メシアではないにしても、バプテスマのヨハネは、すでに多くの人を集め、主の御名によるバプテスマを施しており、実際のところ彼こそメシアに違いない、との声が高まっていたはずですから、当局は、ヨハネがただ者ではないという見方を簡単に引っ込めるわけにはゆきません。「では何ですか。あなたはエリヤですか」(ヨハネ1:21)と尋ねます。
エリヤというのは、預言者の名です。生きながら天に挙げられた、偉大な預言者です。マラキ書3章によると、終末において、メシアの出現を準備すると信じられていました。それに対しても、ヨハネは否と答えます。
マタイ11章では、バプテスマのヨハネがエリヤであることを、イエスが説いているのですが、ヨハネの福音書は、バプテスマのヨハネ自身が否定しています。
そこで当局の使いは、「あなたは、あの預言者なのですか」(ヨハネ1:21)と尋ねました。これは、モーセが申命記18章で、自分のような預言者が立てられることを主から受けたと発していることと対応していると思われます。エリヤでなければ、モーセの再来であるというのでしょうか。ともかく、自分からの何らかの宣言があれば、良かれ悪しかれ証言として採用できるのでしょう。
バプテスマのヨハネは、これをも否みます。
質問者は困ります。果たしてこのような本音を言ったのかどうか分かりませんが、当局にどうやって報告すれば分からないのではっきりさせてくれ、と言っています。これは、もしかすると、直接現場でそのような会話があったというよりも、彼らの本音を解説したもの、と考えてしかるべきではないかと思われます。
ともかく、バプテスマのヨハネ自身が、自分のことをどう明らかにしたか、が記されています。それは、イザヤ書の引用でした。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)
どうやら、メシアと直接結びつけることを憚るようにさえ聞こえます。あるいは、彼の謙虚な思いがそうさせているのでしょうか。自覚がなかったというのでしょうか。
この次の「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」(ヨハネ1:24)を含めて、最後の問答を、後世の挿入だとする見方があります。この部分がなくても次の25節へスムーズにつながることや、本来サドカイ派である祭司が、ファリサイ派だと記されているのは実情に反する、という考証などがその理由です。つまり、ファリサイ派を、イエスの対極にする図式が定着していたことを根拠に、どうしても共同体は、ファリサイ派を福音の対抗に置く必要があったというのです。すでにそのころには、つまり70年のマサダの戦いを終えて後には、神殿祭司は崩壊しており、散りつつ遺されたユダヤ人たちは、ファリサイ派のみ存在していたという事情もあったのです。
エリヤというのは、預言者の名です。生きながら天に挙げられた、偉大な預言者です。マラキ書3章によると、終末において、メシアの出現を準備すると信じられていました。それに対しても、ヨハネは否と答えます。
マタイ11章では、バプテスマのヨハネがエリヤであることを、イエスが説いているのですが、ヨハネの福音書は、バプテスマのヨハネ自身が否定しています。
そこで当局の使いは、「あなたは、あの預言者なのですか」(ヨハネ1:21)と尋ねました。これは、モーセが申命記18章で、自分のような預言者が立てられることを主から受けたと発していることと対応していると思われます。エリヤでなければ、モーセの再来であるというのでしょうか。ともかく、自分からの何らかの宣言があれば、良かれ悪しかれ証言として採用できるのでしょう。
バプテスマのヨハネは、これをも否みます。
質問者は困ります。果たしてこのような本音を言ったのかどうか分かりませんが、当局にどうやって報告すれば分からないのではっきりさせてくれ、と言っています。これは、もしかすると、直接現場でそのような会話があったというよりも、彼らの本音を解説したもの、と考えてしかるべきではないかと思われます。
ともかく、バプテスマのヨハネ自身が、自分のことをどう明らかにしたか、が記されています。それは、イザヤ書の引用でした。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)
どうやら、メシアと直接結びつけることを憚るようにさえ聞こえます。あるいは、彼の謙虚な思いがそうさせているのでしょうか。自覚がなかったというのでしょうか。
この次の「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」(ヨハネ1:24)を含めて、最後の問答を、後世の挿入だとする見方があります。この部分がなくても次の25節へスムーズにつながることや、本来サドカイ派である祭司が、ファリサイ派だと記されているのは実情に反する、という考証などがその理由です。つまり、ファリサイ派を、イエスの対極にする図式が定着していたことを根拠に、どうしても共同体は、ファリサイ派を福音の対抗に置く必要があったというのです。すでにそのころには、つまり70年のマサダの戦いを終えて後には、神殿祭司は崩壊しており、散りつつ遺されたユダヤ人たちは、ファリサイ派のみ存在していたという事情もあったのです。