泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、「国のまほろば・大和・大宰府」の風景を紹介したいと思います!

ドラマチックな「飛鳥の夕焼け」

2018年08月13日 14時44分35秒 | 散歩

奈良県明日香村は、1400年前の飛鳥の時代に都が置かれた古都として数多くの史跡が点在しています。

歴史的景観と共に、農を礎とする景観と相まって歴史的風土が奏でる情景で人びとを魅了しています。ここは「日本の国のはじまりの地」であり、深い歴史と豊かな自然が息づく飛鳥は、「日本の原風景」であり「日本人の心のふるさと」とも呼ばれています。

今回は、ドラマチックな「飛鳥の夕焼け」を紹介したいと思います。

飛鳥の魅力の一つに、「夕焼け」の景色があります。

「夕焼け」がとても綺麗な時期は、春の田植えが始まる5月から7月にかけてです。特に、夏の「夕焼け」の景色は見事です。

細川谷の棚田や古宮土壇の夕焼けの風景は飛鳥のスポットですが、飛鳥寺がある真神原や飛鳥宮跡からみた甘樫丘の夕焼けが、特に素敵です。

「飛鳥の夕焼け」は、眺めているだけで、その場に立っているだけで、自然と涙が溢れてしまうような景色ですよ!

                         

 

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日本最古の尼寺である 「豊浦寺跡(向原寺)」

2018年08月04日 15時24分56秒 | 歴史

「向原寺(こうげんじ)」は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある浄土真宗本願寺派の寺院です。境内地は、百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀った「向原(むくはら)の家」の故地とされ、7世紀には推古天皇の「豊浦宮」や日本最古の尼寺である「豊浦寺」が営まれました。飛鳥時代には、五大寺の一つにも数えられたお寺でした。集落 のなかにひっそりと建つこの寺には、驚くような歴史が詰まっています。

今回は、日本最古の尼寺である「豊浦寺」について紹介したいと思います。

「日本書紀」では、552年に百済の聖明王から金銅の釈迦仏などが献上された際に、物部氏や中臣氏らの反対を抑え、蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り、それを寺として安置したことが始まりとされています。しかし、その後に疫病が流行しました。これを国神の祟りとして排仏派たちは、仏像を難波の堀江に流し寺を焼き払いました。

現在の「向原寺」周辺には「豊浦寺」の遺構が残っています。1957年以降発掘調査が実施されて、塔・金堂・講堂の跡が検出されています。1985年の発掘調査では、現「向原寺」境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層には石敷と掘立柱建物の跡が確認されました。「豊浦宮」の跡に「豊浦寺」が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられました。出土瓦の編年から、豊浦寺講堂は7世紀第2四半期の建立と推定され、その下層の掘立柱建物はそれ以前の建立となります。「向原寺」のすぐ南の集会所のあたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定されています。金堂跡のさらに南の小字「コンドウ」では、1957年の調査で塔跡とみられる14メートル四方の基壇と礎石が検出されています。ただし、塔跡の基壇は金堂跡・講堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体がどのような構成であったかは未解明のようです。

ところで、日本最古の尼寺である「豊浦寺跡(向原寺)」には、興味深い話があります。

その1は、「豊浦寺跡(向原寺)」と「座光寺」・「信州善光寺」の話です。

「善光寺縁起」によると、信濃の住人である本多善光が都へ上都の際に「難波の堀江」の前を通りかかると、物部氏に投げ込まれて池に沈んでいた仏像が金色の姿を現し、「善光こそが聖明王の生まれ変わりである」と告げられます。善光はこの仏像を背負って信濃に帰り、自宅の西の間の臼の上に置いて手厚く祀ったといい、それが「善光寺」の始まりとされています。「信州善光寺」を開山した本田善光が最初にご本尊を安置したのが、長野県飯田市にある「座光寺(元善光寺)」です。 

「元善光寺縁起」によれば、信州麻績の里(現在の長野県飯田市座光寺)の住人、本田善光が難波の堀から一光三尊の如来像を発見し「すすぎの滝」で清め信濃に持ち帰りました。自宅西側の部屋の床の間に臼を置き、その上に安置したのが起源とされています。朝夕、如来様を礼拝供養し、そのご利益は広く世間にも知られるようになりました。そこで、小さなお堂を建ててお移ししたが、朝になると決まって元の臼に戻ってしまわれます。 如来様は「たとえ立派なお堂に安置されていても私の名を唱える者がいないところには住めない。私はいつも西にいる。」。本田善光はそれを聞いて41年もの間、臼の上に安置して供養したと伝えられています。
その後、如来様のお告げによって長野に遷座し建てられたお寺が、善光の名をとって「善光寺」なのです。一方で、飯田市にある「座光寺」には勅命によって木彫りの三尊像が残され、「元善光寺」と呼ばれるようになったそうです。

この「向原寺」のすぐ南には、「すすぎの滝」や「難波池」という小さな池があります。ここに物部氏たちが仏像を捨てたとされている「難波の堀江」なのでしょうか・・・ 

「豊浦寺跡(向原寺)」は、「日本最古の尼寺」であり、「百済仏教伝来の寺」であり、「信州善光寺」・「座光寺」の真の「元善光寺」かもしれませんね。

その2は、「向原寺」のお堂の中にある高さ約40cmの「観音菩薩像」です。

昭和の時代まで人々に守られ祀られていた金銅仏ですが、昭和49年に盗難事件が起きました。 何十年も戻ってくることはなかったのですが、2010年にオークションに出品されているのを金銅仏を研究していた大阪の大学院生が偶然見つけ寺に連絡し、「向原寺」の寺宝は36年ぶりにお帰りになられました。
「観音菩薩像」の頭部は、飛鳥時代後期に日本国内で造られたもので、首から下や光背、台座は江戸時代の後補だそうです。この金銅仏が発見されたのは、江戸時代の1772年のことだそうです。「向原寺」のすぐ南にある難波池からこの仏像の頭部だけが発見され、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造して接合して厨子に入れられました。これが、頭部は飛鳥時代首から下が江戸時代という一風変わった金銅仏です。そのお顔は、杏仁形といわれる杏の種のような目、角形ながらもふっくらとした頬、下鼻の膨らみがない鼻の形、口の両端が少し上がったアルカイックスマイルと飛鳥時代の特徴がよく出ています。

どこか飛鳥大仏と共通するようなお顔でした。以前から拝顔したかった「観音菩薩像」でしたので、とても感激しました。

また境内には、模様が描かれている「謎の石」や「講堂の礎石」などを見ることが出来ます。

近くには、蘇我氏邸宅の苑池跡等ではないかとする「古宮土壇」や、謎の「立石」の前に釜を据え煮え湯の中に手を突っ込んで真偽を判断するという「盟神探湯神事(くがたちしんじ)」で有名な、「甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)」を見ることが出来ます。

「豊浦寺跡(向原寺)」は、飛鳥周遊の中心地ではありませんが、驚くような歴史が詰まっていますので、是非とも立ち寄られることをお奨めします!

                                      

 

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飛鳥の 「夏風景・2018」

2018年07月30日 15時31分30秒 | 散歩

飛鳥地域において、7月28日の夜に台風がきて風雨が激しかったのですが、大きな災害もなかったようです。皆さんの地域は、如何でしたでしょうか・・・。翌日から、普段の暑さが続いています。

今回は、飛鳥の「夏風景・2018」を紹介したいと思います。

夏は、春に比べて飛鳥を訪れる人も少なく、のんびりと歩くことが出来ます。夏のお薦めは、「緑一面の棚田と夕焼け」の風景です。

棚田の風景は、奥飛鳥と呼ばれている稲渕地区の棚田・細川谷の棚田や真神が原の景色がとても気にいっています。

稲渕地区の棚田には、はやくも「ジャンボ案山子」が飾られていました。高さ6m・重さ300キロの「ジャンボ案山子」です。今年は、「西郷どん」でした。とても良くできていました。

もう一つのお薦めが「夕焼け」の風景です。毎日、違った「夕焼け」の景色を見せてくれます。

飛鳥の夏は、「緑一面の棚田と夕焼け」の風景がお薦めです!

                                       

 

 

 

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山城最大の古墳群 「久津川古墳群」歴史散策(2)

2018年07月27日 16時15分36秒 | 歴史

先日、歴史大好きなサークルの皆さん約150人と一緒に学芸員さんの案内のもと、京都府城陽市にある古墳群「久津川古墳群」を歴史散策してきました。

 前回に引き続き、山城最大の古墳群「久津川古墳群」歴史散策(2)を紹介したいと思います。

 (行程)

 近鉄京都線寺田駅(集合)ー城陽市歴史民俗資料館ー水度神社ー尼塚古墳ー久世廃寺跡ー正道官衙遺跡ー芝ヶ原古墳ー上大谷古墳群ー丸塚古墳ー久津川車塚古墳ー芭蕉塚古墳ー青塚古墳ー久津川駅(解散)

今回は、久津川車塚古墳ー芭蕉塚古墳ー青塚古墳ー久津川駅(解散)の歴史散策の様子を紹介したいと思います。

 「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は、京都府内最大の古墳群である「久津川古墳群」を代表する古墳4基です。

その中心である「久津川車塚古墳」は、 5世紀前半に築造された山城地域最大の前方後円墳です。三段に築かれた墳丘には葺石と埴輪列が施され、周囲には二重に周濠がめぐります。外濠を含めた全長は 272 mで、墳丘の長は180mあります。 埋葬施設は長持形石棺を直接埋めたもので 、石棺の内外からは鏡・玉類・ 武器・ 武器・ 武器・ 武具 など多くの副葬品が出土しています。銅鏡7面は、いずれも国の重要文化財です。また、長持形石棺も国の重要文化財に指定されており、実物は現在京都大学総合博物館に保存・展示されています。

長持形石棺のレプリカは、城陽市歴史民俗資料館で展示されています。とても見事に復元されており、見応えがありました。

墳丘の入り口には、被葬者と思われるキャラクターの人物の絵がここにもありました。墳丘に登り、埋葬施設が発見された場所に案内していただきました。

驚いたことに、古墳の一部は、線路によって切断されていました。

「芭蕉塚古墳」は、5世紀中頃に築造された前方後円墳で、 二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪 列が施され、周囲 には周濠がめぐります。周濠を含めた全長 は161m、墳丘の長は114mあります。 埋葬施設 は、後円部で粘土槨がみつかっています。「久津川車塚古墳」に続いて南山城地域 を支配 した有力者の墓と考えられます。

久津川駅から数分の所にあり、奈良線の線路沿いの道路脇に柵で囲まれた一角です。横は、スーパーの駐車場となっており説明板によってやっと古墳と分かりました。立入禁止のようで、自由に出入りする事は出来ませんでした。もし説明板が無ければ、雑木林としか見えないのが残念な状態でした。

「青塚古墳」は、34.6m×34m・高さ5.3mの二段築成の方墳です。西槨から鏡・短甲・冑・刀子・鉄刀・鉄鏃などが出土し、東槨から鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鉄鏃などが出土しています。槨外から鏡・玉類などが出土しています。墳丘はほとんど削られていますが、濠と古墳の一部が残っています。築造年代は、「芭蕉塚古墳」と同じ時期に築造されたと推定されています。

驚いたことに、なんとスーパーの建物の南西に隣接して竹林がある所が「青塚古墳」でした。金網に囲まれていて、中には入れませんでした。ここも、雑木林としか見えないのが残念な状態でした。

今回の山城最大の古墳群「久津川古墳群」歴史散策は学芸員さんの案内のもとに、約10キロのアップダウンの多い歴史散策でした。学芸員さんの現地での詳しい説明があり、とても興味深い歴史散策となりました! 

                      

 

 

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明日香村で行われた 「地蔵盆」

2018年07月24日 15時21分56秒 | 歴史

奈良県明日香村では、7月23日に各地区において「地蔵盆」が行われました。「地蔵盆」とは、地域を見守ってくれている「お地蔵様」を祀って、日ごろの感謝を伝える行事です。

今回は、明日香村で行われた「地蔵盆」の様子を紹介したいと思います。
「地蔵盆」は、「お地蔵様」の多い京都が発祥と言われ、近畿地方を中心に古くから伝わってきたようです。
「地蔵盆」は、子どもが中心となって8月23日・24日の地蔵菩薩の縁日の2日間で行われます。地域によっては1日のところや、旧暦をそのまま新暦に当てはめた7月23日、24日に行うところもあるようです。

明日香村では、7月23日の18時から各地区で行われました。地区によっては多少の違いはありますが、大字を中心にお寺や地域で祀(まつ)る「地蔵尊」の前でお祀りをします。会場の周りには、灯籠や提灯などが飾られます。

「地蔵盆」で行われる代表的なものに、「数珠まわし」というものがあります。子どもたちが2~3mの大きな数珠を囲って輪になって座り、読経に合わせて回す儀式です。

また「お接待」といい、「お地蔵様」にお供えされたおさがりを子どもたちに配られます。「お地蔵様」の前に集まった席で子ども達は、供養の菓子や料理などを振る舞われ楽しそうでした。

「地蔵盆」が、全国規模の行事じゃなく近畿地方を中心に古くから伝わってきたことを、明日香村に住んで初めて知りました。

決して派手でにぎやかなお祭りではないのですが、村内の一角で地域住民だけで行なわれる「地蔵盆」、風情があっていいものですね~!

                        

 

 

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