2月14日(火)
バレンタインデーのこの日は岡田以蔵の誕生日です
この人が誕生していなければ僕の名前も以蔵ではなかったし
人噛み以蔵? は存在しなかったであろう
今回は久しぶりにこんな感じで・・・
岡田以蔵は1838年2月14日 (旧暦 天保9年1月20日)に
土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれた
その地には以蔵を含め、七軒の家が並んでいたので
七軒町と呼ばれていた
それにちなんで土佐勤王党の密書や文書の中には「七以」と出てくるが
どうやらこれは以蔵を示す暗号だったようだ
以蔵は1856年安政3年9月に武市半平太と江戸に出て
江戸の三大道場である「士学館」で剣術を学んでいる
士学館(中央区銀座1-25-27 桃井道場跡)
丁度同じ時に龍馬さんが桶町千葉道場で二度目の剣術修行のため
江戸に来て、武市と築地の土佐藩邸中屋敷で一緒になっている
桶町千葉定吉道場跡 土佐藩邸中屋敷跡
(中央区八重洲2-8) (中央区役所)
この時に以蔵と龍馬さんは交流をもったのでは・・・
でも今では、じぇんじぇん情緒がないじゃないですかぁ
1861年文久元年に結成された、土佐勤王党にその後加盟するが
血盟書の写しからは、以蔵の名前が削られている
翌1862年文久2年の土佐勤王党と相反した土佐藩参政 吉田東洋の
暗殺以降は、その犯人を捜していた井上佐市郎をはじめとし、天誅と称した
暗殺を繰り返し、京都では「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられていた
吉田 東洋
1863年文久3年には龍馬さんから頼まれ、幕府から
神戸海軍操練所の運営を任されようとしていた勝先生の
護衛をしている
神戸海軍操練所跡(神戸市中央区新港町周辺)
勝 海舟(勝 麟太郎)
以蔵にとっては一番輝いていた時ではなかったか・・・
その腕を見込んで勝先生は以蔵をジョン万次郎の護衛に
つけたというが定かでない
ジョン万次郎(中浜 万次郎)
勝先生は武市の以蔵に対する扱いを思い、龍馬さんと同じく武市から
離れるように促すが、頑固な以蔵を引き止めることはできなかった
坂本 龍馬
1863年文久3年 会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が
長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放したクーデター事件
「八月十八日の政変」以来、土佐勤王党の勢いは衰え
土佐藩では同士がことごとく捕らえられ、武市を除いて厳しく
拷問を受けた
武市はこのままでは以蔵が全てを自白するだろうと思い
以蔵の毒殺を図ったが未遂に終わった
武市 半平太(武市 瑞山)
武市の裏切りを知った以蔵はこれまで拷問に耐えてきたが
ついに屈し、自分の罪及び天誅に関与した同士の名前を白状し
1865年6月4日 (旧暦 慶応元年5月11日)打ち首となった
頑固で一途だった性格が災いしてか
信じていた人に裏切られた結果であった
その時の辞世の句が
「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ(は) 澄み渡るべき(空)」
自分のやってきたことを理解し、安泰の世を願ったのだろうか
土佐を感じて・・・
「よさこい節」
高知の城下に来てみや
じんばも ばんばも よう踊る
鳴子両手に よう踊る~ よう踊る
1.土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た
よさこい よさこい
2.御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜
よさこい よさこい
3.言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎより
よさこい よさこい
そして僕のお酒 「夜さ恋」