犬神スケキヨ~さざれ石

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死と共に

2017-02-02 21:00:52 | 草莽崛起
さて前回は『死』について書いてみました。

あくまで死に対する私の考えです。

皆さんには皆さんの、それぞれの死に対する考え方があると思います。

それを改めて考えるキッカケになれば幸いです。

そして今回も私の考えを書いてみようと思います。

あくまで私個人の考え方です。

しかし、一つの問題提起となれば、皆で考えるキッカケになればと思います。

自らの死を見つめて

前回は自らの死を見つめてみました。

私自身は死を自らの中にある自然であると考えています。

そして何の為に死ぬのか?

死ぬ理由とは?

死ぬ理由こそが生きる理由

死ぬ理由を見つければ、逆に何故生きるのかを知ることができるのではないか?

今現在の私の結論です。

死ぬ理由は人それぞれです。
自らの名誉の為、愛する人の為、愛する国の為。

しかし、それらの理由は何であれ生きる理由となります。

自らの苦しみから逃れる為に自殺するなどは利己主義とも言えるかもしれません。

自ら死を覚悟するなら、愛する何かを守って死ねるならば満足したと思えるかもしれません。

そして私は死と共にある、もう一つの考えがあります。

それは

戦う

愛する何かの為に死ぬならば、やはりそれは生きる理由です。

ならば、その生きる理由とは愛する何かを守る為に徹底的に戦うということです。

例えば、あなたの愛する人が暴漢に襲われ殺され様としている。
その時、あなたは身を呈して愛する人の身代わりになるかもしれない。

それと同時に愛する人を守るに徹底的に戦うということも同時に存在するのです。

それは
愛する人の為に死ぬこともあるが、殺すこともある

死と生は紙の表裏です。

しかし愛する人の為には死も覚悟するが、殺す覚悟も必要なのではないか?

私はそう思います。

例えば私は拉致の話をする時に『金正恩を殺す』と、よく話します。

その意味はここにあるのです。

愛する祖国に住む、愛すべき人々。

我々の同胞(はらから)が拐われ、日本国民としての尊厳を踏みにじられている。その家族が我が子の、我が家族の帰りを待っている

その愛すべき人々を救い出す為に、今日死ぬ。

もしも明日、横田めぐみが愛する家族と再会出来るなら、今日死ぬ価値はある

私はそう考えます。

ならば死ぬ理由は見つけた。

それが生きる理由となるならば、それは…

救い出す為ならば手段は選ばず、金正恩すら殺す!

北朝鮮人民も殺す。

当然、我が身の保証などありません。

つまり私の中には愛する者の為に『死ぬ』こと、愛する者を守る為に死ぬことと同時に、愛する者の為に、愛する者を守る為に殺す覚悟もあるということです。

それは遡って考えても、あの大東亜戦争を戦った先達も同じなのだと、私は考えます。

死ぬ覚悟も殺す覚悟も出来る人間は強い!

他者の為に死ぬ覚悟も殺す覚悟も出来ない人間は、覚悟のある人間には決して勝てはしません。

昭和天皇は国民の命の為にダグラス・マッカーサーに仰った。

『我が身と引き換えに国民を助けてくれ』

それが日本人の生き方なんだと思います。

だから私は、私の愛する祖国、愛する人、愛する日本人を守る為に死ぬ。

そして、愛する祖国、其処に暮らす日本人、愛する人を貶める者を必ず殺す。