蛇足かもしれませんが、イエスが神の子であると告白するのは、ようやくヨハネの福音書のここへ来て初めてのことだ、とお感じでしょうか。
福音書の形式に、挟み込みというものがあることが知られています。
ユダヤの文学形式の一つで、メノラという燭台のように、中央を対称に枝が分かれていますが、中央からの距離が等しいものは枝の長さと形状も等しくなっています。
ある重要なメッセージを中心として、その前後に等距離に、対応する記事が置かれているという形式のことで、福音書の記事がともすれば無秩序に気ままに並べられているかのように見えるのではなく、綿密に計算されて対称的に置かれているのだという解釈をすることがあるのです。
それで、福音書の最後にイエスを神と告白するトマスがいるのですが、実は福音書の第1章に、イエスを神の子だと告白した人がいます。
ナタナエルです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ1:49)と言っています。十分な自覚がない状態であるには違いありませんが、偶然に発言したにせよ、ちゃんと神の子の告白が掲載されていました。
また、それに先立ち、バプテスマのヨハネも、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハネ1:34)と語っています。
そればかりか、ヨハネの福音書の冒頭に、「言は神であった」(ヨハネ1:1)とあるのはもちろんのことですが、この記者の前書きの最後に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と書かれています。
見ずして信じる者は幸いというトマスへの言葉に、見事に対応しているではありませんか。見た者はいないが、神は示されているというのです。
このように、ヨハネの福音書が本来閉じられるこの場面は、ヨハネの福音書の冒頭を再び味わうことによって、安心して読み進んで行くことができることになるのです。
福音書の形式に、挟み込みというものがあることが知られています。
ユダヤの文学形式の一つで、メノラという燭台のように、中央を対称に枝が分かれていますが、中央からの距離が等しいものは枝の長さと形状も等しくなっています。
ある重要なメッセージを中心として、その前後に等距離に、対応する記事が置かれているという形式のことで、福音書の記事がともすれば無秩序に気ままに並べられているかのように見えるのではなく、綿密に計算されて対称的に置かれているのだという解釈をすることがあるのです。
それで、福音書の最後にイエスを神と告白するトマスがいるのですが、実は福音書の第1章に、イエスを神の子だと告白した人がいます。
ナタナエルです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ1:49)と言っています。十分な自覚がない状態であるには違いありませんが、偶然に発言したにせよ、ちゃんと神の子の告白が掲載されていました。
また、それに先立ち、バプテスマのヨハネも、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハネ1:34)と語っています。
そればかりか、ヨハネの福音書の冒頭に、「言は神であった」(ヨハネ1:1)とあるのはもちろんのことですが、この記者の前書きの最後に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と書かれています。
見ずして信じる者は幸いというトマスへの言葉に、見事に対応しているではありませんか。見た者はいないが、神は示されているというのです。
このように、ヨハネの福音書が本来閉じられるこの場面は、ヨハネの福音書の冒頭を再び味わうことによって、安心して読み進んで行くことができることになるのです。