経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

われわれ

2009年07月15日 | Weblog
「われわれ」とは、だれだろう。

昨日のドタバタで、麻生首相が「われわれ」を、
異様にも力を入れ連発するのを見聞きして考えた。


就任当初は、この総理、自分のことを「俺」といっていた。
一国の総理としての品性を疑われる、と非難されてから、
この「われわれ」に代えていた麻生総理。


もちろん家庭とか仲間内では使っていないだろうが、
公開の場では100%。口癖と言うより、意識して試用している風にも見える。
われわわれには、一人称の使い方があるので誤用とは言わない。
だが 意識して、としたら、それは意図がある。

首相就任の頃の「俺」」は、これまでの癖が無意識に出たのであろうが、
それが糺されて、「私」」になるのなら、母親から注意され、
子供がお行儀をなおしたのと同じでだから、同じ意識でも意図はない。

だが、この総理の、「俺変じて、われわれ」には、
明白な「意図」がある、と私には思える。

ここで、「われわれ 【我我】」を、手元の辞書で引いてみる。

補足説明「われ」を重ねた語(代)
(1)一人称。
(ア)「われ」の複数。わたくしたち。われら。
(イ)単数に用いる。みずからをへりくだっていう語。わたくし。
(2)二人称。複数の相手に対して用いる。おまえたち。
(名) それぞれ一人一人。

触れたように、「我々」には一人称もある。
だから「俺」を「私」と改めず、同じ一人称の「われわれ」を
つかったのは、へりくだりのニュアンスも加味され、
総理としては上等な選択といえよう。

もっとも彼に漢字力があるかどうか、側近のアドバイスかも。

それがここに来て、この「我々」に明らかに力をいれている。

これはそのことで、この言葉の概念を広げ、広げることでぼかし、
次に述べる、何かをあいまいにする意図がある、と私は思う。


次の文章は、19年前、鹿児島新報の
コラム「正論異論」に連載した私のコラムの一部である。


会社には手と足も口もないのであるから、
新聞社の社説は、その社の論説委員が記したものである。
当然個人が記したものであろうが、社を代表して考え、書いたものを
論説委員会等で論議され加筆修正を加えられたに違いない。

だから、これは厳密には個人の説ではない。
だから社で持って文責を負う、といったことになろうから、
個人の意見より多少社会的インパクトが加味された
誰の意見でもない論文が世に罷り通ることになる。

社説ということはその内容についての責任は
個人が負うことはないということである。
かといって実体のない会社が負うことが
できるわけはないから、責任は曖昧になる。
しかし、ことが重大であれば、会社のトップ個人が、
その責任を一手に負わされ「これにて一件落着」になる。

まずはこれで真の犯人(?)は不明なままで、
あいまいなまま決着する。

結局あいまいさの産物は結末もあいまいなのである。


上を麻生さん、自民、政治、国民と言葉を置き換えてみたら、
少なくとも一国の首相が、こうした曖昧さであっていいのかと思う。


ここでの「あいまいさ」
とは、責任の分散、転換、ぼかしである」
端的に諫言すれば、人ごと。


総理が力を込める「我々」とは、いったいだれのこと。
自分と仲間達? 麻生内閣?、自民党?、政治家?、

さらには辞書のいう、
(2)二人称。複数の相手に対して用いる。おまえたち。
すなわち「国民」のこと?

わからない。
多分に意図して「我々」に力を入れて連発しているご当人も、
どうでもいいことじゃん。我々の中に含まれる俺が希薄になれば、
それでいいのだから。
それが我のいう意図なじゃで、たいした問題じゃないないやんけ、
といったことだろう、かも。

もちろん私の裏付けもない憶測、うがった見方である。

だが、断言できることは、私でも、俺でも、僕でも、自分でもいい。
そういった一人称を使っていない公言は、
信用できるか。信頼されるか。それで国の責任は誰が取るのか
といったように、まさに自分の責任を曖昧にし、
他に転嫁する常套手段である、ということだ。

経営者がよく使う、「我が社は君を必要としていない」
といった言い回しと同じなのだ。

あるいは、上杉鷹山のエピソードででてくる、下の話と同じなのだ。

 家老A:「殿、みんながこぞって反対しております」
鷹山:「そうか。ならばそれらの名を挙げてみよ]


たとえは、適切ではないが、ヒトラーが演説で「我々」を多用し、
国民を引き込んだことは知らぬ者はない。
麻生総理の 「我々」の多用は、国民をして背を向けさせるに他ならない。

無責任、他人事、責任を転嫁、ぼかす、曖昧・・・
こうした言葉は、我々国民が厭うところのものであるからだ。


非は一人称で、功は、他者、複数称。
これがリーダーか、リーダー不適格者か、の分岐である。
09.7.15

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