以蔵の徒然日記

お気楽以蔵の気ままな生活

岡田以蔵とは・・・

2012-02-17 15:39:36 | 歴史

2月14日(火)

バレンタインデーのこの日は岡田以蔵の誕生日です

この人が誕生していなければ僕の名前も以蔵ではなかったし

人噛み以蔵? は存在しなかったであろう

今回は久しぶりにこんな感じで・・・

岡田以蔵は1838年2月14日 (旧暦 天保9年1月20日)に

土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれた

その地には以蔵を含め、七軒の家が並んでいたので

七軒町と呼ばれていた

それにちなんで土佐勤王党の密書や文書の中には「七以」と出てくるが

どうやらこれは以蔵を示す暗号だったようだ

以蔵は1856年安政3年9月に武市半平太と江戸に出て

江戸の三大道場である「士学館」で剣術を学んでいる

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  士学館(中央区銀座1-25-27 桃井道場跡)

 

丁度同じ時に龍馬さんが桶町千葉道場で二度目の剣術修行のため

江戸に来て、武市と築地の土佐藩邸中屋敷で一緒になっている

 

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     桶町千葉定吉道場跡        土佐藩邸中屋敷跡

   (中央区八重洲2-8)          (中央区役所)

 

この時に以蔵と龍馬さんは交流をもったのでは・・・

でも今では、じぇんじぇん情緒がないじゃないですかぁ

 

1861年文久元年に結成された、土佐勤王党にその後加盟するが

血盟書の写しからは、以蔵の名前が削られている

翌1862年文久2年の土佐勤王党と相反した土佐藩参政 吉田東洋の

暗殺以降は、その犯人を捜していた井上佐市郎をはじめとし、天誅と称した

暗殺を繰り返し、京都では「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられていた

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          吉田 東洋

 

1863年文久3年には龍馬さんから頼まれ、幕府から

神戸海軍操練所の運営を任されようとしていた勝先生の

護衛をしている

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  神戸海軍操練所跡(神戸市中央区新港町周辺)

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     勝 海舟(勝 麟太郎)

 

以蔵にとっては一番輝いていた時ではなかったか・・・

その腕を見込んで勝先生は以蔵をジョン万次郎の護衛に

つけたというが定かでない

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     ジョン万次郎(中浜 万次郎)

 

勝先生は武市の以蔵に対する扱いを思い、龍馬さんと同じく武市から

離れるように促すが、頑固な以蔵を引き止めることはできなかった

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          坂本 龍馬

 

1863年文久3年 会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が

長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放したクーデター事件

「八月十八日の政変」以来、土佐勤王党の勢いは衰え

土佐藩では同士がことごとく捕らえられ、武市を除いて厳しく

拷問を受けた

武市はこのままでは以蔵が全てを自白するだろうと思い

以蔵の毒殺を図ったが未遂に終わった

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   武市 半平太(武市 瑞山)

 

武市の裏切りを知った以蔵はこれまで拷問に耐えてきたが

ついに屈し、自分の罪及び天誅に関与した同士の名前を白状し

1865年6月4日 (旧暦 慶応元年5月11日)打ち首となった

頑固で一途だった性格が災いしてか

信じていた人に裏切られた結果であった

その時の辞世の句が

 「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ(は) 澄み渡るべき(空)」

自分のやってきたことを理解し、安泰の世を願ったのだろうか

 

 

土佐を感じて・・・

「よさこい節」

高知の城下に来てみや

じんばも ばんばも よう踊る

鳴子両手に よう踊る~ よう踊る

1.土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た

                             よさこい よさこい

2.御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜

                             よさこい よさこい

3.言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎより

                             よさこい よさこい

 

そして僕のお酒 「夜さ恋」

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Jpeg 以蔵

 

 

 

 

 

 

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今年初のチョッキンと江の島

2012-02-17 14:15:32 | お出かけ

2月11日(土)

今日はお爪チョッキンだよ

僕はいつになく興奮してしまった

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アンヨのおけけもすっきりしてもらって

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そして今年初の江ノ島シマへ GO

まずはいつもの駐車場前にある片瀬漁港整備記念碑で一枚

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相変わらず混んでまんなぁ

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懐かしくて僕はいろんな所をクンクンしてしまった

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さぁ お参りお参りうれしいなぁ

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こんなに混んでいるとは・・・

しかも茅の輪を一回くぐるだけになってるじゃないですかぁ

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でも洗っておきますかぁ 銭でも

後ろの龍神さまに見られてる・・・見んとこ~

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そして何故か今日はお猿さんが・・・

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江ノ島を後にして海岸の方へ行くと

結構 人がいるもんだねぇ

僕は気持ちの良い夕日にたそがれてしまった

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やっぱり江ノ島はいいねぇ~

僕は久しぶりの長旅と散歩ッポで

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これですから・・・

Jpeg 以蔵

 

 

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世界遺産! 平泉の中尊寺

2012-02-17 13:54:57 | 岩手

2月5日(日)

今日は平泉の中尊寺に行ってきたよ

冬の中尊寺も良いかもしれない・・・

先ずはお約束の平泉駅にGO!

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特にこれといって・・・

 は中尊寺第一駐車場に停めることができた

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中尊寺まで行くには月見坂というそこそこ急な坂を

登らんとあかんねん!

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しまった!! 前足が雪にはまってもうた

やっとの思いで入り口まで来た

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ここで中尊寺について少し話そう  少しでっせぇ

あの645年「大化の改新」に登場する中臣鎌足

(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)の子孫で、

奥州藤原氏の始まりでもある藤原清衡が11世紀後半に続いた

戦乱で亡くなった者の霊を敵・味方分け隔てなく慰め、

この地に仏の平等思想の教えに基づく理想社会を求めた

戦乱の世を嘆いた藤原清衡が1105年(長治2年)

造立に着手したんだと・・・だからいろんなお堂があるんだねぇ

それぞれのお堂に意味があるらしいよ らしいよぉ~

平泉は100年にわたって繁栄し、みちのくは戦争のない

時代であったが、平氏政権を倒した源義経(牛若丸)が兄頼朝と

対立し平泉に落ちのびてき

義経を保護した藤原秀衡(ひでひら)が病死すると、

4代 藤原泰衡は源頼朝の圧力に耐えかねて、 

経を自害に追い込んだ

そのとき最後まで義経を守ったのが武蔵坊弁慶である

「弁慶の立往生」

その藤原泰衡も源頼朝に攻められ

1189年(文治5年)奥州藤原氏は滅亡した 

それじゃぁ ご覧なすって

 

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             中尊寺境内案内図

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         八幡堂                 地蔵堂

 

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         弁慶堂

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         薬師堂                 峯薬師堂

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        弁財天堂               不動堂

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         大日堂                 釈迦堂

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          観音堂                阿弥陀堂

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          金色堂                中尊寺

 

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         鐘楼

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       白山神社

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          能楽殿

そして白山神社には干支別の摂社がありまして、

もちろん僕もしっかり拝んできました

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       干支                     馬年

 

中尊寺の門前にあるお店ではワンちゃん用のお守りもあるぜよぉ

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                           中尊寺前のお店

行きに素通りしてしまった月見坂途中にある東物見台から

 

見える衣川と北上川の合流地点、

 

源義家と安倍貞任、そして義経が最後をむかえた

 

「衣川の戦い」の跡地付近を望むことができる

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僕は雪を満喫しながら中尊寺を後にした

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そして雪の上を歩きまわった興奮で

中尊寺・・・ 薬師堂・・・ 大日さまに 弁慶さん・・・

なんだっけ?・・・

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