以蔵の徒然日記

お気楽以蔵の気ままな生活

6月の終わりは多賀城跡のあやめ

2012-07-08 10:21:44 | 宮城

6月30日(土)

この時期にやっているという

多賀城跡「あやめまつり」に行くことにした

まつりは去年、今年と中止になっていたが

あやめはまぶしいくらいに満開になっていた

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どうですかぁ このあやめの数

何と 数え切れないほどのあやめに

たくさんの名前がついているんだもんねぇ

そしてあじさいも綺麗じゃないですかぁ

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「あやめ園」の隣には多賀城跡があるんよ~ん

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       外郭南門跡                        外郭南東隅

何んもないけど なんかお城があったような気がするぅ~

階段を登ると ずっと先に 政庁跡へ続く道があるじゃないですかぁ

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そしてここにはこんな古いものが

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         多賀城碑                      多賀城碑文面

この多賀城碑は奈良時代の石碑で、724年の多賀城創建と

762年の改修を伝えたもの  日本三大古碑の一つ

国の重要文化財に指定されている

その昔、大和朝廷が蝦夷(えみし)を制圧するために軍事拠点として

多賀城を建てたんだとぉ

余談だが 蝦夷(えみし)とは畿内の大和朝廷が東方・北方の

異族視していた人々に対する呼称

蝦夷を今は「えぞ」と読むが・・・

そして政庁南門へ

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どうですかぁ 政庁跡へ続く道と政庁南門階段

何かがここにあったような気がするぅ~

僕は日陰の全くないこの道を歩いて

喉がからっからになってしまった

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そして頂上に登ると

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何もないじゃないですかぁ しかも奥で何かやってるしぃ

あっ 何かあった・・・

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        政庁南門跡                    政庁推定復原模型

まあ こんな感じだったんでしょう

余談だが 政庁とは政務を取り扱う役所のこと

当時の日本では平城京を中心に 南に大宰府

北に多賀城を置くこととなった

多賀城はここにあった国府・鎮守府や政庁・寺院を守るために

建てられたもの

日本では政庁という言葉が使われるのは限られていて

その一つが大宰府政庁でもある

と言うことは、大和朝廷は国内のほとんどを統一していたんだねぇ

あ~ちっちぃ あ~ちぃ になったのでそろそろ引き上げることにした

帰りは「野田の玉川」を通って帰った

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川沿いを走ると いくつかの橋があったが

広い通りに出たところに こんな意味深の橋が・・・

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      おもわくの橋                       橋から見た風景

この橋にはこんな看板があったが

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伝説によると 紅葉山という丘のふもとに清水が湧きでており

そのほとりに「おもわく」と言う美少女がいた

安倍貞任(あべのさだとう)は彼女に思いを寄せ、彼女の家に通うため

ここに橋をかけさせたので、その橋を「安倍の待ち橋」または

「おもわくの橋」と呼ぶようになったそうなぁ

平安の中期に貞任が多賀城に残した恋伝説であった

土佐には「はりまや橋」があるがよ

多賀城にはいろいろと散歩ッポをするところがたくさんある

また 来ようっと!

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何か?

Photo_5 おもわく

 

 

 

 

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