長尾たかしの・・・未来へのメッセージ

自民党衆議院議員長尾たかしのブログ。平成11年からネット上で情報発信を継続。サラリーマン生活を経て政界へ。

日常生活を守るために

2011-07-04 11:37:48 | 経済
当たり前の日常生活を支えていく為に、どれだけの目に見えぬ手間隙が掛かっているかを体で感じている。

議員になって何を実感しているかと問われればそう答える。例えば、私は議員になるまで、日切れ法案という言葉を知らなかった。法律は新しく生まれてもその後メンテが必要。これは法律でなくとも同じこと。新しいものは必ず古くなり、改良すべきか、継続するべきか、捨てるか否かを、節目節目に検討する必要がある。日切れ法案の多くは、極々当たり前の日常生活に大きく影響する。その法案の期限が切れるまでに法案審議をする訳だが、成立しても、その法律を根拠とする日常生活が大きく変わる訳でもない。利用者は当たり前の日常生活が継続されるだけ。日切れ法案だけではない。大凡、法律というもの、その殆どが世間様の目に触れることなく、作られ、改正され、廃案となり、世の中に影響を与えている。ところが、有り得ないことだが、日切れ法案が成立しなかったとしたら、今までの当たり前の日常生活が行えず、゛不便゛という形で、生活に深刻な影を落とす。意外と、永田町も霞ヶ関も縁の下の力持ちで、゛当たり前゛を支えているのである。

これを記すことで、「゛俺たちも一生懸命やってんだ、もっと感謝しろっ゛と言いたげだなぁ」と、コメントを頂きそうだが、そうではない。この日常生活を過ごせなくなるという危機に瀕しているという実態を記したいのだ。

このままでは、来春には国内すべての原発は止まる。

脱原発派の方々からは、それで良いじゃないかと喜ばれそうだが、果たして喜べるか? 因に、私は脱原発派でも原発推進派でもない。その対立軸は30年前の議論、今更これに加わることを良しとしない。好むと好まざるに関わらず、私たちの日常生活のみならず、日本経済全体において、電源の29%は原発で占められている。私は脱原発派だから原発は使わないと頑張ってもそれは叶わぬ理屈。今必要な議論は、電力の安定供給のために必要なエネルギー政策の段階的なスキームを作り上げる議論である。30年後は再生可能エネルギーを中心電源として成り立つような世の中にしたいとは思う。国はその目標を立てるべきだ。ただ、復興の前に、復旧が必要な東北地方復興ビジョンと同様に、目先の問題解決ができなければ30年後には辿り着けない。来年の夏、再来年の夏、いや、今年の夏、乗り切れるのだろうか? 「お前は原発を必要とする世論形成のアクドイ手段を使うのかっ」という声が聞こえてくるが、、、・・・アホラシイ。

浜岡原発を止めたのは誰? 昨日一昨日、地元で多くの方々は菅総理と答えた。間違いである。正解は中部電力である。菅総理は止めて欲しいと゛要請゛しただけである。゛要請゛を受け、中部電力が判断して止めたのである。ところが、菅総理は立役者として賛辞され、中部電力は経済界から非難の声を受けている。では、止めなかったら世論はこの問題をどう評価しただろう。おそらく、中部電力は、よくぞ踏ん張ったと経済界から賛辞は受けず(当たり前のことだから・・)、世論からは、けしからんと非難を浴び、菅総理はおとがめなし。手柄は自分に、非難は中電に、この計算をしながらの要請であったならば、恐るべし、侮れないというところだろう。このように、国は命令をしない。命令をすれば、責任がかかる。金は出すが、判断はそちらでやってくれ、現地のことは現地がよくわかっている、そちらもその方が良いでしょっ。何かあったら、責任はそちらで頼む。これが国の本音である。そして、一事が万事であることを頭の片隅において頂ければ、今後の報道もひと味違うと思う。

定期点検を終えた原発の再稼働をするべきか否かで知事の手がブルブル震えている。認め印を押せば押したで、押さなければ押さないで、各方面からの批判は逃れらず、大変な決断を迫られている。これは酷である。自治体と事業者が安全確保の協定を結び運転再開に臨んでいるとはいえ、実質的には首長が大きな政治判断を迫られているのだ。実質的には法律よりも協定が重要という矛盾が生じている。これだけではない。過酷事故が発生した場合の対処についての、設備設置や作業員への訓練については、今まで法律に基づき定めてはこなかった。定めれば、国に責任が発生するからである。結局、法に基づいた規制は設けず、事業者の自主規制、民間任せで今日に至り、事故が起きた今も尚、国は゛責任は事業者にある゛と逃げ腰を決め付けている。

原発全54基のうち5月末までに稼働しているのは17基。この8月末には、泊2号、柏崎刈羽1号7号、大飯4号、高浜4号が定期点検に入り、稼働するのは12基。このまま、再稼働できなければ、来春までにすべての原発が止まる。止まって困るのは、我々利用者であり、経済への深刻な影響も避けて通れず、更なる大不況という波にも飲まれていき、当たり前の日常生活どころではなくなってくる。電力の安定供給の確保に対して、国が如何に前面に出て、責任を一手に受けて関われるか。

裏を返せば、これまでにこの議論がなかったということになる。原発政策については、情緒的な反対運動と事故を想定していない国と事業者の横暴との平行線議論の中で、事故を前提した法体系と、それに則した余剰設備が存在していなかったのだ。国も事業者も万死に値する。

その審議が今週から始まる。今、これに初めて取掛かる、30年遅れている。すべては、日常生活を守るためである。
コメント (49)
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