イエスは、以上を話し、その後に「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(ヨハネ11:11)と付け加えます。改めて話題が展開することを示しますが、ヨハネの筆も、ここからの対話の重要性を強調する形になっています。
弟子たちが「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(ヨハネ11:12)と答えたということは、このイエスの言葉に違和感を覚えているようですが、「眠る」ということは、「死ぬ」という意味を表しうる言葉であるため、弟子たちの疑問も尤もではあるのですが、そもそもこの時点で、ラザロが生きているのかどうか、この場では知り得ない状況にあるわけです。イエスには、ラザロが息絶えたことが分かっていました。しかし弟子たちには分かりません。イエスの「眠っている」という言葉を、「死んである」の意味には受け取りたくない心理も働いています。これは、私たちが普段とる当然の姿勢でありましょう。弟子たちは、ラザロは死んでいてほしくない、という前提で考えています。
通常の死は、眠ること。イエスがそれを起こしに行く。この図式だけで、復活の福音が十分に表されています。ここでラザロは生き返ります。しかししょせんそれはまたいずれ死ぬための生き返りに過ぎない、とも呼ばれ得ます。けれどもヨハネは、それだけのことを言いたかったのではありません。イエスが、眠りから起こしに行くという福音です。それは、内に光のない人間に、光を与えるという福音でもあります。ヨハネの筆は、福音をひとつに結びつけて読者に伝えようとしているのです。
そこでヨハネはわざわざ、このイエスと弟子たちとの意識のずれを、ご丁寧にも説明しています。それほどに、通常の理解と、神のもたらす復活の福音とは、次元が違うということを響かせます。
弟子たちが「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(ヨハネ11:12)と答えたということは、このイエスの言葉に違和感を覚えているようですが、「眠る」ということは、「死ぬ」という意味を表しうる言葉であるため、弟子たちの疑問も尤もではあるのですが、そもそもこの時点で、ラザロが生きているのかどうか、この場では知り得ない状況にあるわけです。イエスには、ラザロが息絶えたことが分かっていました。しかし弟子たちには分かりません。イエスの「眠っている」という言葉を、「死んである」の意味には受け取りたくない心理も働いています。これは、私たちが普段とる当然の姿勢でありましょう。弟子たちは、ラザロは死んでいてほしくない、という前提で考えています。
通常の死は、眠ること。イエスがそれを起こしに行く。この図式だけで、復活の福音が十分に表されています。ここでラザロは生き返ります。しかししょせんそれはまたいずれ死ぬための生き返りに過ぎない、とも呼ばれ得ます。けれどもヨハネは、それだけのことを言いたかったのではありません。イエスが、眠りから起こしに行くという福音です。それは、内に光のない人間に、光を与えるという福音でもあります。ヨハネの筆は、福音をひとつに結びつけて読者に伝えようとしているのです。
そこでヨハネはわざわざ、このイエスと弟子たちとの意識のずれを、ご丁寧にも説明しています。それほどに、通常の理解と、神のもたらす復活の福音とは、次元が違うということを響かせます。