それから、この後に聖霊が降臨することで、ここのイエスの言葉の謎が解かれるという構成になっていて、やがて聖霊が父なる神より送られて、力を得て、世界へ出て行くようにまでなることが宣言されます。ルカの眼差しはもう次の教会の歴史の段階に言っています。上からの力に弟子たちは覆われるといいます。ただ、それを受ける事件の描写が待っていますから、それまでエルサレムにとどまって集まっていよ、というのです。それにしても、エルサレムは危険ではなかったでしょうか。当時の状況は実のところははっきりしないのですが、あるいはイエスが処刑された時点で、この集団の力はなくなったというふうに見なされて、もう雑魚どもは相手にされなくなったのでしょうか。弟子たちはもはや力がないと見られたのかもしれません。また、そのようにすることが、この見せしめの処刑の意味でもあったはずでした。よけいな手間をかけなくても、この集団が解消していくように仕向けたのでしょう。またそれほどに、この弟子たちは立派ではなかったようにも窺えます。マルコが描いたように、無力で無理解な田舎者揃いだったわけです。だから権力者たちの目から見ても、何の力もない無害な者のように見えたのではないでしょうか。けれどもそういうことを含めて、すべてが摂理でした。だからこそ一つにまとまっていることができたのです。これが散り散りになっていては、聖霊が来てひとつにまとまることはできなかったことでしょう。なお、力に覆われるというのは、力を身に纏うような表現がとられています。パウロは、キリストを着る、という言い方をもします。力を与えられるというのは、人間自身の中身から湧き出るというよりも、外から着せられるという感覚があるのかもしれません。