Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「アンチ・クライスト」ラース・フォン・トリアー

2011-03-31 01:27:33 | cinema
アンチ・クライストANTICHRIST
2009デンマーク/ドイツ/フランス/スウェーデン/イタリア/ポーランド
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー、ストルム・アヘシェ・サルストロ ニック


どうだろう
自分の考えに自身は持てないが、
はじめてラース・フォン・トリアーを「映画作家」と感じたのだ。

それは冒頭のアリアが始まり終わるまでの
計算されつくしたシークエンスや

ドグマの名残のような手持ちカメラによる
ジャンプカットのある不安定な夫婦の会話のシーンや

ハイスピードカメラによる超スローモーションで
森の中の小川にかかる橋をわたってみせるシャルロットの
禍々しい美しさであるとか

時折挟まれる決して美しくない
むしろ病んでいる植物や事物のクロースアップや。。。

そういういろいろな映像をちゃんと撮れるんだな、
と、いうこともあるのだが、
それらは技術的な事柄であって、
その技術が何を表すことに奉仕しているのか
それをトリアーはおそらくは完全に把握していない。

直感と確信
しかしそれは整然とした見通しではなく
むしろより不確かな、
それを抱く当人をすら裏切って行くような何物かの結実、
それを指向して突き動かされるように作って行く
そういう創作にトリアーは踏み込んだのだと思う。

自らを裏切ってしまうような怪物をつくるということ。
われわれが創作し続ける理由はその瞬間の恐ろしい安寧にあるだろう。
その恐怖の安寧の作家となったのだ。



もちろん作家の側にだけその恐怖と安寧が許されるのではない。
観ることもまた創造なのだ
観ることで、観る自分自身が更新される/裏切られる
これまでのようには映画を観ることはもはやできない
そんな思いを求めてワタシたちは映画を観ていくのだろう。

そしてそのような映画にトリアーは一歩足を踏み入れ
我々も同じスクリーンに心のどこかを捕われて
二度ともとにはもどらないのである。

それが映画の体験である。

**************

なぜか
カール・th・ドライヤーの映画を思い出していた。
なぜだろう。

しかも同時にデヴィッド・リンチを
アンドレイ・タルコフスキーを
ブラザーズ・クエイを
シュヴァンクマイエルを
ヒティロヴァを
ソクーロフを

いずれにも似ていないが
いずれにも通じる瞬間がある

普段は見えないけれども
実はそこにあるもの
見てしまうと二度と見る前の自分には戻れないなにかが
この映画には写っていて、
直感的にはその見る行為がアンチ・クライストなのだ。



アレの最中に子供を失うという決定的に原罪的な出来事は
しかしその後の「彼女」の錯乱においては原因となるアレに極度に依存するという形で反映する。

その錯乱は罪の意識から来ると思わせるが、実はひょっとすると母と子の間には愛情と裏腹の憎悪のようなものがあったのではないかとほのめかされる。

つまり愛の喪失と同時に、一体となっていた憎悪の喪失もあったのだ。

「彼」の描く意識のピラミッドの頂点にいるものはついに定まらない。
そこには神が入るのかもしれないが、あるいはサタンかもしれない。
その不定性に陥った人間を我々は見る。

「彼」は「彼女」の中にあった憎悪のふたを開けたのだ。
その時点で愛と憎悪の癒着のなかで「彼女」は完全に崩壊する。
神もサタンも勝利しない。
いや、そこにはそもそも対立構造はない。
この不可分性による崩壊の舞台が「エデン」であることもぞっとする。




あるいは、これは精神分析あるいは心理学が敗北する映画でもある。
精神分析が、中世以来の宗教的位階の世俗化を引き継いだ小宇宙である父権的家族関係をベースとしたヨーロッパ的な枠組みであり、その戦略的方法を適用しようとした「彼」の目論みは完全に失敗する。

「彼」は「彼女」に対して「外部」の存在であろうとする。
が、「外部」などなかったのである。
「彼」「彼女」でしかない世界の「内部」はどこまでいっても内部だったのである。

「治療」を「完全な第三者」にゆだねなかったことが過ちである。
が、「治療」とは?「完全な第三者」とは?


********

と、ここまで考えたけど
もはや気の利いたことが書けない。

彼らの(裕福そうな)アパートで
「彼女」の恐怖の源を探るところで空想のシーンとして現れる森のシーン
ハイスピードカメラによる超スローモーションで
森の小川に架かる橋を渡る「彼女」
その姿にはぞっとした。
美しくしかし禍々しい
この世のものではない。
あの動き。その遅さ。

おそらくはその瞬間に上で述べたすべての監督の名を思い起こされた。
それだけでもワタシはかなり満足である。



火葬の炎はやはりタルコフスキーを思い出さざるを得ない。
『鏡』『ノスタルジア』『サクリファイス』における炎。

と思っていると、最後の瞬間にぎょっとすることになる。
なぜだ?
と心で叫ぶ。

どこまでも個人的な救済の儀式が
しかし世界の贖罪と救済に繋がるのだという
信念あるいは強い願いを描き続けた監督と
『アンチ・クライスト』との関係とは?

最後に宿題を投げられたが
回答が得られないままである。




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2 コメント

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 (とらねこ)
2011-05-08 11:42:54
ふーん。
私はラース・フォン・トリアーが以前は大好きだったんですけどね。
途中で退屈しちゃって眠くなっちゃいました。
あーでも正直、昔の自分に似てるって思いました。
だからきぶんがわるいです、これ

あっそうそう、まにまにさんがいいタイミングでコメントくれたので、つい気を良くして、まにまにさんにお土産買っちゃいました。えへへー
今度会ったら渡しますので、一緒にだらだらしませうー。
 (manimani)
2011-05-10 01:27:14
☆とらねこさま☆
なにっ?おみやげとなっ?
これはセッティングせねばですねー

で、ふーん
退屈するというのはわかります。
ワタシは退屈するような映画が基本好きなのでしょう。
トリアーはこれまではきりきり尖ってる作風でしたからね。

昔の自分て、そんなに自分が変化してるんですね??ワタシは自分は昔と全く変わってない気がします。。。よくも悪くも^^;

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