(昭和41)年07月01日(金) ビートルズ宿泊三日目
 1966(昭和41)年07月02日(土) ビートルズ宿泊四日目
 1966(昭和41)年07月03日(日) ビートルズ滞在五日目check out
 1967(昭和42)年04月22日(土) ホテルジャパン東急:改称
 1967(昭和42)年05月12日(金) 改称差し止め
 1983(昭和58)年12月31日(土) 契約期間満了により閉館
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②┃ キャピトル東急ホテル ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━┛
‡1984(昭和59)年01月01日(日) キャピトル東急ホテル:改称
 2006(平成18)年11月30日(木) 建替えのため営業休止
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③┃ ザ・キャピトルホテル 東急 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛
 2008(平成20)年03月11日(火) 東急キャピトルタワー 着工
 2010(平成22)年07月31日(土) 東急キャピトルタワー 竣工
 2010(平成22)年10月22日(金) 東急キャピトルタワー内で開業
  東京都千代田区永田町二丁目10番3号
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④┃ 東京ヒルトンインターナショナル ┃
 ┃ ヒルトン東京 HILTON Tokyo   ┃
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 1984(昭和59)年09月01日(土) 日本初の完全外資によるシティホテル開業
  東京都新宿区西新宿6丁目6番2号
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/キャピトル東急ホテル
②https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
③https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・キャピトルホテル_東急
④https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
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 ┃ 杉良太郎 ┃1944(昭和19)年08月14日(月) 生誕
 ┗━━━━━━┛https://ja.wikipedia.org/wiki/杉良太郎
 「もちろん売名だよ」超大物俳優の痛快すぎる福祉論
 被災地支援や福祉活動に精力を傾けてきた、歌手・俳優の杉良太郎。「売名」「偽善」といった批判をものともしない、杉流の痛快ボランティア論。 
 2020(令和二)年01月01日(水) 10:00 Ryosuke Kamba神庭 亮介 BuzzFeed News Reporter, Japan
 歌手・俳優の杉良太郎は、長年にわたって被災地支援や福祉活動に精力的に取り組んできた。
 「売名」「偽善」批判への思い。被爆者との交流で抱いた「罪悪感」。原点となった養老院の思い出――。
 「福祉は一方通行」を持論とする杉に、ボランティア哲学を聞いた。
■「売名ですか?」
 2011(平成23)年04月02日(土)写真◆宮城・石巻の避難所でカレーをつくり被災者に配る杉良太郎=
――東日本大震災の後、トラック20台分の支援物資を集め、被災地で炊き出しをされました。メディアから「売名ですか?」と聞かれた時のエピソードは、いまだに語り草になっています。
 カレーを温めてる時に、「杉さん、杉さん」と聞こえて。ふっと顔を上げたら、テレビカメラがあって、リポーターに言われた。「それってやっぱり売名ですか?」って。「もちろん売名だよ。売名に決まってるじゃないか」ってすぐに返した。これまでずっとついて回った言葉だし、私自身もう慣れっ子になっていたので。本当は相手にしない方がいいんだけど、売り言葉に買い言葉で。まあ、修行が足りないね。
――最高の啖呵ですね。
 いや、私にとっては普通なんです。外務省の高官にも言われたことあるし。「売名ですか」って。その時も同じことを言った。「もちろん売名です。でも、ひとつ付け加えていいですか」と。「私はいままで、これだけのことをやってきました。あなた、私がやってきたこと全部やってから、もういっぺん同じ質問をしてくれますか」。そう言ったら黙っちゃった。
■福島第一原発で職員を激励
 2011(平成23)年04月02日(土)写真◆宮城・石巻の避難所で炊き出しを行った後、記者団の質問に答える杉良太郎と妻の伍代夏子
――原発事故の直後には、南相馬市や飯館村などにラーメン5千食を届けました。うちの伍代(夏子)と、立ち入り禁止ギリギリのところまで行きました。警察官に「何をしてるんですか」と声をかけられて、「深呼吸してる」と言ったら「そんなことしちゃダメですよ」と言われた。2015年には、芸能人で初めて福島第一原発に入った。ずっと行きたかったんだけど「絶対無理です」と断られて、我慢して何年も待ちました。職員のみなさんが出迎えてくれたので、「日本の運命、ひいては世界の運命があなたたちの肩にかかっている。死に物狂いで頑張ってください」と挨拶させてもらいました。
■「ありがとう」すら面倒
――「福祉は一方通行」が持論です。
 難しい。福祉は難しいよ。やっぱり相手がどう思うかだから。災害でも何でも、苦しいのは当事者。経験していない人間が理解したつもりになっても、実際のところはわからないですから。被災者の人たちと一緒に過ごす。ハンセン病の人たちと直接触れ合い、抱き合う。そういうことを何日も重ねていくうちに、段々と理解が深まっていった気がしますね。この人、この地域のために貢献できたらいいな、少しでも役に立てばいいなと一方的に思うだけ。そこから何かをもらうとかじゃない。「ちょっともうけさせてくださいよ」「何かおみやげないですか」なんていうのは論外だけど、私はもう「ありがとうございました」すら面倒くさいと思うね。この人「ありがとうございました」って言うかな、とか面倒くさい。そんなこと考えてられないよ。
■忘れられないスーツのシミ
 写真◆慰問先の写真を見ながら思い出を語る
――様々な施設を慰問されてきたなかで、特に印象に残っているのは。最近になって思い出すのは、50年前に広島・長崎の病院を慰問した時のこと。戦争や原爆に対しては思いがあったから、被爆者の人たちに会った時は声も出なかった。歌い終わった後に握手してほしいと手を差し出されて、その手が水ぶくれだった。握手したら、プチッと音がして中から汁が吹き出ました。真っ白なスーツを着ていたんだけど、握手して抱き合っているうちに、うっすら黄色いシミがついた。まるで地図みたいにね。それを覚えてる。
■背負った罪悪感
――忘れがたいですね。
 問題はその後。私はトイレに行って手を洗って、服についたシミをハンカチで落としたんです。誰かに見られたら何て言い訳をしよう。表面では善人ぶった顔で握手して抱き合って、陰では一生懸命、手も服も洗ってるじゃないか。これは人には言えないなと思った。墓場まで持って行かないといけない。ものすごい罪悪感を背負っちゃったわけですね。最初にこのことを打ち明けたのは、一緒に慰問に行った作家の川内康範先生。慰問から15年くらい経って、ふいに当時の話になりました。川内先生から「良(りょう)には真実を話すけど、実はトイレで手を洗った。いまでも、ものすごく後悔してる」と言われた。「初めて言うけど、自分もあの時手を洗ったんだ」と答えました。いまなら一生の宝としてこのスーツをとっておこうと思うけど、25歳の若造にはそこまで知恵が回らなかったね。でも、50年前に行っておいてよかったな。行っているから、この話ができるんで。
■手を合わせるお年寄り
――福祉活動の原点は15歳の時、養老院(現在の老人ホーム)に白黒テレビを寄付したことだったとか。
 一番安いのを買っていきました。そのころテレビってめちゃくちゃ高かったから。あの時代の養老院には、家族に捨てられて、つらい思いをしている人も多かった。楽しみも少ないだろうと思って、テレビを贈ったんだけど。そうしたら、おじいちゃん、おばあちゃんがベッドの上に正座して、15歳の子どもに向かって手を合わせていた。手を合わせるっていうのは、普通は神や仏だけでしょ。人間に手を合わせるところなんて、見たことがなかったわけです。自分なんかに対して、お年寄りが手を合わせてくれている…。感動しました。強烈な印象として残ってます。
■胃袋はひとつだけ
 写真◆東日本大震災の復興支援に取り組んだ芸能人を表彰する「社会貢献者表彰・感謝の会」に出席した杉良太郎、伍代夏子夫妻=2012年
――自伝『媚びない力』では《本当の金持ちというのは、生きている間にいくら使ったかで決まる。それも、誰のために使ったかが重要です》と綴っています。
 ベッドはひとつ、胃袋はひとつ。広いベッドは好きやけど、部屋一面の大きなベッドがあったとしても、寝るのに使うのは1人分のスペースだけ。なんぼおいしいステーキあっても、牛まるごと焼いたって、胃袋ひとつじゃ食えんよ。カネの亡者にはなりたくないね。
 杉良太郎(すぎ・りょうたろう)1944年、神戸市生まれ。1965年に歌手デビュー。ヒット曲に『すきま風』など。1967年、NHK『文五捕物絵図』の主演で脚光を浴び、以降『遠山の金さん』『右門捕物帖』など数多くの時代劇に出演。舞台の代表作に『清水次郎長』『拝領妻始末』など。デビュー前の15歳から福祉活動に尽力し、ユネスコ親善大使兼識字特使、外務省の日・ASEAN特別大使、日本・ベトナム両国の特別大使などを歴任。現在は法務省の特別矯正監、警察庁の特別防犯対策監、厚生労働省の肝炎総合対策推進国民運動の特別参与を務める。緑綬褒章、紫綬褒章を受章。2016年度文化功労者。
【杉良太郎さんインタビュー連載】
 https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/sugi4
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 碓井真史 新潟青陵大学大学院教授(社会心理学)/スクールカウンセラー ⇒ 「売名」と言われるのを恐れるのは、売名行為をしている人です。偽善的な売名とバレてしまっては、名を売ることができなくなるからです。一方、自分のするべきことをしている人は、売名と非難されても行動し続けます。3.11支援をしていた泉谷しげるさんも言っていました。「売名だよ。だから何だ? 有名じゃなきゃ募金は集まらないんだ...もっと見る 
 sug***** ただただ素晴らしい人だと思います。
 nek***** 一時的に慰問や寄付することは誰でも出来るが、生涯かけて続けるのは揺るぎない意志を持っている人だけだ。 
 zen***** 本物の言葉には敵わないね。
 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6347015

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 ┃ 数え年と暦 ┃
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 1997(平成九)年08月25日(月)
 ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの数霊の全てを兼ね備えたのが人(ひと)とされてきました。「一から十まで」という表現は、今でも、始めから終わりまでという意味のように全事象を指し示す言葉として通用しています。我が国は、万葉集で山上憶良が詠ったように、「言霊の幸はふ國」であるとともに、このように「数霊の幸はふ國」でもあります。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや営みを支えるものを大切にしてきました。森羅万象は全て巡り巡って循環し、始めと終わりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終わりを神聖なものと認識して祭禮を執り行いました。そして、年、月、日、年号でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳というように、人の暮らしと営みは農事と儀式の暦に従い、四季の移り変わりとともに月日を重ねてきました。ところが、権力的干渉によってこの伝統文化が破壊され、人の年齢だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至っています。それは、年齢計算ニ関スル法律(明治三十五年)と年齢のとなえ方に関する法律(昭和二十四年)の二つの法律によるものです。しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる満年齢という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎず、「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできるので、年齢を考えるにあたって、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更にこの年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでいます。その点、伝統的な数え年は、もののはじめが一であるという数霊に適うものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものでした。受精から出生までの
 十月十日を出生時に一歳と認識して、その後の齢は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も合理性があると認められるからです。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確と言わざるを得ません。ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになります。何とも奇妙であり、その「零歳」という響きには、いかがわしさすら感じられます。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前ですから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。胎児の命は軽んじられ、堕胎に歯止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではないでしょうか。ところで、GHQの占領下では数多くの伝統破壊が行われましたが、伝統的な年齢計算が法律によって強引に否定されたのは戦前のことであり、いわば明治維新やその後の明治政府の施策によって、GHQによるものに勝るとも劣らないような伝統破壊や文化干渉がなされていることを忘れてはなりません。数え年の廃止も暦に関連した大事件ですが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、明治五年の太陽暦改暦があります。明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、従来までの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の
 明治五年十二月三日を新暦の
‡明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行いました。改暦を行うことが仮に時代の趨勢としてこれに抗することができなかったとしても、何故この時期に行ったかということが問われなければなりません。その理由は、一言で言えば、当時の政府が著しい財政難であったことが原因しています。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となっていました。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三ヶ月分支払うことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支払わずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の給料を支払うところを十二ヶ月分で済ませられるので、向こう一年で二ヶ月分の給料が節約できるとの計算から、そのように計画して実行したのです。そもそも暦を決定する権限は、古今東西において「王権」に属するものであるにもかかわらず、財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化という名の伝統破壊思想によって、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社会的な悪影響を全く考慮せずに、暦という重要な國體的素因を無造作に変更してしまったという過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚点と言わざるをえません。近現代史の捉え方において、日本はいつでも悪いことをやってきた犯罪国家であるとするコミンテルン史観や東京裁判史観などは論外ですが、戦争に勝っているころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入って負けてきたころ以降の日本は悪かったとする司馬遼太郎の歴史観にもほとほと呆れ果てます。これは、昭和初期から敗戦までの日本は日本でありながら日本ではないとする断絶史観です。戦前は悪で、戦後は善とする戦後保守思想もこれと同列のものです。歴史は連続しており、金太郎飴のように、どこを切ってみても「日本」なのです。こんな単細胞的な司馬史観などが最近ではもてはやされていますが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戦争は、同じく大嫌いな、暗くて苦しい昭和史を作った最大の原因であったことを自覚すれば、歴史の評価においては、一時代に限って全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解ります。光と影の双方を見つめなければ、歴史の立体構造を知ることができません。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできません。この改暦も、数え年の廃止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が国の伝統を破壊して歴史に禍根を残している一例なのです。しかし、この改暦や数え年の廃止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じていなかったことが不思議でなりません。ともあれ、我が国の歴史は、修理固成の御神勅のとおり歩んで行くと信ずるがゆえに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信します。太陰太陽暦には、確かに難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。現代において、これを単純に復活させ、新暦を廃止せよというものではありませんが、せめて韓国のように、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせるべきです。そして、さらに旧暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければなりません。それは、新暦を従来どおり主たる暦として使用継続する場合であっても、元旦を立春とする古式伝統を復活させるべきではないか、ということです。そもそも、ユダヤ暦のような純粋な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるように定められており、理想としては、立春を元旦とすることでした。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と満月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じますが、我が国の古式伝統では、立春を元旦として新年新春を祝います。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が残っており、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由来していると思われます。「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で践祚された神武肇國に関する日本書紀の記述部分です。中国暦(陰暦)の影響を強く受けた記述ではありますが、「春正月」(はるむつき)という表記は、立春を元旦(朔)としている意味と解釈できるからです。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で観測した春の始まりであり、これが我が国の季節の始まり、年の始まり、暮らしと営みの始まりとして、二十四節気の内で最も重要なものです。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが真の太陽暦なのです。戦前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戦前から二月十一日となっていますが、立春とするのが自然な解釈のはずです。太陽の運行や節気とは無関係で何ら意味のない日に即位されたとする解釈の方が不自然でしょう。ともあれ、「春正月朔」が立春であることから、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなっています。しかし、今の新暦では立春が
 二月四日(ころ)ですから、元旦は真冬であり、「春」ではないのです。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終わりに跨った変則的なものとなっています。そして、冬なのに「初春」という季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失ってしまっているのです。一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としている新暦よりも、農事暦でもある旧暦の方が季節感と合致しています。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などという生活に密着したものも、立春から日数を数えますので、例え現在の太陽暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。これは日本暦(真正太陽暦)の創設です。これは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦を採用したうえで立春を元旦とすることが検討されていたのですが、残念なことに、日本が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りとなったという経緯がありました。そして、この真正太陽暦の採用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければなりません。皇紀紀元は日本暦(真正太陽暦)の創設と一体とならなければ歴史的意義が損なわれるからです。ところで、現在広く用いられている西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教紀元(基紀)であり、キリスト教国でない日本がこの宗教暦を無批判に受け入れ、国民にその使用を実質的に強制していることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用している世界の国々などから顰蹙をかっています。キリスト教暦を受け入れていることは、キリスト教を国教として受容したものとみなされるからです。いわば、国民の全てがクリスチャンであると思われているのです。また、アジアでも新暦のみで元旦を祝う国は日本だけで、多くの国では旧暦の元旦の方を盛大に祝っていますが、正常な季節感からすれば、旧暦元旦、もっと正確には立春を新春として祝う方が自然です。このように、我が国の現状は、暦に関する文化的価値と宗教的意義について余りにも無頓着、無神経であり、二十一世紀だとか、ミレニアムなどと無邪気にはしゃいでいる姿は、誠に嘆かわしい限りです。しかし、宗教暦の強制は憲法的にも許されませんので、一日も早くキリスト教暦(西暦)による基紀紀元を廃して皇紀紀元に改めるべきことは言うまでもありません。ところで、この日本暦(真正太陽暦)は、さらに改良の余地はありますが、現在通用しているグレゴリオ暦(新暦)とは大きく矛盾しません。いわゆるサマータイムと同じ要領です。暦日が約三十四日ずれるに過ぎません。現在の元旦が我が国にとって全く意味のない日であるがゆえに、これを意味のある立春にしようとするものです。そして、これは、単なる古式伝統の復活ではなく、生活に密着した実利性の復活でもあり、実際にも実現可能なことです。このように、人と社会と国家の「いのち」を守るためも、
 一 数え年の復活
 二 太陰太陽暦の併記併用
 三 立春を元旦とする真正太陽暦(日本暦)の採用
 四 西紀(基紀)の廃止と皇紀の復活 の四つについて、その公式化を実現させることが必要であり、これを暦に関する文化復興運動として提唱したいと考えます。
 1997(平成九)年08月24日(日)記す 南出喜久治
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_h90824.html

 逆走100メートル超、初詣客も恐怖「恐ろしい年明けに」 原宿・竹下通りの暴走 
‡2019(平成31)年01/01(火) 09:20 ㈱産経デジタル
 産経新聞 提供 JR原宿駅近くの竹下通りで自動車が逆走し、負傷者を救護する消防隊員ら=1日午前、東京都渋谷区(宮崎瑞穂撮影) 
 平成最後の年越しを迎えた直後、「若者の街」を象徴する人気ストリートを“テロ車両”が暴走した-。東京・原宿の竹下通りで1日未明、軽乗用車が逆走した事件。通りは年末年始の雑踏事故対策で車両が通れないようになっていたが、車は無視して進入。100メートル以上にわたり逆走を続け、歩行者の男性8人を次々とはねた。
 現場近くには例年多くの初詣客でにぎわう明治神宮がある。警視庁によると、竹下通りは12月31日午後10時から翌1月1日午後5時まで、車両通行止めになっていた。
 通りの入り口付近には警察車両が置かれ、警察官も交通誘導に当たっていたが、年が明けた同日午前0時過ぎ、1台の軽乗用車が明治通り側から進入した。
 運転していたのは、殺人未遂容疑で逮捕された住所、職業不詳、自称日下部和博容疑者(21)。車は通りから30メートルほど入った所にあるショッピングモール前の路上で1人目をはねると、その後に7人を次々と巻き込み、車両前部を大破した状態で停車。暴走は通り全体の3分の1以上、約130メートルに及んだ。
 車が停車した場所のそばにあるクレープ屋でアルバイトをしていた女性(22)によると、「当時は通行人もまばらで、衝突音も聞こえなかった。こんな場所でひき逃げが起きるなんて」と声を震わせた。
 通りの道幅は5メートルほどと狭い。車両の破損状況などから、事件当時は相当のスピードを出していたとみられる。現場には十数台の救急車両が到着し、救急隊員らが負傷者をストレッチャーで運び込んだ。
 インターネット上でも衝撃が広がった。ツイッターには「明治神宮の帰りに通りかかったら、救急車がいっぱい」「あと15分通るのが遅かったら、はねられていたかも」などの投稿や、新年早々の惨事に「恐ろしい年明けになった」とする投稿もあった。
 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/逆走%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90メートル超、初詣客も恐怖「恐ろしい年明けに」-原宿・竹下通りの暴走/ar-BBRF9Oe?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp#page=2

 メイウェザーに米メディア衝撃「139秒で10億円」/RIZIN 
 2019(平成31)年01/01(火) 11:40 ㈱産経デジタル
 写真◆サンケイスポーツ 提供 力強いパンチで那須川(左)をリングに沈めたメイウェザー(撮影・山田俊介) 
 RIZIN(31日(月)、さいたまスーパーアリーナ)プロボクシングで世界5階級制覇の実績を持つフロイド・メイウェザー(41)=米国=がエキシビションマッチでキックボクサーの那須川天心(20)=TARGET=と対戦、1回2分19秒でTKO勝ちした。3分3ラウンドの蹴り技なしで行い、50戦全勝のスーパースターがキックボクシング界の“神童”を終始圧倒してリングに沈めた。
 メイウェザーが強打の雨を降らせて、試合時間はわずか2分19秒。その衝撃は、瞬く間に全米にも広がった。米スポーツサイト「ブリーチャーリポート」は31日(日本時間1日)、「フロイド・メイウェザーは、いまだ負けていない。『マネー』ことメイウェザーは、20歳のナスカワを楽に打ち倒した」とし、「ナスカワは、これまで負けたことのないそのボクサーの技術の高さについていくことができなかった」と伝えた。
 さらに同サイトは、900万ドル(約10億円)とも言われる今回の試合でのメイウェザーの莫大なファイトマネーについても注目し、「メイウェザーは、わずか139秒で10億円を稼いだ」と伝えた。
 https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/メイウェザーに米メディア衝撃「%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%99秒で%EF%BC%91%EF%BC%90億円」%EF%BC%8F%EF%BD%92%EF%BD%89%EF%BD%9A%EF%BD%89%EF%BD%8E/ar-BBRFmdF#page=2

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