義経の合戦(下)
『―――迅速こそ、勝利である。というのが、義経の原理あり、かれにとっては信仰のようなものでさえあった。その原理は、奥州の山野で馬を駆けさせているとき、自然に自得した。これが、義経の初陣であった。「九郎は、戦いに馴れていまい」と、当然なことながら鎌倉の頼朝はおもい、このため老巧の梶原景時をえらび、「その指示にしたがえ」と言いふくめたのだが、しかし義経はいっさい軍監の差し出口に耳をかたむけず、みずから鞭を鳴らして全軍を下知した。
しかもこの若者は大将の身分でありながら中軍に位置せず、つねに先頭を駆け、「殿輩、われを見ならえ」と、風をまくようにすすんだ。―――いくさの法も知らぬ。と、景時などは大声でわるくちを言い、それに同感する将も多い。が、馬の巧みさはどうであろう。・・・
義経の馭法(ぎょほう)をみるに、たづなのさばきようがみごとなばかりでなく、馬を疲れさせぬよう、まるで雲に駕(が)するようにふわりとした御しかたで御してゆく。このたくみさは、この若者が馬の産地である奥州で成人したせいであろう。・・・
やがて樹間に平等院のいらかがみえはじめ、宇治に出たことを知った。宇治川がながれている。この急流は、京都盆地をまもる自然の外堀といえるであろう。』
対岸には常陸志田の住人志田三郎義広が陣取り、矢倉をかまえ、橋板を外し、河中には馬ふせぎのための乱杭、逆茂木をうちこみ、大網小網をはりめぐらせてある。
志田先生(せんじょう)義広は義経の亡父義朝の弟であり、頼朝・義経兄弟の叔父にあたる。かつて頼朝が関東の旗あげに成功したとき、相応の待遇を受けることを期待して陣営に祝賀に出掛けた。しかし、頼朝からまるで家来同然の扱いを受け対立し、追討をうける身となり、行家と同様、義仲に身を寄せた。骨肉ずきの義仲は大いに歓待し、叔父として遇した。その志田義広が、いま義仲に殉ずべくこの宇治川の守備を引き受け、百五十騎程度を擁して白旗をなびかせている。
『・・・水流のはげしさは馬筏をもってゆるめ、集団のいきおいをもって対岸に駆けあがった。水からあがったいきおいのまま志田勢を押しくずし、ただの一撃で粉砕した。・・・やがて「駐(とど)まり候え」と、駆け逸る武者どもをひきとめ、全軍を停止させた。―――なんのことだ。と坂東武者にとっては不可解以上に不愉快であった。坂東の流儀では―――坂東だけでなくこの時代、いくさはものの勢いだけで押し進む。戦法などなく、すべては個人の武勇のみであり、戦いはその算術的総和に頼るにすぎない。が、この若い指揮官は、戦法を用いた。・・・軍を四隊にわけた。四面から京都市街に乱入しようというのである。・・・梶原はじめおもだつ小名どもは、部隊々々の兵力が希薄になるという理由で反対したが、・・・評定による衆智などを信ぜず、わが直感のみを信じた。・・・が関東武士団の習慣からすれば、これは異様であった。
もともと関東武士団は、血族団の連合であり、それぞれの族長が、一族郎党をひきいて馳せ参じ、それが寄せあつまることによって一軍の体裁を成している。・・・族長どもへの行きとどいた同意を得ることが必要であった。・・・義経はそれをしなかった。・・・』
本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。