詩編25:1-22
技巧的な詩です。「アルファベットによる詩」だという標題が付せられています。でも実によく心情をこめた形になっており、故人から国にまで、細やかな配慮の行き届いた詩となっています。「私の魂」から主への道が始まり、「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください」と主に願っています。私はこんなにも主に思いを寄せています。
そのことを伝えたくて、「思い起こしてください」と呼びかけます。主の「憐れみと慈しみを」と。だが「私の若き日の罪や背きを思い起こさず」にいてほしいと願い、「恵みのゆえに」思い起こしてほしいというのが本心です。そう、「主は恵み深く、正しい」のです。だから「罪人に道を示す」のです。私は罪人であり、「苦しむ人」なのです。
主からその道を教えてもらわなくてはなりません。「主の道は慈しみとまこと」です。私の過ちを赦してくださる方です。「選ぶべき道を示す」主であることを信頼しています。主は私に、主と人間との契約を思い起こさせ、子孫もそれにより祝福するでしょう。だから「私の目は絶えず主に向かっている」のですが、「私は独り、苦しんでい」ます。
「心の苦悩から解き放」ってほしい。罪を取り除いてほしい。問題は、「私の罪」なのです。それでは、これは自省の詩なのでしょうか。ただ私と神との関係だけを語るだけでよいのでしょうか。否、私を残忍なまでに憎む敵がいます。そこから、「私の魂を守り、助け出し」てほしいのです。「恥をさらすことがないように」してほしいのです。
これは、個人の心情の問題に制限されるものではないようです。詩の末尾が「すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください」となっています。これは、イスラエルという国がひとつの人格のように働き、その中での出来事とされていることを表します。国を個人に見立てて、その実イスラエル民族の国のことを詠っていたことになるのです。
私の魂を守り、助け出し
恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。(詩編25:20)
技巧的な詩です。「アルファベットによる詩」だという標題が付せられています。でも実によく心情をこめた形になっており、故人から国にまで、細やかな配慮の行き届いた詩となっています。「私の魂」から主への道が始まり、「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください」と主に願っています。私はこんなにも主に思いを寄せています。
そのことを伝えたくて、「思い起こしてください」と呼びかけます。主の「憐れみと慈しみを」と。だが「私の若き日の罪や背きを思い起こさず」にいてほしいと願い、「恵みのゆえに」思い起こしてほしいというのが本心です。そう、「主は恵み深く、正しい」のです。だから「罪人に道を示す」のです。私は罪人であり、「苦しむ人」なのです。
主からその道を教えてもらわなくてはなりません。「主の道は慈しみとまこと」です。私の過ちを赦してくださる方です。「選ぶべき道を示す」主であることを信頼しています。主は私に、主と人間との契約を思い起こさせ、子孫もそれにより祝福するでしょう。だから「私の目は絶えず主に向かっている」のですが、「私は独り、苦しんでい」ます。
「心の苦悩から解き放」ってほしい。罪を取り除いてほしい。問題は、「私の罪」なのです。それでは、これは自省の詩なのでしょうか。ただ私と神との関係だけを語るだけでよいのでしょうか。否、私を残忍なまでに憎む敵がいます。そこから、「私の魂を守り、助け出し」てほしいのです。「恥をさらすことがないように」してほしいのです。
これは、個人の心情の問題に制限されるものではないようです。詩の末尾が「すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください」となっています。これは、イスラエルという国がひとつの人格のように働き、その中での出来事とされていることを表します。国を個人に見立てて、その実イスラエル民族の国のことを詠っていたことになるのです。
私の魂を守り、助け出し
恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。(詩編25:20)