高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」のブログです。

鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・父の叙勲、恩師の叙勲、そして

2011-10-09 | 2011年2月~の記事

父の叙勲、恩師の叙勲、そして

                                                                  情報プラットフォーム、No.2889月号、2011、掲載

 

  父 鈴木英三郎(1903,8,8~1986,5,15)1973年の秋に勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた。刑務官一筋を全うしたが、彼の人生は、暴動、脱 走、虐待、戦犯、汚職などのキーワードが並ぶ波乱に満ちたものである。{破獄}(本誌、No.2027(2004))にその一端を記した。

  勲二等以上の伝達式は宮中に於いて行われるが、勲三等からの伝達式はそれぞれの省庁で行われる。恒例に従って、父は母を伴って伝達式に出席した。帰宅した 母に感想を聞いた。「最前列に座っている人たちは、うちのお父さんも含めて偉そうな顔をしている。『何故、おれが勲三等なのだ』と云わんばかりの不満気な顔さえしている。」、「それに比べると、後ろの方に座っている勲五等、勲六等の人たちを見て感動した。長年連れ添った老妻と涙で抱き合っ ている。『有り難う、お前のお陰だよ。』の連発なの。叙勲はこのような人にこそ大きな意味があると思うの。お父さんを叙勲する必要などないわ よ。」とのこと。官僚として定年を迎えて、当然のこととしての勲章ではなく、地道に地域に生きて、人々のために尽くしたことが認められる勲章こ そ、意味深いと母は思ったのである。

  

恩師 梅川荘吉先生(1924,1,10~  )2001年の秋に勲三等瑞宝章の叙勲を受けた。それまでに、大先輩の祝賀会に先生と共に出席する時、彼の口癖は「たかが勲章で、あの嬉しそうな顔。鈴 木。おれは勲章など欲しくもない。おれの心配はしなくても良いからな。」である。そして、最長老の乾杯の音頭では、「スピーチが10分を越えそう だな。老害の最たるもの。素晴らしい先輩と思っていたが、見込み違いだったな。耄碌(もうろく)の極みだ。」と囁くのである。梅川先生から多くの ことを学んだ。軽妙洒脱な語り口もその一つであり、{天真爛漫と傍若無人}(本誌、No.25411(2008))に書かせて頂いた。

  航空工学に先生は憧れていたが、東京工業大学に入学した時には、戦争に負けて、その領域の教育・研究は禁止されていた。そして彼は金属工学科に進んだ。し かし、夢を捨てることはなかった。これからの航空機材料となる軽量複合材料の研究を行ったのである。最終的には宇宙開発に関わり、無重力下での材料実験へと進んだ。助教授として、私の研究対象は、本来の金属間化合物の研究({伊能忠敬の地図}、本誌、No.2354(2007)を参照)に加えて、当然複合材料の分野へも拡がった。退官された先生の後を継いで、毛利衛さん搭乗の日本初の宇宙材料実験を行う栄誉を担うことができた。 先生のお陰である。

  彼はビーチクラフト・ボナンザを所有している。尾翼がV字型である。髪結いの亭主はいいですねと言いながら、何度も乗せて貰った。「鈴木。タッチ・アン ド・ゴーに大島まで行こうよ。」と、駐機場になっている調布飛行場へ向かうことが多かった。

先生が70歳を過ぎたころ「鈴木。おれの叙勲はどうなっている。」、「先輩は要らないと言ってましたよ。」、「本気にするやつが何処にいる。おれは欲しいのだ。」と怒鳴られてしまった。間もなく90歳になろうとする今でも、パイロットの免許を持ち続けている。裸眼視力を自慢する度に「先輩は勉強を しなかったからですよ。」と冷やかしている。

春の叙勲は311日の東日本大震災で大きく遅れた。地震と津波、そして原発事故のテレビ映像から思い起こすのは、一面焼け野原の横浜の市街地である。父の福岡から札幌への転勤途上で横浜大空襲に遭遇した。中学1年生の時である。
今、瑞宝中綬章を前に「よいことは おかげさま」と振り返り、「生かされてある」の思いを深くしている。


 

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
 

鈴木朝夫(すずき ともお)
718-0054 
高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154
、携帯 090-3461-6571  
s-tomoo@diary.ocn.ne.jp   

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録



最新の画像もっと見る

コメントを投稿