過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のBOΦWYだヨ(=^◇^=)

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 ┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1986~1988:藤沢映子】Vol.09┃
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‡2017(平成29)年01月29日(日)
 2016(平成28)年09月21日(水) @渋谷にて
 関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー
 音楽ライター 藤沢映子
 BOOWYは、バンドの魅力を正しくオーディエンスに伝えるために活字メディアを大事にしてきたバンドだ。そこで活躍したのが“ライター5人衆”と呼ばれる音楽評論家たちだ。なかでもファンの間では、音楽文化ライター 佐伯明氏によるアカデミックなテキストは記憶に残る忘れられないアプローチだったと思う。そんななか、女性ライターであった藤沢映子氏は、当時創刊されたばかりの音楽雑誌『PATi PATi』のライターとして、チェッカーズ、吉川晃司、尾崎豊、HOUND DOGなどを手掛けてきた。彼女は、BOOWYの対面インタビュー取材こそ担当はしてこなかったが、BOOWYのライブレポートなどで、バンドの魅力を、まだインターネットがなかった時代にオーディエンスにわかりやすく伝えてくれた。さらに、BOOWYのプロデューサー糟谷銑司氏にバンドを紹介したキーマン、東海ラジオの加藤与佐雄氏(2016年に永眠)と長年ラジオ番組などで連れ添った関係性を持つ。
今も語り継がれるBOOWYプロジェクトに込められた音楽ライターが紡いできたバンドのイメージ。そんなBOOWY伝説を裏付ける貴重なトークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――よろしくお願いします。
藤沢:はい。こういった取材はね、いまのうちにやっとかないとね。BOOWYが事務所(ユイ音楽工房)と契約のきっかけを作った加藤与佐雄さんも亡くなっちゃったから。ビートルズだってこういう記録はちゃんと残しているわけでしょ? そもそも当時、現場でBOOWYを知ってる関係者って少なかったはずですよ。
――ファンを大事にしていたので、あえてマスに広げていなかったバンドですもんね。少数精鋭で動いてたプロジェクトだったと思います。
藤沢:ライター仲間でBOOWYに会ったことある人なんてほとんどいなかったですよ。
――そうなんですね。いわゆる藤沢さんはBOOWY“ライター5人衆”の一人なのですか?
藤沢:いやいや私はね。インタビュー取材はやってないんですよ。
――音楽文化ライターの佐伯明さんに聞いたら、BOOWY“ライター5人衆”で、藤沢さんの名前が上がってましたよ。
藤沢:本当ですか? 佐伯君のイメージですよ。私はBOOWYだったらどこにでもいたっていうイメージがあるんじゃないかな?
――東芝EMIでアーティスト担当だった鶴田正人さんがおっしゃられてましたが、マネージャーの土屋浩さんが“ライター5人衆”を集めて会合を定期的に開いていたと。その場である赤坂の寿司屋にいた時点でもう5人衆ですよね?
藤沢:毎回ではないですけど寿司屋にいたことはありました(苦笑)。私は、BOOWYファンだったんですよ。応援団としてライブレポなど原稿を書いていただけだから。もちろんメンバーにも会ってますよ。でも、オフィシャルでインタビューはやってなくて、与佐雄さんと一緒に楽屋に挨拶に行ったりとかしてました。
――なるほどです。藤沢さんが音楽仕事をはじめたきっかけから伺わせてください。
藤沢:えっと、学生時代に三愛っていう洋服屋さんがあったんです。そこにDJブースがあって喋りながら音楽を流していたのが最初ですね。三愛は新宿と銀座にあって、当時のファッションの発信地だったんです。新宿は、武蔵野館っていう映画館の下にあって、若い子が読んでた雑誌『non-no』に出てくるファッション=三愛みたいな時代だったんですよ。
――めっちゃリア充感ありますね。
藤沢:ははは(笑)。学生時代、放送研究会にいて音楽が好きだったんですね。あの頃、ラジオ番組で『セイ!ヤング』とか深夜ラジオが流行っていた時代で。わたしもDJやりたいなって憧れがきっかけでした。DJブースの中にレコードがいっぱいあって、それを見ると見本盤って書いてあるんですよ。先輩DJに“これなんですか?”って聞いたら“レコード会社に行ったら宣伝でレコードくれるよ”って言われて驚いて。それからは、各レコード会社の宣伝部に電話してサンプル盤をいっぱいもらって、三愛のお店でかけるっていうのをずっとやってました。
――ライターをやり始めたきっかけは?
藤沢:雑誌社で人をさがしてるって音楽評論家の平田良子さんに紹介されて、徳間書店の子会社の試験を受けて、面接で受かったんです。それから音楽ライターというか、生まれてはじめて書くっていう。雑誌やライターがかっこいい時代だったんですね。でも、ベーシックに音楽が好きっていうのはずっとあって。中学の時に解散したビートルズからはじまってました。
――そこからなんですね。
藤沢:高校に入るとレコード交換をして情報を集めたり。当時、湯川れい子さんのラジオ番組『全米トップ40』を聴きはじめて、もうそっからどっぷりでした。学生時代にイーグルスの初公演やドゥービー・ブラザーズ、アメリカ、ニールヤングなど、ありとあらゆる来日コンサートへ行ってました。わりと洋楽人間だったので、仕事で邦楽やるって言われて最初はアリスや甲斐バンドとか。あ、ツイスト、サザンオールスターズは同い年ぐらいなんですよ。そのあと、オフコースにいきなりハマって。
――どの辺の魅力に?
藤沢:5人になったオフコースは、TOTOみたいな洋楽テイストがあって、サウンドがよくできてたんですね。フォークソングじゃなくて、日本にも洋楽みたいなバンドがいるんだなって。ちょうど小田和正さんが音に力を入れはじめた頃だったんです。海外プロデューサーを起用した時代で。「言葉にできない」とか感動しましたね。この頃に、CBS・ソニー出版から音楽雑誌『GB』を出すからスタッフにならないかって誘われて。社員になるかフリーランスかすごい迷ったんですけど、結局フリーを選んだんです。要するに編集が苦手で。
――そうなんですねぇ。
藤沢:校正が苦手で、おっきな誤字を見落とすような駄目人間で、向いてないってずっと前の会社で言われ続けてました。でも書く方はそんなに嫌いじゃなくて、じゃあライターになろうかなって『GB』の仕事をはじめて。CHAGE and ASKAやオフコースで本も出しました。あの当時で10万部ぐらい売れたんですよ。
――すごいですね。『GB』の流れからBOOWYにはどうやってたどり着いたんですか?
藤沢:『GB』のあと、わたしはなんと吉川晃司、チェッカーズ、尾崎豊にハマったんです。
――ああ、80年代前半。もう完全にその時代の流れがやってきましたよね。
藤沢:そうそうそう、この3組をたまたま担当することになって、チェッカーズはチェッカーズでロカビリーの洋楽テイストで、吉川君はニューウェーブな洋楽テイストになりたい、かっこつけたいお年頃。で、尾崎君はブルース・スプリングスティーンのロック路線へ進もうとしていて。全部のバックグラウンドがわかるから、すごい面白くて。今までは、みんな年上で私がアーティストからお世話になる側だったんだけど。初めて年下のアーティストへ取材することになったんですよ。
――その3組といえばCBS・ソニー出版的には音楽雑誌『PATi PATi』の存在もでかいですよね?
藤沢:その3つのアーティストが登場したからヴィジュアルにこだわった大判サイズの『PATi PATi』が創刊されることになったんです。編集長は『GB』で副編集長だった吾郷輝樹さんで。それこそ、吾郷さんは『GB』編集部内で、チェッカーズや吉川晃司を取り上げるべきか問題に巻き込まれたらしいんですよ。
――アイドル出身だからダメってことですか?
藤沢:そういうことなんですよ。アイドルったって2組とも、なんて言うのかな、超かっこよくて、色っぽくて、踊れて、音楽も詳しいし、歌も上手いし、全然アイドルの枠を越えていたんです。悪いけどタダのアイドルたちと一緒にしないでよって思ってたから、自分のなかで。
――後から振り返ってみたら、それこそ正しい判断でしたね。
藤沢:まぁ、わかんないんですけどね。そんな頃に、与佐雄さんから、尾崎豊の事務所だったマザーエンタープライズの福田信さんを通じて連絡頂いたんです。ラジオが衰退しているけど音楽雑誌『PATi PATi』は売れていて実売30万部越えていたんですね。そこで、ラジオで『PATi PATi』の話をしてくれって。まぁなぜ音楽雑誌が売れていたかっていうのはBOOWYにも繋がるんですよね。
――おおお。
藤沢:いわゆる大判なサイズの雑誌で、撮り下ろし写真にこだわったヴィジュアルを大事にしていたんです。しかもアイドル然とした写真を撮るんじゃないんです。最初の表紙選びがすごい印象に残っています。『PATi PATi』創刊号の表紙はチェッカーズでした。普通だったら横に並んで“ハイ、パチリ!”じゃないですか? それを真っ正面見てるのは2人ぐらいで、あとは横を向いてたりする。それでも5人揃って超かっこいいっていう表紙だったんです。
――アイドル雑誌などではあり得ない表紙だったってことですね。
藤沢:そうそう。そっからのスタートでした。だから表紙ひとつでも冒険してました。爆風スランプ、サンプラザ中野さんの時なんて全部金色にしましたからね。
――それはすごい。BOOWYも写真にはとてもこだわっていたバンドでしたよね。
藤沢:クリエイティヴな表現方法を考え出した時代ですよね。そんな時代に与佐雄さんから声がかかって、今の時代は雑誌が元気があると。“1番元気な雑誌のライターさんにラジオをやってもらいたい”って言われて。で、最初に与佐雄さんと会ったのは、ハワイなんですよ。
一同:えええ(笑)
藤沢:すごい時代なんですよ。稲垣潤一さんのファンクラブ・イベントでハワイに行って。『GB』でよく取材してたんですね。あの人もやっぱり洋楽の人で、洋楽の話をすると楽しいんですよ。1週間ゴルフしたり楽しかったですね。今から考えるとすごいよねぇ。
――今じゃ絶対にありえませんね。
藤沢:それで、稲垣さんの部屋で、稲垣さんのラジオ番組を当時与佐雄さんが担当していて収録したんです。“じゃあ、お前もトークで入れよ”って言われて、それがまぁ試験だったみたいで、喋りができるかできないかっていう。そうしたら“面白いからやろう”って決まって。与佐雄さんが、実は、何をしようと思っていたかというと東海ラジオでの『SF Rock Station』というロックをテーマにした新しい番組を企画されてたんです。当時、ラジオなんてフォークシンガーのものだったのに。
――東海ラジオでの『SF Rock Station』といえば、1986年10月から氷室さんが月曜日のパーソナリティーを担当した番組ですね。
藤沢:番組の頭の15分を、私がリードで『ロックンロール宣言』って番組をやることになったの。深夜1時から私の番組で1時15分から『SF Rock Station』っていう。月曜日が氷室京介(BOOWY)、火曜日が小室哲哉(TM NETWORK)、水曜日が黒水伸一(THE SHAKES)、木曜日が岡村靖幸、金曜日が田所豊(RED WARRIORS)というパーソナリティーで。
――濃い面子ですねぇ。時代的にも早いですよね。先取り感が強いです。
藤沢:それとは別に尾崎豊が『誰かのクラクション』っていう番組を東海ラジオでやってたんですよ。与佐雄さんがすごかったんです。その関係もあって、与佐雄さんと一緒にBOOWYのライブを観に行きました。音やステージングがいいのは当たり前で、とってもお洒落でかっこよかったんです。“あっ、新時代のバンドだ!”っていう衝撃でした。感覚的にはロンドンのパンクバンド、クラッシュに近いと感じたんです。その1回目で私は追っかけになる宣言をしました。
――熱いですねぇ。
藤沢:その後、番組収録のスタジオで氷室さんにお会いしました。都内で私が昼から録って。アーティストの方は夕方からっていう。その後、プライベートでもよくお会いしました。与佐雄さんと氷室さん家に、誕生日に花を持参してご飯を食べに行ったりしましたね。
――ライブは定期的に?
藤沢:もう絶対、必ず行ってました。名古屋であっても必ず行ってた。あの頃、東北でのロックイベントも盛んで。全部取材でまわってましたね。夏は、月の半分くらい東京にいなかったから。
――すごい、そうなんですね。
藤沢:そういう時代ですよね。原稿はワープロ持参でFAXで入稿していました。BOOWYのメンバーもだけどスタッフも若かったんですよね。みんな同世代で。感覚が一緒だったのが良かったんでしょうね。
――ビートルズと重なるところもあったんじゃないですか?
藤沢:ありましたねぇ。活動期間の短さやピークで解散したところとか、完全にビートルズでしたね。やっぱり私のなかではBOOWY以外、日本でビートルズにたとえられるバンドはいないですね。
――BOOWYというバンドのプロモーション方法、いわゆる伝え方において、マネージャーだった土屋さんはこだわりの戦略を持たれていたと思うんですが、執筆に対してアドバイスなどありましたか?
藤沢:どうしたらかっこいいかってことを考え続けられてましたね。海外のロック雑誌『ローリング・ストーン』誌みたいな書かれ方にしたいと言ってたことがあって。
――ああ、イメージが明確にあったんですね。
藤沢:そうそう。『ローリング・ストーン』誌は、アーティストに対して赤裸々に悪口でも何でも書いちゃうような雑誌なんだけど、アーティストの尖がった部分をどう出すかっていうことにこだわられてたんですよね。
――それは、大事なポイントですね。
藤沢:でね、時は前後するけど、吉川晃司から布袋さんを紹介されているんですよ。ずいぶん早くに。吉川君は新宿ロフト時代というか早い段階から、布袋さんのことを“良いギタリストがいるんだよ!”って発見していて。
――布袋さんはどんな印象でした?
藤沢:いや、もうでかい。やっぱり大きかったんですよ。でも、お話しするとすごい優しくてジェントルマンで。あの頃は、みんなロフトに集まってたからね。尾崎も吉川も。でも、よく集まってたのは六本木のBAR『RED SHOES』ですね。すべての店が閉まったらみんな『RED SHOES』に流れるっていう。3時くらいから『RED SHOES』。で、朝日を見ながら帰るっていう。タクシー捕まえなきゃって。
――『RED SHOES』はどんな雰囲気だったんですか?
藤沢:入るとバーカウンターがあって、暗めで、クラブみたいに音はうるさくはなくて。で、なんだろう? 行けば誰かしら知り合いがいたんですよ。
――でも、氷室さんはいないですよね?
藤沢:氷室さんは割とインドア派でしたよね。一番早くお子さんも産まれてるし。お酒も飲まなかったから。でも、ビリヤードはよくやりましたよ。
――氷室さん強そうですね。
藤沢:そう、とても上手いんですよ。当時ね、プールバーが流行っていて。氷室さんやHOUND DOGの大友康平さんとかと一緒にビリヤードをやりましたね。三茶と池尻の間にお店があったんですよ。
――マネージャーの土屋さんの声掛けで、赤坂のお寿司屋さんで“ライター5人衆”で集まっていたときは、どんなお話をされていたんですか?
藤沢:佐伯君や水村君など男性ライターはすごい一生懸命やってたけど、私はただのファンだったからね。でも、覚えているのはロゴ一個でも、キャッチコピー一つでも真剣にみんな本気で語り合ってましたね。かっこいいかどうかっていう視点で。BOOWYは、ステージ衣装にフランスのファッション・ブランド、ジャンポール・ゴルチエを選んだあたりもすごかったですよね。結果、日本で一大ゴルチエのブームが起きましたから。あれは間違いなくBOOWYの影響でしたから。
――ゴルチエの服って高いですよね? でもティーンも憧れたっていう。
藤沢:高いですよ。そもそも音楽とファッションは近い関係性なんですよね。そんな証明だったんだと思います。あの規模の大きさでファッションにまで影響を与えたアーティストっていうのは、日本だとBOOWYがミュージシャンで初めてだったと思うんですよ。今でこそ、みんな一緒にコラボレーションしてるけどね。
――“ライター5人衆”との交流はいかがでした?
藤沢:水村君が雑誌『R&R NEWSMAKER』で、佐伯君がパチロクこと『PATiPATi ROCK'N'ROLL』だったかな。で、私が『PATi PATi』だったんだよね。
――ライターで記事の露出先を分けてたんですよね。音楽雑誌全盛期時代ですね。
藤沢:全盛期ですね。
――そんな時代にBOOWYってどんな存在だったんですか?
藤沢:プライベートが全く表に出なくて謎めいた存在だったかもしれませんね。忘れられないのは、80年代中盤以降いろんなんバンドが原稿チェックをするようになっていくんだけど、BOOWYはそこは書き手を信頼してくれてました。ライターに対する信頼度がすごく高かったですね。土屋さんがBOOWYを分かってる人しか集めてなかったんだと思います。わたしの書き方としては“ファン!”っていうスタンスだから“ステージ上での○○な立ち振る舞いにゾクッとした”とかでしたね。アルバムのレビューだったら洋楽作品を比較に出しながら、ちょっと背伸びして書いていたような気がします。
――アルバムだとどの作品が一番お好きですか?
藤沢:ポップなもの、BOOWYのなかでポップと言われる楽曲が好きなんです。アルバムだったら1986年にリリースした『BEAT EMOTION』かな。
――ライブでのお客さんの雰囲気で思い出される風景はどんな感じでしたか?
藤沢:ミーハーな女の子と、パンク好きな子が融合してたよね。だからもう“氷室くん、キャー!”もいっぱいいるんですよ。で、ツンツン頭のパンクスもいるという。まぁツンツンは後半いなくなってきたけどね。チケットも取れなくなってきたんだろうね。途中からね、ものすごい速さでスターになっちゃったの。出会ってたった半年か1年くらいで誰もが知ってるBOOWYになっちゃって。
――1986年の武道館公演『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』、伝説のMC“ライブハウス武道館へようこそ!”は体験されましたか?
藤沢:ものすごい覚えてる! ライブレポートで書きましたね。多分『PATi PATi』だったかなと思うんですよ。それ以外にも女性誌で『non-no』や『Myojo』にも書いてたかも。男性誌だったら『Hot-Dog PRESS』とかね。あ、よく覚えているのはライブ後に与佐雄さんがアドバイスで声をかけていましたね。あの人はアーティストに媚びるようなことは一切なかったんです。歳がわたしより1世代上なんですけど、めちゃくちゃ選ぶ音楽もすごくとんがってました。かと言ってメジャーなものを嫌いなワケじゃないんですね。アドバイスも結構厳しいことをいうんですよ。
――与佐雄さんとBOOWYの思い出で忘れられないことってありますか?
藤沢:東海ラジオって東海地区だけなんですけど、AM放送だからか東海地区以外の都市、関東はもちろん、なぜか北海道でも頑張ってチューニングすれば聴けたんですね。北海道からのリクエストハガキとかありましたから。みんなザーッって雑音の中で一生懸命聞いてくれていた時代で。地方からのハガキが多かったことが忘れられないですね。
――そこしか情報の発信源がなかった?
藤沢:東海ラジオ『SF Rock Station』は目利きだったんですよね。その後大ブレイクするBOOWY やTM NETWORKのファンが聴いてくれていた番組だったんです。ともに1986年だから、ブレイク直前ね。
――BOOWYとTMって重なるところ、そこしかなかったんじゃないですか?
藤沢:ですね、他はないです全くないです。
――小室哲哉さんは、けっこうBOOWYのスタンスにシンパシーを抱いてたようです。黒いファッションだったり、BOOWYが音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出たからテレビに出るようになったとか。
藤沢:小室さんはね、いい意味で意外にミーハーでしたよね。
――小室さんは取材で、BOOWYの「B・BLUE」が売れたから、“B”から始まるタイトルでロック色の強い「BE TOGETHER」を作ったって言ってましたから。
藤沢:それは初めて知りました。いやでも、なんて言うのかな、すごく柔軟な方ですよね小室さんは。もうなんでも取り入れるし自分の中で七変化が出来る人。でも、東海ラジオで接点はありながらも、BOOWYとTM NETWORKは、アーティスト同士の接点なかったですよね。
――それを両方セレクトしている与佐雄さんのアンテナの感度の高さってすごいですよね。『SF Rock Station』があったことで、名古屋でのBOOWY熱の高さは早かったんじゃないですか?
藤沢:たぶん一番最初に、火がついた地域だと思うんですよ。
――氷室さんのラジオ番組でのトークはどんな雰囲気だったんですか?
藤沢:意外にも、気さくというかぶっちゃけ話とか楽しいお話をされてましたね。で、売れ始めた瞬間に番組を辞めたんですよ。
――「B・BLUE」前にはもう?
藤沢:そうですね。だから氷室君が一番出演は短かったかな。半年くらい。あっという間に売れたから。一年やるつもりだったのが売れたちゃって。でも、与佐雄さんのかっこいいところは“売れたらうちには用はない!”って。もちろんいい意味でですよ。うん、それ思い出した今。“売れたヤツはいいんだ”と。他のラジオ局って、みんな売れているアーティストを欲しがるんですよ。売れているアーティストのインタビューばっかりで。そればっかりじゃ面白くないんですよ。いち早く見つけて、大きくなっていく瞬間が好きだから。その辺は、与佐雄さんに共感してましたね。
――1986年、都有3号地(現:東京都庁)で豪雨の中行われた野外イベント『ウォーター・ロック・フェス 』はいかがでしたか?
藤沢:吉川晃司も出てたよね。彼はわたしと一緒に熱烈なBOOWYファンの一人でしたから。大雨降ってるのにライブ冒頭でバケツで水をかぶってましたよね。オーディエンスがびしょ濡れだからって(苦笑)。いいヤツですよね。豪雨というと熊本・グリーンピア南阿蘇アスペクタにて台風直撃の中で行われた野外イベント『BEAT CHILD』もくっきりはっきり覚えてます。
――映画化されましたもんね、つい最近。
藤沢:そうそう。それの原稿で“記事を使いました”って連絡をいただきました。
――最初は晴れてましたよね?
藤沢:晴れてた。でも、嵐がくることなんて天気予報でわかっていたのに決行しちゃったんですよね。
――今だったら中止にしてますよね?
藤沢:ですよね。雨がすごすぎて大変なことになってましたから。ステージの下が楽屋だったんですけど、パイプ椅子とか流れてきてぷかぷか浮いてたのが忘れられないです。すごい地獄のような光景でした。
――危ないっていうか危険すぎますね。
藤沢:で、控え室とか病気になった人がゴロゴロ寝てるんですよ。“マスコミはテントから出てください。救護室になります”って外に追い出されて。“会場にお医者さんはいませんか?”ってアナウンスまでありましたから。
一同:えぇ~!!!
藤沢:もう歩いてるだけで足を取られてコケるんですよ。ズボっていう感じで。ラストが佐野元春さんで、その時に晴れたんです。朝日が昇ってきて、雨が上がって。人がはけた後、靴やらカッパやらバックが泥にいっぱい落ちていて。みんないったいどうやって帰ったんだろう?っていう。記事では“夢をみに行って地獄をみた”という感じな書き出しで書きました。だって帰りみんな、熊本空港とか泥だらけで難民状態でしたから。忘れられないなぁ。野外ライブだと、BOOWY=雨ってイメージがあるよね。一番びしょぬれになったライブでした。
――高橋まことさんや松井常松さんの印象はいかがでした?
藤沢:高橋まことさんは、解散してからDe-LAXというバンドで取材しました。まこっちゃんは当時からBOOWYのムードメイカーでした。彼がいて均衡を保っている感じはありましたよね。常松さんはソロをやった時に何回か取材させてもらって。前から知ってたけど、ちゃんと取材っていうのは解散してからでした。すごく朴訥としたいい人なんですよ。そもそもBOOWYは特殊で、仲良しこよし感がないバンドだったので常にピリッとした空気感がありました。楽屋にスタッフが入るのも緊張するような感じでしたから。でもそんなプロフェッショナルさがステージ上で緊張感あってカッコよかったんですよね。
――1987年12月24日、渋谷公会堂『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』での解散宣言はいかがでしたか? そこに向けて終わっていくような雰囲気は感じられてましたか?
藤沢:感じてましたね。
――解散は早くから知ってました?
藤沢:佐伯君のインタビューだったかな? “BOOWYでやることが見えない”みたいなメンバーの発言を読んだことがあって。ファンから“そんなこと言わないでよ”みたいなコメントもいっぱいで。不吉な予感を感じで……。解散はショックでしたね。氷室布袋コンビ、布袋さんの曲で氷室君の声っていうのが好きでしたから。この組み合わせが大好きだったので。渋公のチケットは自分で買ったんですよ。イベンターのディスクガレージの中西健夫さんにお願いして。そこは業界人でずるいとこなんだけどね。入場時とか怖かったですよ。入りきれないお客さんでいっぱいで。入場していくわたしたちの姿を見るみんなの視線が痛くて。初めてパス付けないで入ったのが渋谷公会堂でのラストでした。あの時、直感的にもみんな最後だって知ってたんですよね。もう、空気感が最初からいつものライブと全然違ったんです。なんか悲鳴のような。刻一刻と進むにつれて見納め感みたいな感情がすごい高まって。あんなライブはなかったなぁ。
――それこそ音楽文化ライターの佐伯明さんとはどんなお話をされたりしてましたか?
藤沢:あの当時、どこのライブでも同じメンツなライターで会ってましたね。でも、いろいろ牽制し合いながら話してましたよ。お互いの情報を漏らさないような牽制の仕方と言いますか。水村君はね、優しい人でした。佐伯君はね、とんがってたよねぇ。だから話していて面白かったですよ。
――とんがってるっていうとどんな感じで?
藤沢:原稿にちゃんと棘があるっていうか。ちゃんと聞きたいことを聞きながらも自分流にアレンジできちゃう能力ですよね。けっこうお互いにリスペクトしていたと思います。
――そう考えると、BOOWYライターってそれぞれ違う目線で書かれてましたよね。
藤沢:はっきり住み分けされてましたね。土屋さんが考えて選んでたんでしょうね。自分が書ける人だから感性が高かったんだと思います。なんていうかギャンブラーみたいなところもあるんですよ。二面性が常にあって。ひと筋縄ではいかないクセの強い方でしたよね。
――なるほど。すごい面白いですね。
藤沢:そうそう。すごい戦略でしたよね、今考えれば。
――僕は、書き手として完全に佐伯明さんと紺 待人さん(土屋さんのライター名)の2人の文章に影響を受けてきたんですけど。両方ともアプローチは全然違いましたよね。それこそ紺 待人さんによる『大きなビートの木の下で BOOWYストーリー』(CBS・ソニー出版)というストーリーブックのすごさ。CBS・ソニー出版といえば、尾崎豊の本もヒットしたり、当時アーティストブックがめちゃくちゃ売れていたという事実は面白い現象ですよね。アーティストの自伝的な物語を脚色してストーリーテリングするという。
藤沢:尾崎の本を書いたのは、落合昇平さんっていう尾崎のレコード会社の社員なんですよ。『大きなビートの木の下で BOOWYストーリー』と描き方というかどことなく似てるんですよね。落合さんの方がちょっと繊細な感じの文章で、土屋さんはハードボイルドな感じ。だから『大きなビートの木の下で BOOWYストーリー』は日本で初めての音楽版ハードボイルド小説だったと思っています。これは、私には書けないって思いましたから。私だったら、もっとアーティストに寄り添っちゃうから、文章的に。
――なるほど。そして、1988年ラストライブ、東京ドームでの『LAST GIGS』はいかがでしたか?
藤沢:私のなかでは、もう渋谷で燃え尽きちゃったんですよ。ファンってそうだったと思いますよ。
――たしかに。
藤沢:12月24日に泣いたもん。そういえば……、あ、でもこれ言っちゃ……でも、もう流しちゃったからしょうがないんだけどね。当日、渋谷公会堂でのライブをレコーダーで録音しちゃったんです。で、氷室君の最後のMCを東海ラジオ『ロックンロール宣言』で流しちゃったんですよ。
――え、そんなことがあったのですか?
藤沢:今だったら絶対考えられないでしょ? 当時としてもだよね。でも、与佐雄さんとふたりでやろうって。当日入れなかったファンのためにやろうって決めて。
――ファンのために。
藤沢:本当はダメなことなんだけど、ファンのためにふたりでね。……思い出しましたねぇ。ライブから一週間後の放送で、BOOWYの曲から始まって、1曲めは「B・BLUE」か「Dreamin'」だったかな。で、“皆さんにお知らせがあります”って言って、“私は当日、自分でチケットを取って行ってきました”と。“もう本当にここだけの内緒のことにしてね“って録音してきたMCを流したんです。
一同:それはすごい。ラジオで内緒でって。
藤沢:なんだそりゃ?って感じだよね。反響もすごくて、行けなかったファンばかりだったので感謝されましたね。やっぱり気になるじゃないですか?
――BOOWYで一番の思い出というとそれになるんじゃないですか?
藤沢:ひょっとしたらそうかもしれないですね。
――いい話です。でもねっていう(苦笑)。
藤沢:いや、思い出せてよかった。記憶に封印しちゃってたんですよ。与佐雄さんが降りてきてくれたかもしれません(苦笑)。
――おおお。
藤沢:BOOWYって、本当にビートルズのようですよね。その後の、メンバーのソロ活動やバンドを観て“もうないんだって”諦めました。それこそ、ちょっとせつないラストの「季節が君だけを変える」っていう曲が大好きでした。
――そういえば、80年代当時の音楽雑誌ってライブレポが充実してましたよね。
藤沢:行ったことない人が読んで体験できるっていうね。ネットやDVDの代わりみたいなものでしたから。
――あ~、もうそうことですよね。
藤沢:プロモーションビデオだって出始めたばっかりだし。しかもなかなか観れる番組も少なかったんです。そんななか、ライブレポートはどれだけファン目線で、どれだけ臨場感を持って伝えられるか。照明の1本1本の光や色合い、質感みたいなのをどれだけ表現するかに気をつかってました。この書き方はBOOWYぐらいから始めたんですよ。空気感をどうやって原稿にしていくかを考えていました。
――BOOWYはやっぱりかけがえのないバンドですか?
藤沢:はい。わたしの名前だと、なかなかBOOWYに結びつかない方も多いかもしれませんが大ファンでしたから。ファンの皆さんと同じ気持ちだと思います。好きなアーティストはいっぱいいますが、一番ファンだったのはBOOWYでしたね。
――それはもう最初観た時から?
藤沢:うん。あんなに観るために職権乱用したバンドはないですね(苦笑)。他のアーティストはまだお仕事感がありましたから。
一同:(笑)
――そういえば、ラジオで渋谷公会堂でのMCを流した件は怒られなかったんですか?
藤沢:誰にも何も言われなかったんですよ。与佐雄さんに文句言う人がいなかったんですよね。黙認されてました。
――あと、当時ファン目線で喋れる、書けるライターさんって実は少なかったんでしょうね。
藤沢:どうなんだろうね。あのね、難しいのは、ファンから嫌われるファン目線ってのはあるんですよ。
――なるほど。
藤沢:それを勘違いする女性ライターさんが多かった。“わたしこれだけ仲いいのよ”っていうね。わたしの場合は景色を俯瞰で見るんですよ、楽屋の景色とかね。“わたしがこう喋った”じゃなくて俯瞰で書くんですね。だから“私は”が出てこないんです。
――そういうことなんですね。いろいろ当時のシーンがよくわかる貴重なお話をありがとうございました。
<インタビューを終えて>
『BOOWY STORY ARCHIVE』第9弾、音楽ライター 藤沢映子氏へのロングインタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWY躍進のきっかけとなった、気鋭の音楽ライターやジャーナリストによる音楽評論の数々。そんななか、女性ならではのファン目線に寄り添いあった解説を心がけてこられたという藤沢映子氏による愛のあるコメント。BOOWYをとりまいていた当時のロックシーンの雰囲気を味わえたのではないでしょうか?
引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:KATZ MIYAKE(初代BOOWYマネージャー& DESIGNER)
 https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=9

 音源◆0:46:09 BOOWY 1987.01.29 島根県民会館 音質合格 ソロギターはギターキッズ必聴!! 音源https://youtu.be/vOTtXFj7FSI
‡1987(昭和62)年01月29日(木)
 
 音源◆2:01:06 BOOWY 1987.01.29 島根県民会館 音質合格 ソロギターはギターキッズ必聴!! 音源https://youtu.be/c4D_IU7CTQQ
‡1987(昭和62)年01月29日(木)
 

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