二人のユダ

その日⸺⸻
神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたのか!?と、その人の声がとどろいて、灰色の空に無数の罅(ひび)を入れた。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

第3章 神の在否  唯物論者との対決 その5

2018年04月18日 | 日記
「よう聞け、小僧」
老唯物論者の杖もまた下げられている。
「人は人を愛そうとして愛するのではない。その前には必ず遺伝子のプログラムの発動がある。それが男と女の場合なら、まず男がおっ立つものじゃ。決して夫婦になろうとしておっ立つものではなく、子供を作ろうとしておっ立つものでもない・・・・・・それはおのれが自分の胸に手を当ててみれば解ることじゃな・・・・・・受胎可能な女を視認すれば、プログラムが発動して(本人の意識よりも先に)股間がおっ立つものじゃ」
「し、しかしそれは本能だから仕方のないことではないか。それに人間は本能に従うばかりではない。人には理性というものがあり、本能に従うだけなら獣と何も変わらない」
「そのとおりじゃな。その場で直ちに女を押し倒せば、世はこれを獣の所業と呼び、理性的に時間をかけて相手を尊重しつつ押し倒せば、世はこれを愛と呼ぶものなのじゃ。わしに言わせれば、どちらも遺伝子のプログラム、本能に誘導されたもので、たいした違いがあるとは思えんがな」
「・・・・・・」
「実にそれは母子の間でも同じことなのじゃぞ。自分の子供だから愛そうと思うのではない。種族維持本能に則り、己の遺伝子を引き継ぐ個体と認識したときにプログラムが発動して(他人の子供を見ても生じない)何か熱いものが胸にこみあげてきて、それに身を任せることが母が子を愛するということなのじゃ。言葉を換えれば、男の本能で股間がおっ立つように、母性本能が母の胸を熱くさせるわけじゃな」
「い、いや、それはいい。男女の愛や母子の愛が男の本能であり母性本能であることに異を唱えようとは思わない。自分の言いたいことは、そうした本能的行動と井戸に落ちる幼な子を助ける利他的行動とはまったく違うということだ」
「同じじゃよ」
「なに?」



クリックしてくださったら嬉しいです。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
『スピリチュアル』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« 第3章 神の在否  唯物論... | トップ | 第3章 神の在否  唯物論... »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事