経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

売りもの

2004年12月17日 | Weblog
 昨夜、ラジオNHK第一、元エログロ専門の映画監督司会の番組に、ゲストとしてこまどり姉妹が出ていた。今の時代、ほとんど知っている人はいないと思うが、もういくつぐらいだろう。60はとっくに超えているはずだ。幼い頃から薄幸で、歌手になってからも不幸なこと(ばかり)に見舞われ、といった話を、別に熱心に聞いてきたわけではないが、こうした番組で繰り返し涙声で話をすることで知られている歌手だ。それを司会者は聞き出す。これがデビーューから、一貫として続いている。聞いている方がほとんど覚えている。今回もわずか40分ぐらいの出番に、その何度とも聞いた同じ哀話を2度も繰り返す(話のネタギレ)。そしてまたも二人で泣き合う。また二人が泣き合うように司会者が持って行く。
 茶番なのだ。だがまてよ、とおもった。頃は高度成長期、この世界ではひばりの全盛期、同世代にピーナツがいる。そのあとはピンクレディ。そうした状況でオーデションですら受からなかった流しの歌手が、生きていくためには「唄」は売れる商品にならない。
 彼女たちの売りは、唄ではない。これだ、という人がいたとしてもおかしくない。このことは、これも彼女たちの話の哀話ストーリーに必ず出てくる「○○先生がいなかったら」といった話、その先生、で裏付けられる。
 テープに撮っておけばより明快なのだろうが、この話。40年前、30年前、20年前、そして今、きいても同じストーリー、パターン出来ている。

 藤 慶子は、不幸な少女としてデビューし、一躍有名になった。そして、それがデビュー曲に会わせての演出で会ったことを、それが理由で押し上げてくれたマスコミが、それを理由に引き下ろした。
 このことと、このこまどり姉妹をならべてみたら、やはり彼女たちの薄幸は、本物なんだろう、とおもう。否、歌手としていくつづける為には、薄幸で有り続けなければならい、という一種の恐怖感が彼女たちのどこかにあるに違いない。無能昌元師から、「不幸であり続ける人は、幸せを恐怖する」、という話を聞いたことがあるが、これだ、とおもった。

 真実であろうと幻想であろうと、支持されるものが前者であればそれを貫かねば生きられない。支持される理由が後者であれば真実ではなく、幻想を与え続けなければ生きてゆけない、という潜在意識があると無能さんはいっているわけだが、もしそれを彼女たちやその関係者が意識してやり続けているとしたら、これはむしろすごいことと、驚嘆すべきことなのかもしれない。
 だから、彼女たちは、不幸であり続けるために、不幸を取り込んでいるのだ。仕入れているのだ。
 どちらだろう、という謎解きには、私は関心はない。

 ブランド、信用、のれん、こうしたものとどう違い、どこかに共通性があるか、それを展開し、考察するのが私の関心である。
 
 ところで、私が、映画監督ならこの元監督、司会より太鼓持ちの役で、使ってみたい。