経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

大企業と私の生活習慣病

2009年07月05日 | Weblog
人件費を投じながら、それを活かすことより、
コストとして減じることに熱心、といった姿勢こそ、
売上を減じているのだ。
そうした事例が、最近では当然とされている。

なんという無駄。もったいないことか。


「見えない機会損失」を大きくし結果として
売上のパイを小さくしているのは、他ではない。
経営者自身なのである。


釣りをするのに餌を惜しむ。針を惜しむ。テグスを惜しむ。
ひいては、川や海に行くには軽費がかかると、惜しみ、
近くの水溜まりで魚釣り。

まるで古典落語に出てくる馬鹿な商店主ではないか。


「見えない機会損失」は、
機会損失に「見えない」をつけた私の造語で、
本来であれば来店し、購買行為をなすはずの消費者が、
見えない(来店しない)状態に、売り手がしていることによる、
売り手側の機会損失といった意味である。

端的に言えばレジを通過してカウントされた金額の合計が売上。
レジを通過せず持って行かれた金額が万引きロス。

本来であれば、来店し購入するはずなのに、
売り手が作った阻害要因で、来店するはずのお客が来店せず、
売れたであろう商品が売れないこと。

これを私は、「見えない売上」と定義。
またこの状況を「見えない機会損失」と称している。

販売員に売上ノルマを与え、達成したら
金一封と胸にバラといった紳士服店。
従業員は張り切り、必死にメジャーもって
お客を追いかけ、強引に売り込む。

それをクチコミで知ったお客は、
「私は自由に自分で選択したいから、別のお店にしよう」
ということで、この店に来店しない、といったこと。
こうした事例には事欠かない。

点を線に、線を形化し、面とすることで、
外部(消費者)との接点(ドッド)を増やし、
広げるというのが本来。

だから爾来、商人は、裏通りから表通りの道路に面することを
夢見て精進し、そして間口を広げることに夢を掛けきたのである。

山本一力さんの「あかね雲」の二代にわたる、
あの豆腐職人の執念をみよ。
http://akanezora.cocolog-nifty.com/

間口、すなわち消費者接点の線化、これを商人たちは夢を見て励んだ。
大店が小店に勝るとしたら、これゆえである。

だからいくら面積が広くても間口狭く
奥行きの長き店は大店と言わない。

ちなみに表に面しているのがお店、裏に配して自宅。
これが商家である。

このことが如何にセオリーであるか。
昔、書いたことがあるが、国道3号線沿い、
八代を過ぎたところに超繁盛のうどん屋があった。
当時は、車で頻繁に熊本へ行く機会が多かったが、
ここで昼食を取るのが楽しみだった。

それが、今はない。あるときを契機に、売上不振に陥って、
祖のあるときから、一年を経ず、倒産した。

その「あるとき」とは、その店舗に並列し豪邸を建てた。
そのこと。

借り入れの負担が重かったのではない。
そんな豪邸を目の前、横目に、うどんを食べたい、
とするお客がいなかったからである。

点を減じ、線を切り、形なし、にしたのは、
経営者自身の意志決定である。



消費者から直接情報を得ることをせず、
レジスターから得た数字をグラフにといったことをやっている。

このように消費者の接点とは全く関係のないことに
時間、コストを掛ける。
経費は費消しても売上も利益も生まない
本社・本部といったコンクリートの箱物の中に金喰いマシン。
それは、霞ヶ関、虎の門の建物だけではない。
地方各地で豪華な建物の多くの税金で建てられたものの多くが然り。


その本社・本部はみな間口も長く奥行きあり、さらに高さもある。
だが消費者接点は皆無である。


これを私は、自分のお腹に例え、
命を縮める組織の皮下脂肪、と言っている。

それでも、これが部分で、
消費者接点をもつ前線が大部分ならなんら問題はない。
だから大企業悪しということではない。
規模の大小で云々ではない。

消費者接点、ドッドで構成された線の内側が
肥満化した企業を「危うし」、といっているのである。

その内部は、まさに皮下脂肪で構成されている。
だからこれを取り除くこと。
このことが経営革新の主眼である。

人のことを言っているようだが、実は自分のことだ。
実は、いや実は、でなくとも
私のお腹も、皮下脂肪のかたまりなのだ。

多くの企業同様、今の私にとっては
この皮下脂肪退治が生死をかけた課題である

だからこれまでの企業に対する経営革新の、
考え方と手法を今、自分自身に行っている。

企業の例で言えば、おおよそ三ヶ月で
改善の兆候が見られる。

三ヶ月後の、成果を楽しみにしている。

いらっしゃいませ。こんにちは!

2009年07月01日 | Weblog
近の自動販売機はセリフをいうものが多い。
だが「情感の交流」は絶対にできない。

自販機は、これを作った人の心が形化されたもの。
形化されるにはそれなりの考え、風潮が存在してたに違いないのだ。
その証拠に自販機の登場前後から前線に配属された販売員も、
自動販売機化してきているのである。
 

大型店のレジは、人間の形をしたマシンが
一方的に接客六大用語を唱え、お金を吸い込む。

ルートセールス・マンは自販機相手では口を交わせない。

コンビニに入るとすかさず、
「いらっしゃいませ。こんにちわ」と声がかかる。

晴れても良し降っても良し
ケでもハレでもよし。
老若男女、犬猫でも使える

便利なあいさつ。「いらっしゃいませ。こんにちわ」


だが、あれは声を掛けているのではない。
人が入ったらスイッチオン。「いらっしゃいませ。こんにちわ」
人が出たらスイッチオン。「有り難うございました。またどうぞ」

デパートのエスカレータで、「よい子の皆さん」
と声をかけられる。あれと同じなのだ。

先日、なじみのローソンで、試してみた。
店員よりさきにこちらから、「こんにちわ。またきました」と、
声を掛けて入ってみた。(相手が早いから難しかった)。

彼女たちは明らかに戸惑いをみせ、
ちょいと体制を立て直し、おもむろに答えた。

「いらっしゃいませ。こんにちわ」

13年前になくなったうちのだるまインコのことを思い出した。


もっとも、私の住む集落で、ただ一つの商店、
酒たばこ総合食品日用雑貨・灯油・切手販売業のF商店では、
来店の挨拶も帰りのお見送りも自動販売機に代行させ、
ご本人達は奥のちゃぶ台でミカンを食べていたりしていたから、
それよりコンビニは勝ると言われれば、そうかもしれないが。

ところで昨年12月で閉じたこの店にはいろんな想い出がある。
一生忘れられないのは、たばこを吸っている頃だ。
宅配便を受け取りに言ったついでに、
「おばちゃん、マイルドセブン」と金を出したら、彼女曰く。
「外(自販機)でかってよ」

これは余談



ともあれ、人の自動販売機化が、加速化していることは明白だ。
コンビニを例に取ったが、むろんコンビニだけではない。
多くのお店の、多くの販売員は、一方的に「売り」に特化。
すなわちそれ以外のことは無駄と解し、そぎ落として、
画一化、単一化してきているのである。

そして消費者から直接情報を取り込み、活かすこと。
これは、別のセクションの仕事としている。

百貨店や銀行で見かける「お客様係」とか「お客様相談員」といった腕章。
コールセンターなども然り。
売りと対応と分離し、専科させることを合理的と判断しているのだ。
はたして、これが合理的なのか。

結論から言うとこれは絶対におかしい。
呼吸を吸う専門の人、吐く専門の人に分業化できないことなのだ。


現に私は、某携帯電話大手の専門店で販売員から
「ご苦情ならこちらお客観様相談室で承っていますので」
といわれたことがある。

呼吸に例えるまでもなく、情報は相互交流である。
作り手・売り手側からいえば、
消費者からの情報を取り込むことができない。
買い手側からいえば商品に関係する個別的な細かい情報が得られない。

せっかく人件費を使いながら、なんという無駄。
もったいないことであろう。

このことがいかに「見えない機会損失」を大きくしているか。
次の稿でそのことに言及したい。