ローマ8:1-11
望まない悪を行っていたのは、「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪」(7:20)です。パウロは苦悩しています。ガラテヤ書で「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(2:20)と言っていたのはどうなったのだ、と言いたくもなります。深刻な対立があります。肉と霊です。二元論と言えば二元論です。
でも、近代人が対立させる構図とは多分異なります。「命の霊の法則」と「罪と死との法則」とが対比されていますが、訳の上での困難があります。「法則」と「律法」とは同じ語なのです。日本語では同じ語で表しづらいと思います。私はこれらを「法」と示せばよいと考えます。生活も生命も人生も「生」とすれば通じるのと同様です。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」という深刻な対立があるものの、目立たない注目点があります。「律法が肉により弱くなっていたためになし得なかったことを、神はしてくださいました」という一文です。人はその生きながらの姿では、律法を全うすることができず、律法に反することを望み行う傾向性に動かされます。
そこに、肉と呼ばれる働きがあります。肉体が悪いのではありません。だから、律法というものが人を救うことはできなかったのです。ただ教え込めば生徒は学習する、というわけではありません。生徒への励ましや愛情が、生徒にやる気を起こさせるのと少し似ています。神はイエスを「世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」
このことを信ずるところには「神の霊」が働いています。「キリストがあなたがたの内におられる」とき、神は「あなたがたの死ぬべき体を生かしてくださる」のです。「神の霊」は「キリストの霊」とも呼ばれています。罪により死んでいた体でさえ、人の霊は命になります。だから肉と体とは異なります。肉は、神の意に全く反するものであるのです。
イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬべき体をも
生かしてくださるでしょう。(ローマ8:11)
望まない悪を行っていたのは、「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪」(7:20)です。パウロは苦悩しています。ガラテヤ書で「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(2:20)と言っていたのはどうなったのだ、と言いたくもなります。深刻な対立があります。肉と霊です。二元論と言えば二元論です。
でも、近代人が対立させる構図とは多分異なります。「命の霊の法則」と「罪と死との法則」とが対比されていますが、訳の上での困難があります。「法則」と「律法」とは同じ語なのです。日本語では同じ語で表しづらいと思います。私はこれらを「法」と示せばよいと考えます。生活も生命も人生も「生」とすれば通じるのと同様です。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」という深刻な対立があるものの、目立たない注目点があります。「律法が肉により弱くなっていたためになし得なかったことを、神はしてくださいました」という一文です。人はその生きながらの姿では、律法を全うすることができず、律法に反することを望み行う傾向性に動かされます。
そこに、肉と呼ばれる働きがあります。肉体が悪いのではありません。だから、律法というものが人を救うことはできなかったのです。ただ教え込めば生徒は学習する、というわけではありません。生徒への励ましや愛情が、生徒にやる気を起こさせるのと少し似ています。神はイエスを「世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」
このことを信ずるところには「神の霊」が働いています。「キリストがあなたがたの内におられる」とき、神は「あなたがたの死ぬべき体を生かしてくださる」のです。「神の霊」は「キリストの霊」とも呼ばれています。罪により死んでいた体でさえ、人の霊は命になります。だから肉と体とは異なります。肉は、神の意に全く反するものであるのです。
イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬべき体をも
生かしてくださるでしょう。(ローマ8:11)