1 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 あの万葉仮名を底辺の庶民までが使いこなしたことに感動します (山田 眞也) 2008-08-12 17:05:35 書店や図書館に行きさえすれば、求める本が見つかるのが当然だと思い込んでいるわれわれは、つい、昔からそうだったような錯覚に陥りやすい。 現在では主要な古典なら、学力さえあれば、いつでもwebsite上で読むことが出来る。そういう便利な時代に生まれると、古典がわれわれの時代にまで伝えられるために、どれほどの障害を乗り越えなければならなかったかを忘れてしまう。 紫式部は、源氏物語を書くために必要な紙を、道長から提供されていたという説がある。そうだったかも知れない。 しかし、この作品が、何十人か何百人か、わからないが、当時の読者の一人一人に享受されるためには、一つしかない原本だけで足りるわけがないから、そこでも道長の力が物を言ったかも知れないが、次々に写本が書き写されていったに違いない。そういうことは、ぜひ読みたいという読者の広い需要がなければ、あり得なかったはずだ。 古典とは、すべてそういうきびしいテストに耐えられたからこそ生き残れた。そういう当然なことに、あらためて感動を覚えた。 万葉集と言えば、私は何よりも、「防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず」(巻20・4425)のような、支配される側の悲痛な訴えを、われわれが一目見ただけで敬遠してしまう、あの万葉仮名で綴り、世に伝えようとした無名の作者がいたということに感動させられる。 おそらくは社会の底辺近くにいた無名の庶民にまで、あの万葉仮名を用いて、怒り、悲しみを表現する能力が広がっていたことに、日本人の底力がある。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
現在では主要な古典なら、学力さえあれば、いつでもwebsite上で読むことが出来る。そういう便利な時代に生まれると、古典がわれわれの時代にまで伝えられるために、どれほどの障害を乗り越えなければならなかったかを忘れてしまう。
紫式部は、源氏物語を書くために必要な紙を、道長から提供されていたという説がある。そうだったかも知れない。
しかし、この作品が、何十人か何百人か、わからないが、当時の読者の一人一人に享受されるためには、一つしかない原本だけで足りるわけがないから、そこでも道長の力が物を言ったかも知れないが、次々に写本が書き写されていったに違いない。そういうことは、ぜひ読みたいという読者の広い需要がなければ、あり得なかったはずだ。
古典とは、すべてそういうきびしいテストに耐えられたからこそ生き残れた。そういう当然なことに、あらためて感動を覚えた。
万葉集と言えば、私は何よりも、
「防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず」
(巻20・4425)のような、支配される側の悲痛な訴えを、われわれが一目見ただけで敬遠してしまう、あの万葉仮名で綴り、世に伝えようとした無名の作者がいたということに感動させられる。
おそらくは社会の底辺近くにいた無名の庶民にまで、あの万葉仮名を用いて、怒り、悲しみを表現する能力が広がっていたことに、日本人の底力がある。