犬神スケキヨ~さざれ石

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もったいない(日本人の哲学)

2017-02-15 22:00:50 | 草莽崛起
さて今回は『もったいない』を考えてみたいと思います。

もったいないと我々はよく口にします。

あの国連ですら『mottainai』と演説した人がいました。

『もったいない』とは何なのか?

一度、思いを致してみてもよいかな…

そんな話しです。

もったいない

『もったいない』て、どういうことか?
捨てるのはもったいない

私にはもったいない

もったいないことをするな!

そんな使われ方をしますよね。

例えば、欲張って食べれもしない量の料理を注文して食べ残すともったいないと言う。

自分の身の丈に合わぬもてなしを受け、あまりの身に余る光栄にもったいないと言う。

まだまだ使える着物、気に入らなくなったと捨てるのはもったいないと言う。

そうやって日々、簡単に口にしているけれど、その言葉の本質を考えた事はあまりありません。

我々は日々、生きています。
生きる為に必要な事があります。

火を使い、料理をし、飯を食い、水を飲む。

当たり前の話しです。
それこそが
もったいない
の全てだと思います。

木や燃料を燃やし火を得る。

その火を使い生きる為に必要な食事を作り、飯を食う。

水を飲まなければ我々は死んでしまいます。

例えば焚き火で料理するなら木を切り薪にして使います。

その焚き火の薪は山に生えていた木々です。
しかし、我々も生きて行く為には木を切るしかありません。
木は我々を生かしてくれている。

海や川で獲る魚は我々が生きて行く為に必要な栄養を与えてくれます。

我々は生きる為に何かを犠牲にしなければなりません。

木も魚も、野菜も肉も水も我々が生きて行く為に犠牲にしなければなりません。

我々は何かを犠牲にしなければ生きていけないのです。
だから犠牲にする『何か』を無駄にしたり、必要以上に犠牲にしない。
それが
もったいない
ではないかと私は考えます。

もったいないことをするな!は、折角の犠牲を無駄にするな!ではないか?

私にはもったいないことは、私には身の丈に合わぬ犠牲をいただいた。

そう言う事ではないでしょうか?

人は一人では生きられない。

何かの犠牲、誰かの犠牲で我々は生きている。

そんな誰かも、私の犠牲の上に生きている。

それは互助なのかもしれない。

人は一人では生きられないのだから、誰かの犠牲、私の犠牲で社会は成り立っているのです。

我々は一人では生きられず、一人では身を守れない。
だからお互い少しづつ犠牲になり、生きて行く。
誰かに生かされ、誰かを生かす。

だから犠牲を無駄にしてはもったいないのです。

だからもったいない


現代我々が生きているのは、それは我々を産み育てた親がいたからです。
その親は、その上の世代の親がいたからです。

遡れば、我々は先達の少しづつの犠牲で今を生きています。

先の大戦だけを見ても先達の犠牲がなければ、今我々は生きていません。

前にもこの地味ブログで話しましたが、戦争を選択しなければ犠牲者は310万人を遥かに超えていただろうと容易に想像できます。
それは歴史を見れば一目瞭然です。
我々は先達の犠牲があったからこそ1億2千万を超える民族を維持出来ている

敗戦後、嘘の刷り込みにより、定義すらない平和なる言葉を信じこまされてきました。

敗戦後72年の間、平和なる嘘の言葉を信じて生きて来たけれど、その嘘の後ろで100人を超える日本人が北朝鮮なる国に拉致されました。
そして拉致が明らかになり、我々は自国のおかしさに気づきました。

拉致という犠牲があって、我が国は変わろうとしています。

我々は何かを犠牲に生きています。犠牲を無駄にする事をもったいないと言うのです!

我々はもったいないを今一度、心に言い聞かせなければならないのではないでしょうか?