ヨハネ14:12-17
「父と子と聖霊の御名によって」というような言い回しを、教会ですることがあります。これらは「位格」を異としますが、ひとつの神である、と考えられています。神学的に「三位一体」という概念を用いて表すのです。一方、そんな語は聖書のどこにもないから、キリストの神性など虚構である、と強弁する集団もあります。
文字が人を殺すという一例かもしれません。父と子の関係に於いて、ヨハネ伝は特異な記述を行います。聖霊もその関係のうちから説明するので、三位一体の教義のためには欠かせないところだと言えましょう。また、その聖霊はどこから発するのか、といったことも考えたくなったことで、意見が合わず教会が分かれるようなこともありました。
負けた側は教会を追い出され、「異端」とされもしましたから、歴史はなんとも残酷です。人間は、このような説明が好きなのでしょうか。他の言葉で説明を尽くさないと、気が済まないのでしょうか。「アーメン」と口にしながら、イエスが語ったと記録されたここでの言葉は、今も生き働いているではありませんか。
「私を信じる者は、私が行う業を行うだろう」と告げられており、「もっと大きなこと」にも言及しています。それは聖霊の力でなされることでしょう。イエスの名によって願うことは、何でも叶えられると強調されていますが、これを私たちはどう受け止めるとよいでしょうか。ここで「霊」が「真理の霊」と称され、「弁護者」とも呼ばれています。
その霊を、私たちは知っているとされています。私たちのもとにおり、とどまっているその霊は、私たちの内にいる、とも言われています。イエスの口から「私」として挙げられている主語は、果たしてイエスだけなのでしょうか。文法的にはそうかもしれませんが、ふと思います。聞いているうちに、それがよく分からなくなってくるのです。
父の心を、そのままに語っているのかもしれませんし、働く聖霊を代弁しているのかもしれません。それは「永遠にあなたがたと一緒にいる」ことでしょう。ヨハネ伝でいう「永遠」は、「永遠の命」をも表しますが、時間の中で滅びはしないことを指すとも考えられます。創世の時より変わらず、終わることのない神の働きのようにも思えてきます。
私は父にお願いしよう。
父はもうひとりの弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと
一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネ14:16)
「父と子と聖霊の御名によって」というような言い回しを、教会ですることがあります。これらは「位格」を異としますが、ひとつの神である、と考えられています。神学的に「三位一体」という概念を用いて表すのです。一方、そんな語は聖書のどこにもないから、キリストの神性など虚構である、と強弁する集団もあります。
文字が人を殺すという一例かもしれません。父と子の関係に於いて、ヨハネ伝は特異な記述を行います。聖霊もその関係のうちから説明するので、三位一体の教義のためには欠かせないところだと言えましょう。また、その聖霊はどこから発するのか、といったことも考えたくなったことで、意見が合わず教会が分かれるようなこともありました。
負けた側は教会を追い出され、「異端」とされもしましたから、歴史はなんとも残酷です。人間は、このような説明が好きなのでしょうか。他の言葉で説明を尽くさないと、気が済まないのでしょうか。「アーメン」と口にしながら、イエスが語ったと記録されたここでの言葉は、今も生き働いているではありませんか。
「私を信じる者は、私が行う業を行うだろう」と告げられており、「もっと大きなこと」にも言及しています。それは聖霊の力でなされることでしょう。イエスの名によって願うことは、何でも叶えられると強調されていますが、これを私たちはどう受け止めるとよいでしょうか。ここで「霊」が「真理の霊」と称され、「弁護者」とも呼ばれています。
その霊を、私たちは知っているとされています。私たちのもとにおり、とどまっているその霊は、私たちの内にいる、とも言われています。イエスの口から「私」として挙げられている主語は、果たしてイエスだけなのでしょうか。文法的にはそうかもしれませんが、ふと思います。聞いているうちに、それがよく分からなくなってくるのです。
父の心を、そのままに語っているのかもしれませんし、働く聖霊を代弁しているのかもしれません。それは「永遠にあなたがたと一緒にいる」ことでしょう。ヨハネ伝でいう「永遠」は、「永遠の命」をも表しますが、時間の中で滅びはしないことを指すとも考えられます。創世の時より変わらず、終わることのない神の働きのようにも思えてきます。
私は父にお願いしよう。
父はもうひとりの弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと
一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネ14:16)