経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

孤立化

2014年04月19日 | Weblog

我が社、我が社、俺は、俺は、
我が社よかれ、自分良し・・・・・・、
といった、
ただ、だだひたすら、自己中心での在り方は、
行き着くところ孤立化戦略を採ったことになる。

たとえば、これまでの中国などへの海外進出は、
おおかた労働力(安さ)を求めてのものである。
かりに協力工場と謳っていたにしろ製造部門、
それも実態は下請け(隷属)化しているといえる。

かりに進出した日本側がそう思わなくとも、
相手の国、ここでは中国国民の人たちが
そう思っていたとしたら、同じこと。

日本の大手企業のとりわけ年配経営者の「国際化思考」には、
日本や自社の立場や論理で、他の国を見て優劣(の判断)をする
といった匂いがどこか感じられ、気になる。

そのことがあの戦争を知る他のアジアの人々には
当時の侵略を連想させることになることなど、
彼らは思いもしていないのかもしれないだろうが。

そうした根底には日本人の奢り、つまり、その国の人々を
自分達より低くみる戦前以降からの思想だけではなく、
先進国が発展途上国(今、死語化していますね)から
脱皮していないからだと、私たちではなく彼ら理解したとしたら、
それは日本の大きなマイナスになる、と考える。

相手の国の人の得意な分野での力を貸していただく、
といった姿勢、お互い助け合って幸せになる、
といったパートナーシップの関係でつきあったとして、
何の問題があるのか。

いわばメンツ、あるいは奢り、高い姿勢といった、
つまんないことで、相手の国の人は
良い気分で付き合ってくれないとしたら、
損得に敏感な経営者なら、なんと馬鹿らしいことかと
どうして思わないのだろうか。

私には、そんなことが「日本人としての誇り」、
「俺のプライド」などとは思えないのである。
続く

減速するふんどし

2014年04月18日 | Weblog
若者の大きな固まりは、
やがてジジババの固まり化する。

こう考えていくと、コンビニの進撃が止まるとしたら
理由は2つあることが掴めよう。

だが、それは結局ひとつに集約される。
それはしかも構造的なもので、これを解決しない限り、
コンビニは、早かれ遅かれ構造的不況業態に
陥る懸念を抱えている、ということになる。

 その2つとは、
1に、メーカーの、いわばものづくり力が低下し新商品が少なくなるか、
当たらなくなった時だ。
2に、消費者が新商品に飛びつかなくなった時だ。

ゼロになることはないが、減少理由にはなる。
人だよりは、人に運を委ねることで上昇している時も、
下がるときも平等に働く。下がり始めたらどうするか。
自ら、手を打たねばならない。

ところで、上の2(後者)の理由は、
その実、コンビニ自身が招いた理由なのだ。
それは、コンビニの多くは、自社のメインターゲットを、
新商品に飛びつく若者層から、中高年層へ切り替えているのである。

もちろんそれはそれなりの理由がある。
このことは、これまでの成功要因、
ここでは加速の理由(エンジン)を自ら外してしまった。
もちろん若者層の減少に反比例し
中高年層は増えるわけだから、
それは考えとしては正しい。

だがエンジンを取っては減速、やがて動かなくなる。
その取り替えるべき新しいエンジンは、何か。
新しいふんどしはなにか。

最近の各社の動きの根底には、
まさに「このこと」がある。

それを探りだす強い視線で、
コンビニの今後の動きを見れば、
他の流通業界の今後の布石、対応策も見いだせる、
と、私は考えている。

で、私は、私なりにいくつかの仮設を立てて、
すでに検証段階に入っている。

やがて、ここで触れたい。



加速するふんどし

2014年04月17日 | Weblog
 
コンビニはチラシも、安売りもせず
(最近はやるところが増えたし、ポイントカードは実質値引きなのだが)
売れるのか。理由はたくさんあろうが、
その中の中心が、「便宜性」であろう。

だがこれは機能的側面であり優等生的解だ。
それにチラシを打たないで安売りもせずの解にはならない。

表向き、関係者は知らぬ振りしているのだろうが、
実はコンビニは、そのシステムの中に、
宣伝広告、PR,販売促進はメーカーのふんどしに依存することを
折り込みで、そもそもの業態が成立している、といってよい。

 だから新商品を、さっと入れる。
そのためにこれまでの商品をサラリと廃番にする。

もうおわかりであろう。新商品は、その製造元がメディアを通じて、
大々的に短期的集中的なコマージャルなどPRする。
コンビニは、その間その新商品を置くことで、来店数が増える。

同じ商品によるリピートではなく、棚に次々新商品を投入していけば、
いわば間接的ながらずっとメーカーが宣伝してくれる。

これがコンビニの加速装置のすべてではないが、
一つの、しかも大きい理由である。

としたら加速が永続的に続くためには、少々大げさな表現になるが、
永遠に新商品を出来るだけ間隔を置かず投入され続ける、
ということが必要条件になる。
が、このことは当然満たされることになる。
永遠に、加速装置付き他人の褌は投入され続けることになる。

 もうひとつ。
それ以上に大事なことがある。
常に新商品に飛びつく一定の客層がいて、
その人たちが、常に客層の中心であり続け、
増え続けてくれなければならない。悲しいかな、
人の年齢もまた加齢する。若者の大きな固まりは、
やがてジジババの固まり化する。
続く


花いちもんめ

2014年04月16日 | Weblog
スーパーのエンドレスコーダがほえている。
その声が、店頭の花屋さんまで、聞こえる。  
 
やはり、「買わなきゃ、そんそん」の類のBGMを
いつも聞いている花屋さんでは、その店も荒れるようだ。 

面倒だったが、スーパーのテナント店の花屋さんは
冷やかだけにし、街に出てS店で、買った。

 この店は、店主も、お客も、楽しそう。
 花がいっぱいは、花屋さんだから皆同じ。

でも、違うんだ。
みんなそれとれ,とれ。 朝取りだから、
日曜は休んでいるんだ。 

だから、嬉しそうな顔して、花が歌っていた。

 花がいきいき、花いちもんめ。
 買って嬉しい、花いちもんめ。 
 買ってもらって嬉しい、花いちもんめ。
 売れて嬉しい、花いちもんめ。

 今日は暑いから、かわいそうだと、
 水を含ませたスポンジくれたよ。 

 お陰で、私のズボンが濡れたが、
 私の花は嬉しそう。

 花嬉し。買った俺様、鼻高し。
 これでなくちゃね。

塞翁が馬-5

2014年04月15日 | Weblog


朝顔の種を撒く、ということは将来(さき)、
未来に結実して、朝顔が咲くということの予約です。

これは来週のTV放送を、
今、ビデオで録画セットする、といったことを
イメージした方がわかりやすいですかね。
セットしたもので、未来見るものが決まるから、
今セットしておく。

過去のTV放映を、
今取り出して録画セットはできないでしょう。 

そして、やがてその楽しみ、わくわくの未来が
やってきて、結実(現実)を見せてくれる。

その咲いた朝顔に、私が水をやっている。
その番組にめりこみ見ている。
これが現在、「今」です。

その現実(結実したもの)は、ひまわりでもない、
夕顔でもない。朝顔である。
セットした番組である、ということです。 

「哀愁」の中のあのセリフは、菩薩の発言そのもの、
あるいは「塞翁が馬」の話での塞ジジイ(翁)と
同じに、因と果を理解している。

映画「哀愁」の物語は、監督マーヴィン・ルロイ、
脚本ロバート・エイメットが中心になって創作して書いている
のですが、このセリフ、どちらが書いたのでしょうか。
すごいです。  

でも、ただ塞翁が凄い、哀愁が凄い、
ビビアンリーが美しい、ロバートティラーは男前、
といっていたのでは、私には特に親戚でもないでので、関係ないこと。

これを関係づけるには、こうしたことから学んだことを、
普遍化の検証をし、インプット(因をいれ)し、
将来(さき)、未来に結実して、(朝顔ではつまんないので)、
私はおびただしい財貨、名誉が結実(現実化)するように、
せっせと種蒔きに努めているわけです。

時間がかかっているようですが、
こちらへ向かって来るのは未来の方ですから、
私はただひたすら待つのみ。
おおむね80歳までには、とおもっております。 

「さて、さて。気の長い話、道のりではありますわいな」、
と未来さんが、ぼやくことはあるかもしれませんが、
私がぼやくことはありません。

ただ私は、「なんと歩みののろい未来さん。♬
そんなら私と駆け競べ♪」、と悠々と待つのみ。

間違いなく、未来はこちらに向かってきているのですから、
私はただひたすら、この今に因する(生きる)ていればいい。

この、「今に因する(生きる)のみ」、というのが、
私が解する「一所懸命」の意味であると申し添えておきます。
(了)

塞翁が馬-4

2014年04月14日 | Weblog

「いやぁ心配だね。癌の転移は若い人ほど早いからね。
ご家族もさぞ心配だろうね。
でもこのピンチをチャンスにできるように頑張ろうよ」、
というメールしたとします。

私がこれ、後者のメールを打つとしたら、友ではなく、
憎らしい人には打ちたいと思いますが。
これは冗談で(ほんとうですよ) 

癌転じて福となすなどとは、私には言えませんね。
癌が転じたらえらいことになるのに。

癌は癌、ピンチはピンチ。チャンスではない。 
こんなふうに考えると、みなほんとうに、ピンチ=チャンスと
信じているのかな。これが不思議です。
信じられないのです。ニンジン、転じて肉になる。ありかな、

そんなこと。とおもって。誰かいったことを、
やせがまんでつかっていたら、上に書いたように二重の手間。 
お医者様に、「このポリープ、転じたらチャンスを招く」
と言ってご覧なさいな。
そんな心にもない言葉遊びしている間に、
手遅れになるよ、とお節介したくなります。
これが、こうしたことを書く動機です。

 ところで、映画「哀愁」でいう、
「未来が、こちらにやってくる」というセリフは、
まさに、菩薩のが言ったとされる「因果」なのだと、
あらためて感服しています。  
だが中には、過去の「因」(ほんとはひからびた「果」
だと思うのですが)が、

今の「果」に、と解している人々も少なくないようです。
これはどう考えてもおかしい。
過去の因で未来が拘束される。
よく私の脳力開発の勉強会でお話しすることですが、
朝顔の種を撒く、ということは将来(さき)、
未来に結実して、朝顔が咲くということの予約です。
続く


塞翁が馬-3

2014年04月13日 | Weblog

悲喜こもごもに、いちいちラベル貼りして
一生を終えるなんてつまんないこと、
といったかどうか。

事実のところ、
私はまだお会いしていませんからわかりませんが。 

いえ、あくまで私の創作ですが、
貼るなら、「全部、これチャンス」
というラベルなりレッテルを貼ればいい。

起こることの本来は、チャンスでもない。ピンチでもない。
自分にとって、時と場合によって人は、
己の判断でチャンスというラベルをはったり、
ピンチを貼ったりしているわけです。

それは己の判断なのですから、これすべてに、
チャンスそのものとして、
瞬時にチャンスというレッテルを貼り、
あとはそのチャンスを増殖していくことを考える、
という手もありかな、というのが塞翁が言いたいこと。

これが「塞翁が馬」の話なんだと、
これまた私が自分にとって楽しく嬉しい方向に
解しているのです。

何のために?
自分のために、です。
ではなぜ書く? 実は、理由があるのです。

だいぶ前の話ですが、私の大好きな友に、
小さなポリープが1つ見つかった。
彼は、「大変だ」と心配している。

私は、良かったね。小さいうちに見つけてもらって。
幸運だよ。ついている。よかったね」
と、メールしました。

それを「いやぁ心配だね。癌の転移は若い人ほど早いからね。
ご家族もさぞ心配だろうね。
でもこのピンチをチャンスにできるように頑張ろうよ」、
というメールしたとします。
どうですか。どちらがいいと思いますか。


塞翁が馬-2

2014年04月12日 | Weblog

「塞翁が馬」みたいな、こんな高邁な話を、
それすら道具なのだから使い次第よ、
といったら叱られるのかも知れません。
で、これでもこわごわ書いています。 

今が未来を作る。
そして、あの名画「哀愁」の忘れられないセリフ。
「未来がこちらへやってくる」
(正確ではありませんがニュアンスは間違っていないと思います)
のですから、今のそのことをピンチとうけとってはならない。
ピンチといったレッテルを付けてはならないのです。

またピンチはチャンス、と言ったことも、
ピンチというレッテルを貼って、
それをまた剥がし、チャンスというレッテルに貼り替える。
どうしてこんな二重の手間をやらねばならないのか。
私にはわかりません。 

師の、脳力開発の創始者、城野 宏先生の話、著書の、
どこにもそんな解をしていません。

苦は苦というレッテルを貼ったら苦。
楽というレッテルを貼ると楽、
どちらを選択し貼るかは、その人の判断。

だからどっちでも自由に選べるのだから、
好きな方を、どちらでも自由にどうぞ、と言っている。

その前提に、「苦」は苦として、「楽」は楽として認識することと、
苦という認識があって楽が存在する。
楽という認識があって苦が存在する、
といった2つの原則があるのだぞ、
ということです。

ですから、ピンチがチャンスだ、
すなわちピンチ=チャンスは、
概念としても絶対に有り得ないこと。


塞翁には、そうしたことが見えていた。
悲喜こもごもに、いちいちラベル貼りして
一生を終えるなんてつまんないこと、
といったかどうか。
続く


塞翁が馬-1

2014年04月11日 | Weblog
ここに何度となく書いた塞翁が馬の話。

いろんな解があるようですが、
辞書の解ではなくお坊さんたちが説いたものによると、
人生の流れと悲喜こもごもの必然性。

たとえば、この今の不幸があってこそ、
のちのちの幸せの存在があったのだ、と
いったことを知ることが出来ます。

それは、この今(自分は、過去にも未来にも存在していない、
今だけの存在だ、ということなのですが)を
未来から俯瞰的に見る、といった「考え」ですから、
塞翁が馬の含むところは、計り知れないぐらい凄いな、
とつくづく思っています。 

以下、浅学の受け売りです。 
塞爺さまの買っていた名馬が逃げ出してしまいます。
近所の人が、「お気の毒に」と慰めると、
この爺は「これは幸運の始まりじゃ」、と嬉しそうに答えます。
事実、しばらくするとこの馬がたくさんの馬をつれて戻ってきて、
彼は大金持ちになります。 

それで近所の人が、ラッキーですね、というと、
これは何か起きる。気を付けなければ、と言う。

まあ素直じゃない、へそ曲がり爺ですが、
案の定、息子がこの馬たちに巻き込まれて怪我をする。
村の人が、「お気の毒に」とその不幸を見舞うと、
「いや、これはラッキーの前触れ」、といいます。
事実、息子はその怪我のお陰で、
戦争に行けず、その村の若者の中でただ一人で生き残った。
めでたし、めでたし。


まあこんな話です。
これをどんな風に解するかは、
これまたその人のそのときの気分次第
ということにもなるかしれません。
人生、そんなものよ、と生悟り風にも使えますし、
良いことがあったとき、天狗にならないように、
といったように戒めにも使うこともできましょう。
まあ、解釈も塞翁が馬ですね。
続く


おめでたいこと

2014年04月09日 | Weblog
ライバルが5分の4、消えてくれたのですから、
残ったところは頭割りするとしたら、
5倍から6倍は仕事が増える・・・・・
いやー。こんな喜ばしいことがあろうか。

豆腐屋がつぶれたからと言って、
豆腐を食べない人が増えることではない。
床屋がつぶれたからと言って、髪の毛が伸びなくなった、
ということでもない。
これは需要拡大と同じことを意味するのです。
これ、まさにチャンスです。

倒産のおこぼれ需要で、この際シェアを高め、
その余力でもって、今後倒産の順番の整理券が、
あとの番号になるようにする。

そのためにはどうしたらいいかという
命題を考え、実行すればいい。
その間は、どこかがつぶれるたびに、
赤飯を炊いて祝うことになります。
(こっそり内輪だけでやってくださいね)

それをどうして、三軒先のお相撲さんが亡くなったから、
体が小さいうちの父さんが、おつきあいで、つれ死、
ツレトウサンしちゃった。つれないな、と、
奥さんが嘆くようなことをお考えになるのでしょう。

倒産は、悲劇です。
家族だけではなく、多くの人に迷惑もかかる。
倒産をしてはダメだ。

だから倒産しないためには、
福の神も、地獄の閻魔様、鬼も不幸も、
天使も悪魔も、みな味方に付けて企業存続の手伝いをさせる。

それぐらいの気構えと図太さが必要だ。 
それを、なんと軟弱な、気弱な、
なんでもかんでも、都合の悪い風にとってしまうことよ。

目の前にZさんがいたら、閻魔大王に代わって、
「この甘ったれ、地獄へ落ちよ」とどやしてやりたい気がする。
疲れのせい、とは言い訳。

少し皮肉っぽいメールを書き、送信ボタンを押したとたん後悔。
更改できないメールの動きを見ながら、
こんどは自分に腹を立てた。
そういえば昼から食べていない。
腹が立ったのではなく、減っていたのだ