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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

恵みの座に近づこう

2025-03-14 | メッセージ
ヘブライ4:14-16 
 
好例ではないかもしれませんが、礼拝の席のどこに座るか、という質問を投げかけた牧師がいます。なぜだか、後ろの方から席が埋まるのです。前の方を、と考えた人も、前から数番目に座るのが普通です。一番前を陣取る人は殆どいません。日本人の奥ゆかしさか、とも言っていましたが、恵みの座に大胆に近づくべきです、と話していました。
 
神の言葉を聞こうとするのなら、一番前がよいに決まっています。間に人の背中が見えるでしょう。他人を、神と自分との間に介在させるのは面白くないはずです。大胆に、あるいは「堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」との誘いは、必ずしもこういう意味に相応しいわけではありませんが、気持ちは分かります。
 
「助けを受けるために」神の前に出るのならば、遠慮をする必要はないと思われます。キリスト者は、「憐れみを受け、恵みにあずかって」よいのです。ここでは「大祭司」というイメージの中で叙述されています。手紙の時代、すでにエルサレム神殿は崩壊し、細々と各地のシナゴーグでの礼拝を、ユダヤ人は続けていたと思われます。
 
旧約の大祭司の感覚は、果たしてこのユダヤ人たちにピンときたのでしょうか。「神の子イエス」は「偉大な大祭司」なのだと言います。これに対して私たちは、「信仰の告白をしっかりと保とう」と求められます。但し、これは特殊な大祭司です。イエスは、「私たちの弱さに同情」します。「罪は犯さ」ないが、罪人と共に「試練に遭われた」のです。
 
そのようなイエスですから、私たちはその「恵みの座に近づこう」と呼びかけられます。礼拝説教そのものとは次元の異なる近づき方です。でも、礼拝の中から神は立ち上がります。イエスが近づいてきます。その真実さがある限り、神の言葉が語られる説教の中に身を浸し、イエスの懐に入るのが、きっと正しいことなのです。望ましいことなのです。




それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜に適った助けを受けるために、
堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

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