ツナさんの小部屋

団塊世代のおじさんの趣味や生活の一部を紹介します。同じ趣味を持つ人たちと交流できればうれしいと思います。

24回目の朝(阪神淡路大震災)

2019年01月16日 07時07分40秒 | ツナさんの独り言
 一日早いが、忘れないうちに書き留めておきたい。
 あの日のことは、未だに記憶が鮮明で、24年も経過したのが信じられないというのが、正直な感想だ。
 平成7年1月17日の朝、私は家族とともに、兵庫県伊丹市の自衛隊官舎で阪神淡路大震災に見舞われた。
 あの1階部分が潰れて、交番の警察官が死亡された阪急伊丹駅から500mほど離れた春日丘というところにある「中部方面総監官舎」の隣の平屋の官舎だった。
 トタン屋根の粗末な官舎で、軽い構造が幸いしたのであろう、潰れることもなくなんとか持ちこたえてくれた。
 もちろん、家の中のすべてのものがひっくり返り、それはひどい状態だったが、家族にけがはなく不幸中の幸いだった。
 私は、当時、定年後社会に出て行く隊員たちを教育する「業務管理教育班」に所属をしており、年末年始休暇を終えて、再度、伊丹駐屯地に集結していた30名あまりの隊員の安否が気になって、家族の無事を確かめ、単身赴任の中部方面総監の官舎に総監部の部課長たちが集まっているのを確認して、伊丹駐屯地に出勤した。
 その隊員たちは、相当古い建物に起居していたが、幸いに倒壊することもなく全員が無事でほっとした。

 もうその頃には、駐屯地の中はてんやわんやで大変な状況になっていたが、兵庫県からの出動要請はなく、待機状態が続いていたように思う。
 勿論、近傍で火災や災害が発生した場合、そうした出動要請を待たずに部隊を派遣できる規則もあり、伊丹駐屯地に所在する第3師団隷下の第36普通科連隊が阪急伊丹駅に出動し救助活動に当たったが、残念ながら警察官を助けることはできなかった。
 その後のことについては、様々なメデイアで報道されておりここでは触れないが、国にしろ地方にしろ、トップの決断の遅れや判断ミスが重大な結果を招くということだけは申し上げておきたい。

 私は、所属が人事部ということもあり、直接、神戸の災害現場に派遣されることはなかったが、業務管理教育の講師で神戸の経理専門学校の校長先生が、再開された教育の講話のため来てくださって対応したことがある。
 先生は、見るからに憔悴しきっており、なんとか温かい食事を作ることのできた隊員食堂で昼食をともにしながらいろいろと話を伺ったが、神戸のアパートに住んでいた専門学校の学生さんたちも大きな被害に見舞われ、何人かの学生さんが亡くなったという話を聞いた。
 先生は、今、大変な状況にある学生たちのことが心配で、自分だけがこうした温かい食事をするのが心苦しいといわれて、涙を流し鼻水を垂らしながらぐちゃぐちゃな状態で昼食を召し上がっていたのを覚えている。

 あれから24年、もうあんな地震は私の生存中はないだろうと思っていたが、短い間隔で次々に起こった大地震には本当に驚いてしまう。
 これからもそうしたことが起こらないとはいえず、我々はそのときに備え、準備を整えておかなければならないと強く思う。

 神戸の方向に向け、手を合わせて、犠牲になられた多くの皆さんのご冥福を心からお祈り致します。
 合掌。