IVYポサリのディープな港区

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小説「霊南坂の星条旗」 その25 by FUNAYAMA 

2007-08-22 10:42:17 | Weblog
グルー家の食事は質素だった。朝はコーヒー、トースト、スクランブル・エッグとベーコンといったきわめて当たり前なメニュウである。
卵入りのグラタンが大使の好みなので、夕食によく用意された。ときには大使の健康を気づかう夫人の考えで、オックス・テールとオニオンを煮込んだ料理も並ぶこともあった。
食後のデザートには寒天入りのフルーツがよく出されたが、寒天は頭の疲れを癒し、働きをよくするというのが、グルー家の愛用する理由だった。
ゲストを迎えた晩餐会は別として、総じて普段の食事は贅沢から程遠いものだった。
晩餐会を公邸で催すのも、大使夫妻の大きな務めの一つだ。
「誰一人として時間に遅れてくる日本の方々はいらっしゃらないのね」
アリスはそんなとき、いつも日本人の招待客がきちんと約束を守り、外国人と違って時間の正確なことに感嘆していた。
どのようにしてもてなすのか、大使夫人としての任務がそこにあった。
「何気ない言葉遣い、何気ない振る舞いがときとして相手に誤解を与え、時には国交の破綻にもなりかねない事態に発展することさえあるのです」
と、細心の注意を払ってアメリカ外交官の役割を果たそうとするアリスの誠意に満ちた姿勢を、貞吉たちは充分に感じ取っていた。
「大使夫妻のもてなし振りには、外交官の義務を超えた人間味の溢れた暖かいものがある」
一度でも晩餐会に招かれた客は、そう感想をもらした。
食後には、よく音楽や映画の鑑賞会が催されたが、グルーは日本では未公開のフィルムをアメリカから取り寄せて、招待客を楽しませていた。
アリスの発案で、食後のひとときを過ごす招待客にジグゾウ・パズルが薦められ、これが人気を呼んだ。
このように晩餐会はいつも和やかな雰囲気に包まれ、
「この公邸には日米間に横たわる暗雲は見られない」と、招待客たちは話し合ったものだ。
晩餐会は通常八時ごろから始まり、お開きは二時間半後というのがグルー家のルールだった。アリスは必ず開宴三十分前までには身なりを整え、階下の広間に降り、客を出迎えるために待機した。
「こうすれば早めにお見えになるお客様にも礼を逸せずにすむでしょう」と、いうのだ。
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小説「霊南坂の星条旗」 その24 by FUNAYAMA 

2007-08-21 11:20:08 | Weblog
アリス夫人のきめ細やかな優しい心遣いは、いたるところで発揮されていた。
武蔵野の自然が好きで、よく散策に出かけたが、そんなときでも、村山貯水池に水が少ないことに気が付くと、帰って来てから使用人たちに、
「せめて私たちだけでも節水を心がけましょう。私たちが水を無駄に使えば、他のどなたかがお困りになるでしょうから」
こう言うのが常であった。
貞吉は大使付きが本来の任務だが、大使は公邸と同じ敷地内にあるチャンセリー(大使館事務所)で午前と午後を公務で過ごしている。その間、アリスの御用を務めるのも貞吉の公務である。その貞吉にアリスはよく話を聞かせてくれた。
「私が東京に来た明治二十九年ごろは、まだ江戸時代の名残を色濃く残していました」
ペリー家に出入りの若衆たちは、襟もとにペリーと印し、背中には丸にPの字を染め抜いた揃いの法被(はっぴ)を粋に着込み、腹掛け、股引き姿で威勢よく人力車を走らせていた。
「私の母は若いころから画家を目指していた人で、毎日のように絵筆をふるい、暇をみては私を連れてあちこちスケッチに行っていました」
アリスの母がとくに好んだ画題は富士山だった。
「なかでも御殿場から仰ぐ富士山がお気に入りで、この絵がその内の一枚なのです」
と、公邸の書斎に飾られているその絵を示した。なお、この絵は今でも掛けられている。
「東京の下町もお気に入りの場所で、私を連れて本所四つ目の牡丹、亀戸井戸天神の藤、堀切の菖蒲、ときには春日部まで足をのばし、それはそれは東京の余暇を楽しんでいました」
多感な年頃のアリスの心は、素朴な日本人たちとの日々の触れ合いで、すっかり日本に溶け込んでいった。
「私が大好きだったのは、浴衣を着て、団扇を持ち、縁台で夕涼みをすることでした」
風鈴の音に耳を傾け、心地よい涼しい夕風に頬をなぶらせる。
「そんなとき、ああ、これが日本だなと、しみじみ思ったものです」
大使夫人になった今でも、アリスは蚊取り線香を窓辺にくゆらせ、邸内の庭から吹いてくる涼風に身をまかせるのが好きだった。
「日本の心が分かったような気がします」
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小説「霊南坂の星条旗」 その23  by FUNAYAMA

2007-08-20 11:12:14 | Weblog
グルー家が着任した当時の東京には、先にも述べたように、不況に苦しむ人々が多くいた。
「どうすれば、あの人達を助けられるでしょうか?」
大使夫人という立場上、表立ったことはできず、自分にはささやかな個人的なことしか出来ないと悩むアリスだった。
「船山さん、ちょっと出かけましょう」と、貞吉を誘い、車で街に出ては、肩を落として力なく歩いている人を見かけると車を止め、不自由な脚をかばいながら降りて近づき、
「どうぞ元気を出して」と、
失礼にならないようにお金をそっと渡して、勇気づけるのだった。
ある冬の日、雨に打たれ、寒さに震えながら霊南坂上をよろめいている哀れな子犬がいた。見兼ねたアリスは子犬をそっと抱き上げ、邸内に連れてきた。アリスの手厚い看護のお陰ですっかり元気を取り戻し、邸内をはしゃぎ回る愛犬に育てられていた。
サーシャと名づけられたこの柴犬は不思議とアリスにしか懐かなかった。ところがこのサーシャもやがて戦争と言う名の巨大な渦に巻き込まれていくのだが::::。
大使夫妻は美術骨董品の蒐集が趣味だった。
前任地のトルコで手に入れたミミズクの絵柄の、アリスが大事にしていた花瓶を、貞吉はうっかりして割ってしまった。高価な花瓶だ。さすがの貞吉も青ざめた。
しかし、アリスはこう言った。
「あれは私の気に入らない花瓶でした。どうやって処分しようかと迷っていたところでした。その役を船山さん、あなたが引き受けてくださったのよ。私のほうこそお礼を言わなければなりません」
その言葉に心打たれた貞吉が忠誠の念を新たにしたのは言うまでもない。
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小説「霊南坂の星条旗」 その22 by FUNAYAMA

2007-08-17 12:12:02 | Weblog
ペリー提督の血を引く大使夫人アリスは、脚が不自由だった。
娘時代、欧州航路の客船のデッキで転倒し、左足を痛め、外見からはわからないが、自分ひとりでは靴下のはけない不自由な脚になってしまったのだ。が、アリスにはいささかの暗い影もなく、夫と同じくいつも笑顔を絶やさない心優しい夫人だった。彼女もまたアメリカ上流社会に生まれた者がもつ使命、ノーブレス.オビリージに生きる女性だった。
 耳の不自由な大使と共に、身障者の苦しみを我が身の苦しみと思い、東京聾唖学校の生徒たちを公邸にしばしば招待して、彼らを励ました。
当時の日本の聾唖の子供たちの置かれた境遇は今日ではまったく想像もつかないほど暗く惨めなものだった。聾唖の子供たちが特製のアイスクリームやチョコレート、ケーキなどを振舞われ、嬉々として広々とした庭で誰に気兼ねすることなくはしゃぎ回る姿に、付き添いの先生がハンカチで目頭を抑えている光景を、貞吉は何度見たことだろう。
大使夫妻も、のびのびと遊んだり寛いでいる子供たちを、まるで我が子のように愛しげに見守っているのだ。
 一方、春の謝肉祭カーニバルの季節には公邸に働く日本人職員の子弟たちも招かれるのが恒例だった。手入れの行き届いた芝生の周りの植え込みに、銀紙や金紙で包まれた卵形のチョコレートが隠され、見つければ見つけた者の見つけ得になるという、まったく結構な宝捜しのイベントが用意された。浅ましくも目をぎらぎらさせながら宝捜しに夢中になる銀蝶の息子たちは、貞吉の「節度ある振る舞いをせよ」との厳重注意に、なかば従い、なかば奔放に宝捜しに夢中だった。
背伸びしても手がとどかぬ銀紙の宝ものにうろうろする貞吉の三男坊を、大使はさっとかかえ上げ、取らせてくれたのも懐かしい遠い記憶だ。
大使館の招待側に、のちに参事官になるドューマン書記官がいた。彼は一八九〇年(明治二三年)、大阪で生まれたアルメニア系アメリカ人で、彼の日本語は関西訛りが混ざった歯切れのいいべらんめえ調だった。
貞吉に紹介されたおこうが大阪生まれと知らされ、ドューマンとおこうの間でひとしきり関西訛りの会話が続いた。ビリヤード銀蝶に話が及ぶとドューマンは事のほか喜び、「こんど突きにいきますから」と応じ、言葉どおり時折銀蝶に姿をみせ、「銀蝶さんには外人さんが突きにくる」と、ご近所に評判を呼んだものだ。
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小説「霊南坂の星条旗」 その21 by FUNAYAMA

2007-08-16 10:24:54 | Weblog
アリスもまた大使夫人として来日する前に、日本に来ていた。一八九六年(明治二十九年)、十三歳のときだ。
彼女の父トーマス.ペリーは著名な文学博士で、福沢諭吉に招かれて慶応義塾で教えることになった。この父に連れられてアリスは来日し、麻布新桜田町に住んでいた。
後年、ボストンの社交界で出会ったグルーとアリスは、同時期に東京にいたことが分かり、二人の仲は急速に親しさを増して結婚するに至ったのである。
二人にとって日本が特別の国になったのは、いうまでもない。
外交官の道を歩み始めたグルーの第一歩はエジプト.カイロ総領事館員から始まった。前途洋々の二十四歳の彼はキャリアー外交官としてベルリン、ウイーンアメリカ大使館の一等書記官の階段をあがり、一九一八年十月、三十八歳の彼はヴェルサイュ条約予備交渉にアメリカ代表事務官として出席する外交官になっていた。そしてこの時、第一次世界大戦で戦争に巻き込まれた民衆の悲惨さ、敗戦国ドイツに科せられたヴェルサイュ条約の過酷さを実感したのだった。このときの経験が、太平洋戦争終結に向け、彼の良識として発揮されることになるのだ。
その後、駐パリ.アメリカ大使館参事官、駐ヨーロッパ諸国の特命全権大使デンマーク、スイスを歴任し、一九二四年から国務次官の椅子に三年間すわることになったが、彼の本領は現場の外交官にあった。一九二七年から三二年まで駐トルコ.アメリカ大使を務め、
一九三二年二月、駐日特命全権大使に任命され、同年六月六日東京に着任したのだった。
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小説「霊南坂の星条旗」 その20 by FUNAYAMA

2007-08-15 12:09:31 | Weblog
ジョセフ.C.グルーは一八八〇年(明治十三年)五月二十七日、銀行家でもあり毛織物商でもあった裕福な家庭の、姉一人、兄二人の末っ子としてボストンで生まれた。
グルー家はイギリスから渡ってきたアングロ.サクソンの名家で、姻戚に世界的な富豪モルガン財閥も名を連ねていて、ボストン上流社会でも重きをなしていた。
アメリカの富裕な名門家庭の子弟たちにとって、公共に奉仕する精神を幼い時代から植え付けられるのは、きわめて普通のことだった。グルー少年も、それ相応に果たさなければならない義務と社会的責任を指すノーブレス.オブリージを躾られた。
彼が通った地元のグロトン校は、さらに厳しい躾のもとに将来のエリートたちを育て、グルー家の宗教エピスコパル(聖公会)とあいまって、彼は優れた人格を陶冶(とうや)されていった。グロトン校には後年の日米開戦時の大統領フランクリン.ルーズベルトが二年後輩にいた。
裕福な家庭だったが贅沢は許されなかった。姉は精神に障害を持っていて、そのせいかグルーは弱者に対するいたわりの心を強く抱いていた。そして人間そのものに興味を持つようになった。父親は彼に出版界に進むことを望んだが、グルーは、
「ぼくは将来、世界の国々、世界の人々とつきあえる仕事をしたい」
こう言って外交官の道を志望するようになったのも、人間への期待や関心の表れだった。幼いときに罹ったしょう紅熱が原因で右耳の聴力がほとんど失われていたが、この感覚器官の障害は、彼にとって取るに足らない些細なものとする強い意志があった。
十九歳になった彼はハーバード大学入学を前に、父親と共にアジア旅行に出かけ、中国で猛虎を仕留めたりの数々の冒険を楽しみ、そのあと日本を訪れ、神戸、大阪、京都を経て東京に来た。宿泊は帝国ホテルだった。
その当時、奇しくも将来の妻アリスも東京にいたのである。
 アリスの旧姓はアリス.デ.ベルマンドワ.ペリーといい、一八五三年(嘉永六年)黒船を率いて浦賀に来航したペリー提督は祖父の弟にあたり、つまり大叔父である。
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小説「霊南坂の星条旗」 その19 by FUNAYAMA 

2007-08-14 10:15:27 | Weblog
今日の交通網から云えば東京とワシントンはジェット機で十時間あれば着いてしまう距離で、往復しても二十時間あまりあれば充分だが、しかしグルーの時代はアメリカ大陸を汽車で横断、太平洋を客船と乗り継ぎ、横浜に到着するのに二十日間以上、往復となれば四十日以上かかる両国の地理的距離である。
当時の一般的日本人にはアメリカ西海岸はともかく、アメリカ大陸は遥かなる異国であり、日常的関心はあまり高くは無かったと云っても過言ではないだろう。
しかしグルーが着任する三ヶ月まえ、すなわち昭和七年三月一日、満州国の独立が宣言され「日本の傀儡(かいらい)政権だ」と、非難する国際世論が高まり、アメリカはこの独立を認めず、満州国不承認の立場をとった。
しかし国際世論の急先鋒に立ってはいたが、極東はアメリカにとっては遠隔の地でありすぎた。アメリカ政府の対日政策は、
「軍事力を行使するには極東は遠い。したがってアメリカの権益が日本によって直接犯されないかぎり、日本とは事を構えるよりも、アメリカの立場をはっきり伝え、日本が諸条約に違反して中国から奪った権益は認めないが、日本との関係は可能なかぎり維持するようにつとめよ」というものだった。
しかしこの基本姿勢は、日本の大陸進出の方法いかんによっては、経済的制裁、さらには武力行使による抑制政策に変わりうるということだった。
グルーは来日途中のシカゴで、日本中を震撼させた五月十五日の軍人による暗殺事件を新聞で読んでいた。
五・一五と呼ばれたこの事件は、日本の支配階級に不満を抱き国政を改革しようとした海軍士官たちと陸軍士官学校生徒たちが、犬飼毅首相を官邸で暗殺し、警視庁、政友会本部、日本銀行などを襲撃したものだった。この事件によって日本の政党政治は幕を閉じ、軍国主義化した画期ともいわれている。
グルー夫妻と二十歳になった末娘エルシイが日本に赴任してきたのは、そのような時代だった。
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小説「霊南坂の星条旗」 その18 by FUNAYAMA 

2007-08-13 11:04:12 | Weblog
一日の公務を終え、夕食を済ますと書斎に篭もり、愛用のパイプを燻らしながら、その日の出来事をタイプライターで打つのが、グルー大使の習慣だった。時には夜が更けるまで続くのも珍しいことではなく、大使愛飲のジョン・ヘイグ、クラッカーを書斎に運ぶのが、貞吉の仕事になっていた。
「多少のアルコールは脳を刺激し、頭の回転に役立つものです」と、よく大使は言い、どんな些細な仕事にも微笑を浮かべ、必ず「ありがとう」と労う大使に貞吉は敬愛の情を抱いた。
このとき、五十二歳を迎えたばかりのグルーは、ゴルフ、テニス、水泳などスポーツで鍛えた均整のとれた体躯、太い眉と豊な口髭をたくわえ、穏やかな微笑を決して絶やすことなく、見るからに知的で品位ある紳士である。
しかも人をそらさぬ巧みな話術と何事においても率直に語る誠実な態度は、日本人はもとより国籍を問わず多くの人々を魅了せずにはおかなかった。
ただ右耳が難聴のため、後ろから声をかけても気がつかぬことが時々あった。貞吉はそれを知ってから、さりげなくグルーの左側に立って、できるだけ明瞭に受け答えするように心がけていた。
そのグルーが館員たちや貞吉に、こう語ったことがある。
「大使の任務は日本におけるアメリカの権益の保護と、日米両国の友好を深め、親善に尽くし、その関係を維持することである」
荒野に一人だけ住んでいた時代とは異なり、交通網が発達した今日の組織された共同社会では、個人は、彼だけの損得や欲望だけでは生活できない。共同社会の利害関係も考えなければならない。
隣同士の二人が憎しみ合う間柄であろうが、友好的であろうが、両者の関係は共同社会全体の関心事になってくる。これは今日の国際関係にもあてはまることだと思う。政治的、経済的、軍事的と、いろいろな利害関係をもつ特定の二国間の紛争は、単に二国間の問題にとどまらず、今日ではその他の多くの国の利害や国交関係に、必然的に影響してくるのだ」
グルーの英語もキングス・イングリシュで、貞吉たちに話し掛けるときは、貞吉たちにも理解できるようにゆっくりと言葉を選んでくれた。
「太平洋を挟んで経済的にも政治的にも強力な日本とアメリカがあり、この両国は太平洋の運命を握っている。将来、太平洋が果てしない嫉妬と疑惑と軋轢の場となるのか、それとも文化や物資を運ぶ友好的な平和な海、静かな海になるのか。その決定は日米両国にかかっている。
しかも両国の政策と行動は太平洋を取り巻く国々のみならず、全世界の国際関係に大きく影響してくるのだ。
日米関係は両国のみの関係ではない。両国の友好関係を続ける努力をしなければならないが、それ以上に我々は全世界に対してより大きな義務を背負っている。この義務とは来るべき太平洋時代を、平和と厚い友情の時代として発展させることにあるのです」
日米両国が平和と友好のうちに共存し、お互いに協力しあうのに何の問題があると言うのか。
過去の世界史に見られた紛争には経済的利害関係が絡んでいたが、両国の間には相反するものは無い。むしろお互いに補い合うものが多い。
日米はお互いに競合しない原料供給の立場にあり、同時に両国は世界のマーケットに製品を供給しているが、これもお互いに競合しないものになっている。日本は伝統的な手の器用さを生かした製品を供給し、アメリカはオートマティックに生産された製品を供給している。それゆえに日米の経済的利害関係は必ずしも衝突せず、他の国々のような軋轢となるような原因は取り除かれているのだ」
グルーの口調は次第に熱を帯びてきた。
「日米の主戦論者が常に言う衝突の原因は、忍耐強い態度と相互扶助の精神によって、疑いもなく、調停させることができる。
日米両国がその運命を握っている。来るべき太平洋時代が世界の福祉増進に捧げられるための、平和と友情の時代になることを阻む理由を、私は何一つ見出すことができず、我々が力を合わせれば、これは実現できるのです」
日米両国の友情と平和を希求するグルーの烈々たる想いを聞いているうちに、貞吉の胸にも何か滾る(たぎる)ものがこみ上げてくる。
当時、巷では、
「大陸進出の日本の政策にアメリカが反対するのは、アメリカの傲慢だ。日本を侮っている証拠だ」という声があり、少しでも貞吉がアメリカを擁護するような態度を見せると、
「お前は西洋かぶれか?アメリカかぶれか?一体何様だと思っているんだ」と罵られたものだ。だがいま貞吉は嬉しかった。勇気付けられた。アメリカの大使が、ここまで情熱を傾けてくれれば、きっと日米は力強い友好関係を結んでくれるだろう。
グルー大使の下で働ける喜びを貞吉は噛み締めていた。
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小説「霊南坂の星条旗」 その17 by FUNAYAMA 

2007-08-10 10:53:31 | Weblog
公邸には前の大使キャメロン・フォーブス時代のチーフ下田をはじめ岡田料理長、二人の運転手露木と平野、ボイラーマン、ベッドメーキング、掃除洗濯アイロン掛けのメイドや食事係まで計十五人の日本人使用人がいた。貞吉はアリス夫人が直接面談採用した故か、下田の補佐役(ナンバーツウ)になり、大使付きとして勤務できることになった。
大使夫妻と四女エルシィが住む公邸には、趣のある豪荘さとゆったりとした寛ぎがあった。
この大使館で気がついたのは『次の一戦』と、そのあとに書かれた『興亡の此一戦』が館員たち、とくに武官たちの間で必読書のように読まれていることだった。
この二冊の本は退役海軍中佐水野広徳が日米戦を想定して著した未来小説で『次に一戦』は著者不明として発表されたが、出版後三ヶ月で著者自ら絶版とし、『興亡の此一戦』は当局から発禁処分を受けたものだった。
この本はオランダ武官のみならず、貞吉の知る限り、他の駐日大使館付き武官たちにも広く読まれ、このアメリカ大使館でも例外ではなかった。
『次の一戦』は以下のような序文から始まっていた。
「日米果たして戦うか?日米終(つい)に戦はざるか?是れ二十世紀上半期における世界の一大疑問にして、又帝国の最大重要問題たり。
否戦説者は乃ち曰く(すなわちいわく)、日本の財力は到底戦費の負担に堪えず、米国の兵力は到底日本を犯す能はず。是れ日米終に戦わざる所以なりと。開戦説者は乃ち曰く、米国の帝国主義は今や顕然として掩うべからず。帝国の海外発展亦実に己む能はず。相対進せる二物の衝突するは科学の原則なり。是れ日米必ず戦う所以なりと。いずれが是、いずれが非。
著者と謂えども未だ之を断ずるを得ず。然るに敢えてここに日米戦を説く所以のものは何ぞ。惟うに戦うと言い、戦わずと言うも、共に是れ相対にして絶対にあらず。日本縦令(たとえ)貧なりと謂えども、亡国の恥じに甘んずる能わず。米兵或いは強ならずとも数多ければ勢を為す。誰か日米終に戦わずと保証するものぞ。
米国の帝国主義は多く国民の虚栄欲より起こり、帝国の海外発展は主として国民の向上心より発す。共に国家存亡の大義にあらず。誰か日米必ず戦うと断言するものぞ。由是観之(これによってこれをみるに)、日米戦うと戦わざるとは一に両国民の自制と自覚とに由るものと言わざるべからず。
是に(ここに)おいてか敢えて問う。米国民は果たして克く戦いを避くるの自制ありや、帝国国民は果たして克く戦いを除くの自覚ありや。
(中略)
著者は嘗て(かつて)軍陣に臨みて親しく戦争の惨状を目撃し、又屡々(またしばしば)戦史を紐解いて深く戦争の禍害を認識せるもの。其の衷心平和を望むの情や決して人後に落ちざるを期す。然りと謂えども米国国民の暴慢既往の如く、帝国軍備の欠陥、今日の如くんば、太平洋の波は安んぞ(いずくんぞ)永く平かなるを得ん」
(後略)
そして『興亡の比一戦』ではついに日米は交戦状態に入り、日本海軍がサンフランシスコを攻撃し、やがて東京が米軍の大空襲で壊滅してしまうという、まことに暗示的な未来小説であった。
無論、一介の使用人にすぎぬ貞吉ではあったが、若いときから外国人と交際があり、国際情勢や日本の立場をそれなりに理解していた彼は、この本にも興味を持っていた。そしてこれはあくまでも架空の話であるとの心得はあった。しかし、もしかしたら、あるいはと、ふと心の片隅によぎる不安を否定できぬほど、迫真に満ちた筆の運びであった。
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小説「霊南坂の星条旗」 その16 by FUNAYAMA 

2007-08-09 10:39:30 | Weblog
霊南坂の中腹を過ぎると、大使館の塀にアーチ風にくり抜かれた通用門が見える。門をくくぐと、そこはもうアメリカだった。
夫妻の車が二台駐車できるガレージがあり、官邸の地下室にあたる部分になっている。
勝手口とでもいうのだろうか、網戸のドアをあけ、貞吉が来意を告げると、出てきた日本人は、
「どうぞ、こちらへ」と、階段をあがり、豪華な邸内を貞吉の先に立ち、まるで迷路のような廊下をいくつか伝い、書斎に案内してくれた。そして、
「ここでしばらく待つように」と云い、部屋を出ていった。
貞吉は雨に濡れた洋服から手早く持参の羽織袴に着替え、高ぶる心の動悸を押さえながら椅子に威儀を正して腰かけていた。
やがて、華やいだ空気がさっと流れこみ、裾のながい踝(くるぶし)まであるドレスを着た見るからに品に良い大使夫人アリスが軽やかに入ってきた。
「お待たせして、ご免なさい。貴方のことは公使から連絡を頂いています。私たちのため働いてくださるのね」
きれいなキングス・イングリシュだった。
「はい。今日こちらに伺うについてパブスト公使からレコマンデーションをお預かりしています」と、貞吉はそれを差し出した。
微笑みを浮かべ推薦状に目を通したアリスは晴れやかに言った。
「大変結構ですわ。今夜、お客様を大勢お呼びしてますの。大使付きとして、さっそく今夜から働いてくださるわね」
示された給料は住み込みを条件に月九十円だった。当時米一升(一・四キロ)二十七銭の時代である。好条件だ。第一、職を得るのが大変な時代だった。貞吉は五人の子供の顔を思い浮かべた。しかも今日六月六日は末っ子の満二歳の誕生日でもある。即日就職決定は素晴らしいプレゼントだ。貞吉は嬉しかった。パブスト公使の好意が身に沁み、目の前の気品に満ちた美しい大使夫人に述べる感謝の言葉にも思わず力が入っていた。
その夜の大使夫妻無事着任を祝って催されたパーティは、貞吉にはアメリカ大使館公邸初のお目見え仕事だったが、さすがにオランダ公使の元で培った長年の腕がものを云い、すべてが流れるように進行し、貞吉は面目を施した。
「いい人が来てくれました」と大使夫妻の賛辞を受け、その夜はおこうの元へ飛ぶように帰った。確かに銀蝶では浮いた存在だが、仔細を聞かされたおこうの喜びは如何ばかりか。この日を期におこうは五人の子供、ゲーム取りのお姐さん、そして二人のお手伝いさんを抱え、ビリヤード銀蝶の女主人に専念し、これが人生の綾なす運命なのか、貞吉は霊南坂の星条旗のもと、アメリカ大使館公邸に身を置く境遇となった。
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