今日も明日も元気

おやじの本音を綴ります。

手紙

2018-12-27 18:56:36 | 日記
もうすぐ母の三回忌を迎える。

月命日ではないが毎月末に墓参りを行ってきた。
生きているうちに月に一度でも顔を出せば良かったと後悔しながら手を合わせる。
それは感謝というより親不孝であった自分を許してほしいという我が儘に違いないが…

法事を前に実家の遺品を片付けていた弟から一通の手紙を受け取った。
「これは兄貴が持っていたほうがいいと思う」
それは二十代半ばの自分が母に送った手紙だった。

大学を卒業し家業を継ぐことになった自分が家を飛び出し遠く離れた地で書いた記憶がよみがえる。
何一つもわかっていなかった自分が「自由」に憧れて知らぬ土地で暮らすことを決意したと書いている。
なぜそのような手紙を送ったのか?そこまで強い決心をして生まれ変わろうとした自分であったのか?

思い出せば恥ずかしくなるほど為体な毎日を送っていた。
「生きる」すべも知らず世間も知らず金と時間を浪費していた。
やがて恐怖と後悔の念を払うため泥酔するまで酒を煽った。

そんな自分を肯定しながら理解してほしいという甘えからこの手紙を母に送った。
それから数日後、居場所を知った弟が蔑みの眼を向けながら母からの言葉を伝えに来た。
『祖母の死期が近そうだ。お前に会いたがっている』

『会いたがっている』…それは『帰ってこい、帰ってきてほしい』という許しの言葉に聞こえた。
独りでは結局なにも出来ない未熟さを嫌というほど知らされた自分にとって救いの言葉だった。
決意を告げたつもりが、本当は救いをもとめる手紙であった。

顔を合わせるのが怖くて母が帰宅する前に自分の部屋へ駆け込んだ。
『帰ってきたの?』少し安堵の声色で呼びかけてきた母。
殴りつけたい気持ちを抑えて普段通りに接した母。

忘れてしまったがきっと我が儘な自分を許してほしいと言ったに違いない。
しかしそれから何度、その母の気持ちを裏切ってしまっただろう。
何事もなかったように幸せを振舞っていた母はこの手紙を何度読み返しただろう。

六十を過ぎこれからの生き様を思い描く時、この手紙のことを忘れてはいけないと思う今…