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アメリカの影SHADOWS
1959アメリカ
監督:ジョン・カサヴェテス
製作:モーリス・マッケンドリー、シーモア・カッセル
撮影:エリック・コールマー
音楽:チャールズ・ミンガス
出演:レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード 他
前から所有していたんだけれどようやく観たカサヴェテスのインディペンデント作品第1弾。
原題はSHADOWSだけなのでこれもかっこいいんだけど、「アメリカの」とつけた邦題もなかなか意味深いな。
というのも、この映画で描かれる若者たちの会話のノリや内容、友情や愛情を保っていくぎりぎりのところでの駆け引き、他者に対する腹の探り合いなどに染み付いているかれらの「流儀」はハナシに聴くアメリカ流であって、これはワタシのいるこの現代日本(東京?)でのそれとは、あまりにも異質であるなあと、しみじみとこの映画を観て感じたのであるから。
ああ、オレはやっぱりアメリカ人ではないんだ。どんなに影響を受け親しんでいるつもりでも、アメリカの本当のところなどこれっぽっちもわかっていないんだ、と改めて知ることとなった。そういうことで、これはまさにワタシにとっての『アメリカの影』なる映画だったのだ。
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だから、観たあとで、かっこよかったとか面白かったとかいうのがなんとなくはばかられる。わかってないくせに~と。
でもねえ、それでもかっこよく面白かったんだよね。
14の断章からなるこの映画、断章は必ずしも説話的に繋がりのあるものではなく、かつ背景説明などもいっさいないんだけれど、それでも全体としてぼんやりと人物たちの性格や生きるうえでの希望やあきらめや悟りみたいなドラマが感じられるんだよね。
語らずして伝えるということに自覚的で、しかしそれでも伝えるべきものは何かがわかっているという感じ。
即興的演出によるもの(とエンドロールでわざわざ断り書きを入れている)だが、一部のカットは編集後に必要を感じて台本的に撮られているようで、ヒロインのレリアが愛へのあこがれと虚しさの気づきを絶妙な表情で演じてしまうダンスのシーンなど、意外と重要な部分がそれにあたるようである。
(それらのシーンによって、レリアは奇跡的な存在美を得ている)
そう考えると、形式破壊や脱文脈の手段としての即興ではなくて、なにか(と、なんだか上手く言える言葉がなくて)に届くような生き生きとした表現を求めての即興手法だったのだろうと思う。
それを成し遂げるには方法とその結果の統合において、ビジョンと直感にすぐれていなければならないのは当然だが、カサヴェテスはそれを成し遂げてしまったのだ。
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映画的即興と演劇的即興、という適当な概念を作ってみる。
前者は視覚聴覚の世界で起きることをすべて被写体として、説話的方法でないものも含めてチャンスを捉えて映画を形にする、としてみる。
後者は人物の作り出すバーバル/ノンバーバルな発信をとらえて被写体とするもの、してみる。
『アメリカの影』は圧倒的に後者のような気がする。即興とは人物たちの会話や動きにおける即興を意味し、そこで作り出された二度とないコミュニケーションの姿を映像にとらえること。これを方法としただろう。
対称的なのはたとえばなんだろう?
ゴダールの同じ59年の『勝手にしやがれ』は手触りはよく似ているけれども、疾走する自動車、画面奥へと広がるシャンゼリゼ通り、など、映画はなにものにも回収されない生命をとらえている。これは映画的即興ではないのか?
ゴダールのほうには脚本があり、その上で即興を行う結果、あくまで映画的であるのに対し、カサヴェテスは脚本のないところからスタートし、しかしあくまで演劇的な即興性を手法とした、というふうに感じる。
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とはいえ、『アメリカの影』にだって圧倒的に映画を感じるシーンもあるわけで、そんなにくっきり物事は概念化されない。
冒頭の人が密集し大騒ぎするなかで、移動するひとりの人物を全く引きもしないで窮屈に撮り続けるカメラ。
あるいはニューヨークの危険な夜を歩いていくレリアが見上げるネオンサイン群に彩られた街。
はっと引き込まれるそうした瞬間をなんどか体験できることもこの映画の魅力である。
59年というのは映画にとっては、世界的にいろいろと面白い年だったのだ。
音楽はチャールズ・ミンガスだが、意外と地味だ。
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