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閑話つれづれ其の4

2008年08月08日 | Weblog
柔道の話

 北京オリンピックが開幕しました。オリンピックで日本が最も多くの金メダルを期待される柔道のお話です。

 講道館柔道は、明治15年(1882年)東京・下谷の永昌寺でうぶ声をあげたといわれる。創始者である嘉納治五郎先生は当時22歳。前年東京帝国大学文学部を卒業されて神田錦町にあった学習院の教師をされていた。門人は1名、嘉納家の書生山田常次郎(後の富田常次郎師範)当時18歳である。富田常次郎師範(講道館四天王の一人)はあの有名な小説「姿三四郎」の作者である故富田常雄氏(6段)の父君である。その年永昌寺の講道館に、姿三四郎のモデルとなる西郷四郎15歳が入門し、2人目の門人となる。その後西郷四郎(追贈6段)は、幾多の柔術各派との試合に勝利し、講道館柔道の名を天下に知らしめる。

そして現在、国際柔道連盟には195の国と地域が参加するまでに発展した。この間幾多の先人が海を渡り、危険な他流試合に臨み、また私財を投じてその普及に尽力したかは計り知れない。オリンピックで、「はじめ」、「一本!」、「それまで」と審判がすべて日本語で発する競技が他にあろうか。

 また、嘉納治五郎先生は、1909年東洋で初のIOC(国際オリンピック委員会)委員になっておられ、日本のオリンピックへの参加の道を開いた立役者でもある。日本が初めてオリンピックに参加した1912年(明治45年)の第5回ストックホルム大会では、日本選手団*4)の団長を務めておられる。さらに日中戦争の悪化で幻に終わった1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に重要な役割を果されている。危険な技の多かった柔術を武道の精神を残しながら体育としての柔道に変えた嘉納先生の理念は、スポーツを通じた青少年の健全育成、モラルの向上というオリンピックの目標とも合致していたのだ。

 嘉納先生は1938年(昭和13年)カイロIOC総会からの帰国途上に船上で急死(享年78歳)されたため、東京オリンピックが返上されたことを知ることはなかった。しかし、その夢は26年後に実現する。柔道が正式種目となるという夢のまた夢を加えて。



  *4)マラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦、監督の大森兵蔵と団長の嘉納治五郎(当時東京師範校長)。日本のオリンピックはこの4名の選手団で始まった。
  本稿は、工藤雷介著「秘録日本柔道」および原康史著「実録柔道三国志」いずれも東京スポーツ新聞社/出版局版
  また、1999年7月讀賣新聞朝刊「スポーツ100年」-嘉納治五郎とその時代-を参考にさせていただきました。
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