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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

恵みにも拘わらず逆らう人間の姿

2025-03-12 | メッセージ
詩編78:12-22 
 
良いことがないということで、人は神に対して不平を言います。良いことがあったらあったで、それっぽっちのことなのか、と不平を言います。恵み与えられたことでさえ、もっともっとと欲望が高まるのです。自分はその程度で満足する者ではないのだ、と自己主張を掲げ、恰も己れが神であるかのように威張るのです。
 
イスラエルがその姿をこうして遺してくれました。私たちがそこに、自分自身を見ることがなければ、同じことになってしまうでしょう。「エジプト」が悪の権化のように名指しされることについて、現在その同じ国名がある故に申し訳なく思うのですが、昔の話で、イスラエルがかつてのそこから脱出する必要があった、と言わせて戴きます。
 
すべて主なる神の業です。「昼は雲をもって/夜は夜ごとに火の光をもって彼らを導いた」のは、旧約聖書の中に思いのほかたくさんある言い回しであり、神の霊と光とを象徴する表現となっています。脱出そのものに加えて、こうした導きや、命を支える水の供給によって、神の恵みは荒れ野の旅の間、絶えることはありませんでした。
 
「しかし彼らは神に向かって罪を重ね」ました。それは「心の内に神を試み」る行為でした。「神に逆らって」いたのです。確かに水はありました。しかし食べ物を与えてくれやしないではないか、と呟いたので、「主はこれを聞いて憤った」のでした。神は、光という恵みのものではなく、怒りの発露としての火を、そこにもたらしました。
 
このように、ここでは神に対して逆らったイスラエルの有様が、たっぷりと描かれています。「神を信じず/その救いを頼みとしなかった」ことが、赤裸々に語られています。こうして、この詩は、この後もなお、40年の荒れ野でのイスラエルの姿を、幾度もそこに戻るようにループ状に巡りつつ伝えてゆきます。耳を塞ぎたくなるほどに。
 
恵み深く与え、導く神と、それを受け取りながらも神に逆らい続ける人間の様を、これでもか、と示しぶつけてきます。詩の終わりは、ダビデ王の信仰で結ばれますが、ありあまる恵みを常に不満の種としてしか使えない民の描写に、重ね重ね胸が苦しみつつ読むしかありません。決して、これを他人事として見ていてはならないのです。




しかし彼らは神に向かって罪を重ね
砂漠でいと高き方に逆らった。(詩編78:17)

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