経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

塞翁が馬-5

2014年04月15日 | Weblog


朝顔の種を撒く、ということは将来(さき)、
未来に結実して、朝顔が咲くということの予約です。

これは来週のTV放送を、
今、ビデオで録画セットする、といったことを
イメージした方がわかりやすいですかね。
セットしたもので、未来見るものが決まるから、
今セットしておく。

過去のTV放映を、
今取り出して録画セットはできないでしょう。 

そして、やがてその楽しみ、わくわくの未来が
やってきて、結実(現実)を見せてくれる。

その咲いた朝顔に、私が水をやっている。
その番組にめりこみ見ている。
これが現在、「今」です。

その現実(結実したもの)は、ひまわりでもない、
夕顔でもない。朝顔である。
セットした番組である、ということです。 

「哀愁」の中のあのセリフは、菩薩の発言そのもの、
あるいは「塞翁が馬」の話での塞ジジイ(翁)と
同じに、因と果を理解している。

映画「哀愁」の物語は、監督マーヴィン・ルロイ、
脚本ロバート・エイメットが中心になって創作して書いている
のですが、このセリフ、どちらが書いたのでしょうか。
すごいです。  

でも、ただ塞翁が凄い、哀愁が凄い、
ビビアンリーが美しい、ロバートティラーは男前、
といっていたのでは、私には特に親戚でもないでので、関係ないこと。

これを関係づけるには、こうしたことから学んだことを、
普遍化の検証をし、インプット(因をいれ)し、
将来(さき)、未来に結実して、(朝顔ではつまんないので)、
私はおびただしい財貨、名誉が結実(現実化)するように、
せっせと種蒔きに努めているわけです。

時間がかかっているようですが、
こちらへ向かって来るのは未来の方ですから、
私はただひたすら待つのみ。
おおむね80歳までには、とおもっております。 

「さて、さて。気の長い話、道のりではありますわいな」、
と未来さんが、ぼやくことはあるかもしれませんが、
私がぼやくことはありません。

ただ私は、「なんと歩みののろい未来さん。♬
そんなら私と駆け競べ♪」、と悠々と待つのみ。

間違いなく、未来はこちらに向かってきているのですから、
私はただひたすら、この今に因する(生きる)ていればいい。

この、「今に因する(生きる)のみ」、というのが、
私が解する「一所懸命」の意味であると申し添えておきます。
(了)