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司馬遼太郎「義経」を読む 第4回

2022年05月10日 | ブログ
遮那王

 牛若が鞍馬に入り、遮那王(しゃなおう)と呼ばれ、禅林坊の稚児として暮らしている頃、京では源氏の残党と言うべき、義朝の重臣鎌田次郎正晴の子「鎌田正近」が僧に姿を変えて、多くの信者を抱え「四条の聖」とあがめられるほどになっていた。

 『源氏は亡び、正近は世に敗れた。平家は諸国の富を集めて史上空前の栄華を誇っている。義朝の下で我ありと知られた鎌田正近は、あやしげな聖になって京の磧(砂地)に小屋を結び、庶人の懐を狙うしか生きる道がない。・・・源氏に所属していた坂東の武者たちもいまはことごとく平家の家人となり、その支配を受けることによってわが私領や荘園の権益を保護され保障されているのである。』

 正近は、義朝が通った「常盤」と面識があり、ひそかに常盤を訪ねて牛若の消息を聞いた。「義朝の忘れ形見の牛若が、洛北の鞍馬山にいる」絶大な勢力を誇る平家に、源氏の再興は難しいと知りながら、彼は一縷の望みを捨ててはいなかった。

 当時、鞍馬山は叡山などと同様、山そのものが宗教都市の観をなしており、麓には寺の傭兵として寺の権益を守るための僧兵の集団がある。正近は、その僧兵のなかに多数の源氏武者がまぎれこんでいることを知っている。

 正近は遮那王をさがすため、源氏武者を頼ってこの無頼の傭兵団に加入したのだ。しかし、僧兵はいわば地下人で正式の僧の世界とは往き来が少ない。しかも坊や子院の数は多く、稚児の数も多い。しかも稚児たちは山にあり、僧兵どもは麓にいる。それでも正近は、源氏武者の残党の手を借りて遮那王が禅林坊覚日にあずけられ起居していることを掴む。しかし、直接会うことなどできない。

 『遮那王のいる禅林坊は山腹にあった。山麓の仁王門をくぐって禅林坊までのあいだは、一条の坂がつづいている。坂は葛籠(つづら)の組目のようにまがり、山頂までたれが数えたか九十九の曲がり角があるという。・・・その坂を、正近は遮那王にいつかは逢えると思い、毎朝、毎夕のぼった。・・・

 師の坊の伽稚児(とぎちご)にされて以来、まるで一変したこの境遇に遮那王は動物的に反撥した。・・・ついに僧を突きのけて夜昼かまわず無断で外へ飛び出すことが多くなった。それを追っても飛鳥のようで追えるものではない。山を平地のように走り、木に登り、登るだけでなく木から木へ飛び移り、その離れ技が人間のようとも思えない。・・・

 ある宵、暮れもせぬのに天に利鎌(とがま)のような月がかかった。遮那王はその月のふしぎに憧れ、僧坊を走り出てそこここの樹間に跳梁していたが、ふと坂の下から大頭の法師が腰に太刀を佩(は)き、柏の生枝を杖についてのぼってくるのをみた。

 正近は尋常の法師ではない。若年のころから戦技を唯一の生きる道とし、兵馬のなかで五官を利(と)いできた男である。・・・足を止めた。・・・太刀をひねった。・・・(妙な法師だ)と樹上の遮那王がおもったのは、太刀をおさえこじりをあげ、体を自然に構えたこの法師の姿が、名人の舞をみるような、いかにも運動の秩序にかなったぬきさしならぬ美しさがあったからである。』牛若と正近の出会いであった。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。


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