ヨハネ10:7-10
羊には囲いがあって、そこに入れば安心だといいます。安心とは平和でもあります。神の国、永遠の命がそこにあるというのでしょう。そしてそこに入るには、門を潜らなくてはなりません。そこには門番がいます。羊飼いに門を開きます。羊飼いは羊の名を呼んで連れだし、導きます。わざわざ連れ出すことで、世に出る弟子を示しているのでしょうか。
イエスはここでイスラエルの民を、従順な羊として描いています。民にも悪への傾向性を含めいろいろ問題があると私は思いますが、ここでは別の目的のために、悪の責任を負わせない考え方を示しています。この場面ではファリサイ派の人々が問題なのです。これを10章の初めから、「強盗」という呼び方で、すでに持ち出していました。
この次の箇所には「私は良い羊飼いである」(11)などと言っていますが、今ここでは「私は羊の門である」と言っています。「私は門である」という言い方もしています。だいぶ強調している印象を与えます。この門を通らないで、「ほかの所を乗り越えて来る者」が「強盗」です。これを今「私より前に来た者は皆」それである、としています。
「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため」です。まるで神が定めた犠牲のいけにえを悪く言うようにも聞こえますが、これは儀式を行う祭司などを含め、律法に従うお偉い人々を指し示しているのだと思います。純朴な民の心を盗み、ついには滅びへともたらすあくどいエリートたちの姿がこうして明らかになるのです。
「羊は彼らの言うことを聞かなかった」のですが、すべての羊がイエスを通って入るのかどうかは分かりません。「救われ、また出入りして牧草を見つける」羊がいて、「命を得る」ことに、「しかも豊かに得る」ことになるのです。恰もイスラエルの民すべてがそうであるかのように描いていますが、それはエリートたちを際立たせためだと思われます。
この後「雇い人」や「狼」といったキャラクターも登場します。どれが誰のことを意味しているのか分かりづらいのですが、その一つひとつが誰を、というふうではないような気がします。ファリサイ派などのいろいろな局面が、キャラ化しているようです。イエスを通らぬ者、神の僕のような顔をしている者、人を滅びへと導く者、というように。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)
羊には囲いがあって、そこに入れば安心だといいます。安心とは平和でもあります。神の国、永遠の命がそこにあるというのでしょう。そしてそこに入るには、門を潜らなくてはなりません。そこには門番がいます。羊飼いに門を開きます。羊飼いは羊の名を呼んで連れだし、導きます。わざわざ連れ出すことで、世に出る弟子を示しているのでしょうか。
イエスはここでイスラエルの民を、従順な羊として描いています。民にも悪への傾向性を含めいろいろ問題があると私は思いますが、ここでは別の目的のために、悪の責任を負わせない考え方を示しています。この場面ではファリサイ派の人々が問題なのです。これを10章の初めから、「強盗」という呼び方で、すでに持ち出していました。
この次の箇所には「私は良い羊飼いである」(11)などと言っていますが、今ここでは「私は羊の門である」と言っています。「私は門である」という言い方もしています。だいぶ強調している印象を与えます。この門を通らないで、「ほかの所を乗り越えて来る者」が「強盗」です。これを今「私より前に来た者は皆」それである、としています。
「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため」です。まるで神が定めた犠牲のいけにえを悪く言うようにも聞こえますが、これは儀式を行う祭司などを含め、律法に従うお偉い人々を指し示しているのだと思います。純朴な民の心を盗み、ついには滅びへともたらすあくどいエリートたちの姿がこうして明らかになるのです。
「羊は彼らの言うことを聞かなかった」のですが、すべての羊がイエスを通って入るのかどうかは分かりません。「救われ、また出入りして牧草を見つける」羊がいて、「命を得る」ことに、「しかも豊かに得る」ことになるのです。恰もイスラエルの民すべてがそうであるかのように描いていますが、それはエリートたちを際立たせためだと思われます。
この後「雇い人」や「狼」といったキャラクターも登場します。どれが誰のことを意味しているのか分かりづらいのですが、その一つひとつが誰を、というふうではないような気がします。ファリサイ派などのいろいろな局面が、キャラ化しているようです。イエスを通らぬ者、神の僕のような顔をしている者、人を滅びへと導く者、というように。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)