小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

秋の流星群

2011-10-21 21:44:59 | メモ

 明日はオリオン座流星群
右写真はWeb オリオン座流星群

余禄 《毎日;10月21日(金)》
▲「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星,すこしをかし」。枕草子の星づくしで「ゆふづつ」は宵の明星,「よばひ星」は流れ星だ。「よばひ」は呼び続けるという意味で,求婚を示すようになるが,さて清少納言はどう「をかし」かったのか。
▲ちょうど彼女が枕草子を書いていたころと思われる長保4年9月6日(1002年10月14日)の史書には「終夜流星す」の記述がある。これは毎年秋に見えるしし座流星群のほぼ33年ごとの大出現年にあたるのだという。清少納言がその流星雨を見た可能性は大きい。
▲平安貴族は流星には神経質だったようで,その33年後の大出現の際には天皇の名による大赦が行われている。普通は許されぬ罪人もことごとく減刑されたという。清少納言は流れ星は尾さえなかったらいいのにと書いているが,もしかしたら流跡を不吉と感じたのか。
▲今年のしし座流星群は来月17日がピークだが,月明かりがあって年回りからしても観測条件はあまりよくないという。それに先立つ来月上旬にはおうし座流星群,あす22日はオリオン座流星群が極大となる秋の流れ星である。まさか不吉な予感を抱く現代人はいまい。
▲と思ったら,先月の米衛星に続き,今度はドイツのエックス線観測衛星が今週末にも流星となって落ちてくる。こちらも最大30個,計1.7トンの破片が燃え尽きずに地表に到達,人に当たる確率は約2000分の1とか。いやはや,とんだ流星群の大出現年となった。
▲現在3000個以上が地球を周回する人工衛星だけに今後も落下騒ぎは繰り返されよう。
「すさまじきもの,ゴミとなって落ちる衛星」である。

 おうし座流星群
11月上旬ごろを中心に,おうし座流星群が活動している。
「北群」と「南群」があり,10月中旬から11月下旬ごろまでゆるやかな出現が続く。
普通の流星群のようにはっきりとした極大日時はないが,
南群は4日,北群は13日前後が極大のころとなる。
10月27日が新月となるので,それに近い日に早めの観測がおすすめ。

 しし座流星群
 天文イベント年表2011年11月17日(木)
「しし座流星群」の極大日2001年に日本で1時間当り数千個という大流星雨がありました。
通常は,1時間に5~10個の流星が出現します。
早く明るい流星が多く,火球の出現も期待できます。
2011年は,下弦の月が出ているため条件は良くありません。







ふたご座流星群

 三大流星群のひとつで,毎年ほぼ一定して,多くの流星が見られる。
条件の良いときに熟練の観測者が観測すると,1時間に100個程度の流星を数えることは珍しくない。
12月の上旬から流星が出現し始めると言われています。
12月中旬に入って数が増加しますが,極大を過ぎると急に流星数が減る傾向にあります。
 極大は12月14日前後で,活発な状況は約1日継続します。
夕方から明け方まで流星を見るチャンスがあるが,本格的に出現するのは,およそ21時以降。
深夜の2時頃には,放射点がほぼ天頂に位置するため,流星が真上から降ってくるように見られる。

写真はWebで,KONIKA MINOLTA の提供
一般情報は国立天文台・星空情報


2011-10-21 16:13:05 | 子どもたちに
 親孝行 したいときには

 母が旅立ったのは,1980年10月21日。
1900年(明治33年)生まれであったから,80歳であった。
今日で,逝って31年。
来秋33回忌を迎えることになるが,父の17回忌と併せて年回忌を行った。

 母親(私にとっては祖母)は,京都の出らしいがどのような理由からか両親が離別。
父親が村長をしていたらしいから,気位も高かったろうしそうしたことが原因だろうか。
もう100年もそれ以上も前の話だから,知る人は誰もいない。
弟が一人,継母に弟2人,妹2人。今は,妹一人だけが生存している。

 私の両親は,親戚関係で一緒になっている。
いなか暮らしであったが,父が勤め人であったため,農作業のほとんどは自分の肩にかかった。
二カ所の畑,一カ所の田圃で,イモ,麦類に除虫菊,野菜,それに米を作っていた。
後には葉タバコ,家畜は,牛,馬,山羊,綿羊,アンゴラウサギ,鶏などと,同時進行ではないにしてもこれらの動物に,イヌ,ネコまでいたから家を空けることはなかった。
母は持病=小児からリュウマチをもっていた。

 からだが弱いため,乳母について大事にされたらしいが,和裁を身につけていた。
私は12歳で島を離れて広島で暮らし,たまの日曜と盆・正月に帰宅する程度であったが,
特に盆前と暮れには縫物が殺到し,夜なべで縫い上げることも多々あった。
父は地元の漁師を嫌っていたようだが,母は誰彼と区別なく親しくつきあっていた。
そのお蔭で帰宅した時には,いつも新鮮な魚を口にすることができた。
魚の嫌いな母の生活の知恵であったのであろう。
母の棺は自宅から浜辺の火葬場まで運ばれたが,自宅に来られなかった多くの人が道ばたで送ってくれた。
このとき,土やほこりにまみれた姿とは別の,本当の母の姿を見た思いがした。

 ようやく車を持って生活も何とか落ち着き,山口県の俵山温泉に一緒することが何度かあった。
島からは5時間もそれ以上もかかる道のり。
出発する前,母は決してお茶の類いを口にしなかった。ご不浄に困るから,と。
喫茶店で休憩するときも,車の中で待っていてくれた。さぞ,つらかったろうに。

 島から外に出ることがほとんどなかった母だが,家内の出産の折にはいち早く見舞ってくれた。
そうだった,島から県央の世羅まで訪ねてきてくれたこともあった。
「どうやって?」家内の問いに対して,
自宅からバス停まで1里は徒歩,呉駅からは国鉄で海田駅乗り換え,河内駅からバス。
「世羅では?」
『K先生のお宅は』と訪ねたという。
こんなおばあさんがお母さんか,と,恥をかかせてはという母親の思いからであった。

 私の長男と今年旅立った母との年齢差が44、母と家内は49歳開いていた。
その差がそうさせたのか,二人は一言も口論することなく過ごしてくれた。
家内も,遠い道のりを島に帰ることをいとわなかった。
いや,一度だけ注意されたといっていたかな。
(洗濯のすんだ)おむつをテーブルに載せていたとき,
そろそろお父さんが帰る時間だから片付けなさいよ,と。

 母の葬儀の後菩提寺にお参りしたとき,ルンビニ幼稚園に通っていた子供たち3人が,
『十二禮の歌』を唱和してお供えしてくれた。
私が母に返してやれたのは,この程度のことであったか。
このたびは神奈川から帰った次男が,仏壇を清拭し,畳を,そして窓ガラスを拭いてくれた。
誰が頼んだわけでもない。ありがたかった。
母の残してくれた宝物と受け取っている。

 個人の内容をブログに載せることについて,いささかの抵抗はあった。
私たちには,今の自分たちの生活は自力で築いたもの,と誤ることがある。
私は,祖父母のことはほとんど知らない。曾祖父母に至っては全く知識を持っていない。
だが,1代前は2人、2代前は合計6人と計算すると,9代前で千人を超える人と関わりを持つ。
その誰もが,その時々に応じた努力をして生活してきた。
自分一人ではない,数多くの人とつながっているのだということを知ってほしい。
子供が,孫が,これを読むことがあって,何かを感じてくれたらと,敢えて書き綴った。