くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「あなたに贈る×」近藤史恵

2010-09-11 05:42:03 | ミステリ・サスペンス・ホラー
「永遠に続く花火があればいいのに」
「それを持たされる人には、拷問みたいなものね」
一瞬咲いてパッと散る、そんな花火みたいな恋に殉じたのでしょうか。読み終わって、織恵という少女の存在感がくっきり浮かび上がってくる。物語には回想としての場面しか現れないのに。ひっそりと、でも熱く激しい炎が、彼女の胸には燃えていたのですね。
近藤史恵「あなたに贈る×(キス)」、理論社のミステリーYA! の一冊です。
昨年出なかった分、今年は立て続けに単行本が出てますね。で、どれもいいです。胸の底に響いてくる。
正直をいえば、わたしはBL系統は苦手、です。でも、その要素があっても、物語を圧倒するような力を感じました。
閉塞的なものをもちながら、どこか憧れてしまう全寮制の高校が舞台です。リセ・アルビュス。山の中にあり、近くにはコンビニが一つあるくらい。あとはVEという携帯コンピュータによるネットショッピングを利用するようです。
主人公の美詩は、この寮で先輩の織恵と出会い、親しくなります。しかし、その織恵死んだという噂が、学園を駆け抜けます。それも、あの忌まわしい病気、ソムノスフォビアで。
これは、キスによって感染し、短い潜伏期間をおいて発病。確実に死に至ります。人々は病に怯え、織恵の死は表立って悼むことすらできないまま。なぜ、彼女が死ななければならないのか。納得のいかない美詩は、父親がその病気を研究しているという梢と調査に乗り出すのですが……。
地に足のついた生活環境でありながらVEのような機械を使って授業やプライベートに関わる一切を管理することができたり、キスを不浄とすることに端を発したゆえの早期婚約など、近未来小説としての側面も興味深いですね。近藤さんは、SF的な未来とはまた違う世界観がある。
早期の婚約とは、親が娘の婚約者を早いうちに決めてしまうようになるということです。貞操や階級の問題、そしてなによりソムノスフォビアによって自由恋愛は阻まれる。織恵から見れば「猫の子でも選ぶように」選ばれ、自分の意志は尊重されない。美しく気高い魂をもつ彼女は、この学校を卒業したら結婚という道しか択べないのです。
美詩も、母親から婚約を打診されます。父親(母の再婚相手)の知人の息子さんとか。親が勝手に決めてしまうことが多い昨今、こうやって自分の意志を聞いてくれる、と美詩はホッとします。
でもこれ、伏線なんです! さすが~。
美詩という少女がたどり着いた真実は、はかなく物悲しいものです。これからの彼女のことを思うと、切ない。でも、近藤さんはさらに、もうひとつカードを切ってくれるのです。
「あなた」とは誰を示すのでしょう。ぞくぞくします。
林さんやら砂川くんやら竹内先生といった魅力的な男子も、いいですー。

「デーモン聖典」樹なつみ

2010-09-10 05:14:52 | コミック
まだまだ樹なつみワールド展開中です。「デーモン聖典(サクリード)」おもしろいっ。
古本屋梯子して買い集めましたよ。とびとびに。最初に1・2・3・5・7・8・11巻を買ったのです。当然、我慢して全巻揃うまで待つなんてことはわたしにはできません。読んじゃいましたよ、最終巻。だから、次の日に4・6・9を買ったのですが、そこでまた読み直しちゃいましたよ。ああ、好きっ、この世界観。
「もな」と「りな」は双子の姉妹。しかし、りなはリターンシンドロームという病気にかかっており、年齢が逆行するため、あと数年で消えてしまう運命です。なんとかりなを治す薬を開発したいと、従兄の忍は世界的な製薬会社で研究を重ねますが、なかなか結果が出てきません。それもそのはず、リターンシンドロームは人間以外の知的生命体(インテリジェンス)との接触によっておこる後退現象なのです。彼らと体感する時間の感覚が違うため、瞬時に逆行して消えてしまうのでした。彼らの生は、なかったこと、になってしまうのです。(あ、でもそれまでの生活環境はそのまま残ります。生まれた子供までいなくなるとか、そういうことはありません)
そんなとき、双子が幼い時期に面倒をみてくれた「ミカ」が現れます。彼は夭折したピアニストの姿を写したユニコーンで、初めてインテリジェンスとして地球人と接触した人物。それが双子の母親・礼奈です。
そのとき胎内接触したため、りなは発症。ただ、ほかの例とは違ってスピードが遅いのだそうです。
どうしてもなは症状が出ないのか。
まれに彼らと接触しても消えない能力をもつ人間がいて、逆にインテリジェンスを従えてしまうのだそうです。いわゆるドラゴンスレーヤーですね。そういう人間は、「鎖」と呼ばれることになります。
礼奈は鎖の能力をもっており、もなにもそれは遺伝しているのです。礼奈が亡くなったあとミカはもなを鎖にしていますが、りなの病気の進行を止めるためにより高位の生命体を呼び出すことになります。(鎖は、自分の従えるものより下位のデーモンを新たに加えることはできません)
そこで現れたのは、「赤龍」に次いで高位の「黙示録の獣」。もなは彼にかたちを与え、従えます。
しかしここで、とんでもないことが。
実は、鎖が彼らを従えるとき、頭の中に鮮烈にある人の姿をとることになるのです。ミカがピアニストの影をまとったように、「黙示録の獣」も、トップアイドルの閨人の姿になってしまいます。
普通に歩いても混乱必至。さらにデーモンですから人間としての価値観は通用しません。「K2(ケーツー)」と名づけられた彼はもなたちと一緒に暮らすことになるのですが……。
先程やっと最後のコミックスを読みました。で、またもや11巻を読み直してしまったのでした。そうか、そういうことか。いろんなことが収斂していくラストに、さすがは樹なつみ! と拍手喝采です。
なぜ赤龍はこんな手間のかかることを始めたのか。忍のトラウマとは。お兄さんがどうして縮んじゃったのかも。
もなとりなの宿命。彼らの絆と閨人の思い。集団劇のスタイルで描いたという樹さんの計算が、細かいところまで行き渡る傑作です。
一週間以内に全巻揃えて千円ちょっとだったのですが、もーっ、とにかく読みこみました。誰が好きかというと、実は閨人です。まっとうな人だ。それから、大人になったK2。11巻はとにかくカッコイイ。同じ顔なんですけどね。で、これを巧妙に書き分けるんだから、とんでもないです。すごい。
今度は頭から通しで読みますっ。
この物語、アフタヌーンに連載することになったときに考えた候補の一つだったそう。青年誌だったらまた違う話になったのですかね。ちなみに、そこで連載していた「暁の息子」も買いました。次は「ヴァンピール」でしょうか……。(実は実家で「朱鷺色三角」を再読したのは、その前にこれを三巻まで立ち読みしたからなんです~)

「The MANZAI」⑥ あさのあつこ

2010-09-09 12:53:08 | YA・児童書
うーん……。
私立と公立の合格発表が同じ時期なのですか、この湊市のある地方は。篠原さんは音楽科のある私立に、そのほかの面々は県立高校に受かったそうですが、なんかその部分が不自然な気が。(普通、私立は公立の前に決まるでしょう)
ま、まあ、それは譲りましょう。でも、わたしにはどうも解せないことがある。それは、佐伯琢子(あやこ)さんについてです。
歩が合格した喜びで隣にいたはずの秋本に飛びついたら、いつの間にかおばさんに変わっていて、その人は名刺をくれるのです。春からこの高校の校長になる、と。
待ってください。合格発表は当然三月ですね。赴任は四月になるのですよね。そういう人は、まだこの時期公表してはいけません。転勤すると分かっていても、まだまだ身内にしか伝えてはならない時期なのです。しかも名刺って。しかも玄関掃除って。現在の勤務高の仕事はどうなっているの??
あさのさん、大丈夫なんでしょうか。巻末のあとがきで、歩と対談の形式をとるのはまあ、いいでしょう。でも、ネタバレはいかんよー。つい、そこを最初に読んでしまったではないですか。(結構、そういう人多いと思います……)
あさのあつこ「The MANZAI」⑥です。うわっ、知らない間にピュアフル文庫がポプラ社に移籍しているっ。
いよいよ完結、二人は高校生に。発表を身に行ったところ、新入生歓迎会でロミジュリとしてステージに立ってもらえないかという生徒会からの申し出もあって、秋本はご機嫌。歩も彼の存在に感謝の気持ちを素直に表すようになり(地の文で)、仲間たちとの関係も良好。ところが、佐伯琢子校長が現れて事態は急転……。
実は琢子先生、秋本のお父さんの妹だった、というのですが。
待ってください。秋本母って、一体いくつですか。いくら義姉でも、自分の方が年下だったら、こういう話し方にはならないでしょう。
「やめてんか!」(略)
「琢子さん、今ごろになってうちらに何の用ですか。何で、ここに来はったんですか。何の用もないでしょうに」
対して、琢子さんは、こう。
「お義姉さん、それがあるんです。大切な用事があって、わたし、お邪魔しに来たんです」
校長というくらいだから五十代です。秋本母も五十過ぎてるの?
ふーぅ。まあ、年上の人にもそういう言い方をすることはありうるでしょうから、それも深く追求するのは控えます。入試の国語の問題にも、文句はありますが(小作文じゃない方)、それもおいておきます。
でもさあ。
正直、これは中学生が書いた作品なのでは? と思わずにはいられないほど稚拙なエンディングで、わたしはもうがっかりです。描写がない! 会話までがシナリオ式なのはどうなんでしょう。安易に人の死を書けば盛り上がるわけではありません。大体、「The MANZAI」ってそういうことなのかよ!
とりあえずこの巻で、秋本と歩が平成22年現在中三だと判明しました。根拠は101ページからの病院における漫才。「賭けごと」「相撲」「野球」の流れを持ちだして、「まだ、ちょっとやばいだろう」「それ、一番やばいパターンだから」って。
これ、今年の時事ネタですもんね。だから、状態としては⑥の内容はまだこれから先のことだってことです。
作品は十年近く前から始まったはずだけど、話の流れは二年くらいしか経っていないんです。歩の生活に携帯電話が普通に存在していることに驚くわたし。
個人的には最初のころの方が断然おもしろかったです。

「The MANZAI」⑤ あさのあつこ

2010-09-08 04:51:47 | YA・児童書
んー、歩ってこんなにしゃべってばっかりの子だっけ?
前作で、仲間っていいな、というテーマが色濃く表れていましたが、これはちょっとだらだらしすぎのような。大晦日から元日にかけてずーっと書いてあるのですよ。で、何か事件があるかというと、初詣で歩が酒樽にぶつかって酔っ払う、くらいです。あとは蓮田が進学について困っているという噂。とにかく仲間たちとずっとしゃべっている感じ。
でも、ファンはそこがいいのでしょうね。物語そのものよりキャラクターで読ませるシリーズだと思います。まんがみたいだし。ただ、ほかのあさの作品と比較すると、どうも物足りない。
あ、わたし、どちらかというとあさの作品に漂うカラーは苦手です。毒のようなものがある。でも、それがオブラートで包まれたようなこの作品、どうも疑問を感じるのです……。
あさのあつこ「The MANZAI」⑤(ピュアフル文庫)。④までは図書室にあるので、今回⑥が出て完結ということを聞いたので買いました。寄贈。
でも、中学生はこういう雰囲気の小説は好きでしょうね。「バッテリー」も「晩夏の甲子園」も人気があります。ひょっとしてあさのさん、BL好きの女の子に同人活動してほしいのかしら、と深読みしたくなるほど、森口が歩と秋本にからんできます。歩自身も、秋本に「だから、おまえのこと、めっちゃ好きやねん」といわれて、それって「I love You」という意味か、と自問自答したり。
ところで、わたしはあんまりテレビを見ないので疑問なのですが、この二人の漫才って、おもしろいのでしょうか……。正直いって、わたしにはそれほどのものとは思えないのですが。
森口たちは「チーム・ロミジュリ」を立ち上げると息巻いているし、秋本のお母さんは「歩くんをあゆちゃんと呼んで応援しよう会」の仲間を増やしているし、看護師の多々良さんは患者さんに「まだ中学生やからアマなんやけど、直にプロデビューするから。応援したってな」と二人を紹介するのです。
わたしも普段から中学生に接する身、彼らの感覚でいえば充分におもしろいだろうとは思います。さすがにエンターテイナーあさのあつこプロデュースですからね。ただ、それはやっぱり文化祭というステージの上だから、だよね。なんのゆかりもないおばちゃんとしては、引き続き「漫才コンビ」として応援、となると首をひねります。
それに、わたしが多々良さんだったら、こういう言い方での励ましはしないように思うのですが。
直にプロデビュー。安易に口に出していいことではないと思うのです。歩は自分に漫才をする気がないから否定していますが、実際に例えばバンドを組んでいたり、プロ野球選手を目指している子に、「すぐにプロ」なんていうのは、やっぱり無責任な発言ではないかと。
そうですね、言う人は言うでしょうね。でも、そういう人の比率が高い。二人の漫才は、そういうレベルなんでしょうか。
地の文が全くなくて、台詞でつなぐページも多かったのですが、まあ、漫才のスピード感を出すにはいいでしょう。
で、時々地の文で歩がいいことを言う。言葉についてとか、笑いについてとか。そこは、よかった。
さて、公立の商業高校でトップになって奨学金をもらう予定の蓮田くん。育英会って、トップじゃないと駄目なんだっけ? 確かに学力の基準はあるけど。
今回、あさのさんは年越しに焦点を当てて、普通の一日をじっくり書きたかったのかな、という感じです。実験的、なのかしら。
まあ、⑥の着地に期待したいと思いつつ、読了しました。

「利休にたずねよ」山本兼一

2010-09-07 05:29:05 | 時代小説
串だんご方式と名づけます。
普通、物語は出来事を時間軸に従って並べていくわけです。だから、1・2・3と、順をおって進行するのですが、この作品は違います。だんごは後から通したものから食べていきますよね。3・2・1です。一つ一つは短編になっていますから、時間を遡りつつも各物語は普通に読めます。ただ、その女は、どういう素姓でどういういきさつがあって、どうして命を失ったのか、それは後々まで隠されています。あんこ(しょうゆでもごまでもいいのですが)たっぷりといえるでしょう。
山本兼一「利休にたずねよ」(PHP研究所)。直木賞作品ですから、これまでもたくさんの方に読まれていると思います。先輩が絶賛して貸してくださいました。
こういう構成、わたしは好きです。利休の切腹から始まり、だんだんと遡っていく。事件の真相を知るということももちろんですが、利休と秀吉という二人の男の姿を多角的に見つめた物語として読むのが妥当だと感じました。
利休が秀吉の癇を被って切腹したことは史実ですし、わたしは小学生のころ「太閤記」を愛読していたので、この時代については得意分野です。大学入試に出たよ、北野大茶会!(それこそ、茶の湯の歴史についての出題でした)
で、頭では分かってるんです。「イシュタルの娘」とか「千利休とその妻たち」とかも読んだし(後者はもう二十年経っているので、細かいことは忘れましたが)。でも、この本を読んでいると、利休が七十を過ぎた男だとはとても思えない! のです。文中にも侘びさびを提唱しながらも、枯れの中にはなやぎをもつという姿勢がたびたび出てきますが、これはそのまま利休の比喩でありましょう。
美に対しての傲慢なほどの自信。そして、それを支える異国の女の面影。利休の秘匿した茶道具が女がらみだと看破する秀吉もただ者ではありません。
二人をめぐる武将、茶人、家人、職工、僧侶、そういう様々な立場の人々が、それぞれの視点で戦乱の世を見つめている。
利休一人をとって見ても、捉え方はそれぞれです。たった一言謝れば許す、と言われても、自分に非はないと切腹を選ぶ利休ですが、なんとか堺に戻りたいと願いながらも余計なことを言って秀吉に手打ちにされる弟子の命乞いはするのです。
この作品を読み進むということは、過去に戻るということです。すると、不思議なことがおこる。つい先の話では亡くなっているはずの人物が現れたり、その目を通して語られずにいた真相があらわにされたりする。
例えば、先妻のたえ。のちに利休と生涯をともにする宗庵をどう見ているのか。そして、宗庵自身も心の奥に秘めてきた思いを、たえの前ではさらしています。(あからさまではないですが)
アラベスクですか。様々な思いを綴れ織にして物語は進みます。緑釉の香合も印象的な小道具ですね。秀吉と利休との確執の象徴でありながら、利休の若き日の恋の形見でもある。だからこそ、ラストが効果的です。
わたしは個人的に、利休の娘・かめと、大徳寺の古渓宗陳がすてきだと感じました。

「奇跡のリンゴ」石川拓治

2010-09-06 05:09:03 | 産業
よく本屋で平積みになっていましたよね。ずっと気になっていたのですが。ノンフィクションものが好きなIちゃんが、感想文に書いてきたので読んでみました。
そしたら、おもしろいの。いやー、無農薬で林檎を育てたいという壮大な夢をもっているわけですから、並大抵の苦労ではないだろうと思ってはいたのですよ。でも、八年も成果が出ないなんて。年頃の娘さんたちを抱えながらどれほどの思いでやってきたのか。そう思うとなんだかしんみりしてしまいますよね。
おそらく木村さんの語りが、さらっとしていて明るいのでしょう。苦労話なのに、じっとりしてないのです。道半ばで自殺しようと思うパーツもあるのですよ。でも、そこでの発見がまさに起死回生。林檎づくりに光明が見えてくるのでした。
「奇跡のリンゴ 『絶対不可能』を覆した農家木村秋則の記録」(幻冬舎)。監修は、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班。著者は石川拓治。聞き書きを中心とした取材で書かれた本です。なんと、この本の執筆も木村さんの林檎畑で行われたそうですよ。
ただ農薬をやめることが、林檎を育てるわけではない。木を丈夫にするには、生態系のことを無視するわけにはいかない。
方舟にも例えられるこの畑、並の林檎畑ではありません。雑草が生い茂り、蜂や蛾が飛び回り、害虫も益虫もいる。台風がきても実が落ちなかったという頑丈な木。それは、つい数年前まで今にも枯れそうな木だったのです。花は秋に狂い咲き、そのために春は咲きません。葉はすぐ落ちてしまう。もちろん、実はなりません。
試行錯誤を繰り返し、今では無農薬栽培の第一人者として各地で講演や指導をも行っているという木村さん。無農薬林檎の夢にこだわり、農業機材を手放し、畑まで二時間かけて歩いたそうです。
わたしも農家(兼業)の娘。あれこれと手伝いをさせられてきました。さすがに農薬散布まではやらされませんでしたが、独自のえごったい感触が、まかれたあとは舌のあたりに残るので、結構辛いです。
だから、なんというか、木村さんの決断はすばらしいけど、そういう畑を作るのは勇気がいるだろうな、と思うのです。
草刈りもしない。害虫駆除もしない。荒れた畑。一見そんなふうに見えるでしょう。でも、独自の生態系の中で、林檎は力強く生きる。
そうだと予測できるとしても、これは一種の賭けです。まあ、それまでの経緯もかなりの大博打ではありますが。
植物が、人間が、生きるということ。自然の摂理によって生かされるということ。
本来の味をもった林檎、どんな味なのでしょう。食べたいですね。
木村さんが、無農薬野菜を広めたいと考えて価格を抑えるべきだと考えるのも、納得させられます。
わたしが子供のころ、もっとトマトはどっしりした味だったような気がします。今もトマトはみずみずしいものをもいできて(または完熟させて)食べていますが、あの味ではないような気がするのは、わたしの郷愁のせいでしょうか。

「卒業ホームラン」重松清

2010-09-05 06:23:39 | 文芸・エンターテイメント
そんな具合についつい重松作品を歪んだ目で見つめてしまうわたしなのですが、中学校の教科書には重松清「卒業ホームラン」が収録されています。
この抄録の仕方がとにかく嫌な感じで、わたしはとりあえずオリジナルを一通り読ませることにはしています。というのも、このチームがどういう経緯で結成されたのか、ということがまるっきり省略されていて、これが徹夫にとっても最後の試合なのだということすら書かれていないのです。そういうことがわからないままこの作品を読むと、これのどこがいいのかさっぱりわかりません。だって、一生懸命頑張っている息子の智を卒業試合にすら出してやらないんだよ。それなのに、「野球好きだもん」といわれてすっきりして、反抗期の娘(智の姉)に今なら何か伝えられるかも、とか、家に帰ってくるのがホームインとか、言い出す父親、どうなの?
普通の生徒は、教科書に書いてある作品は肯定的に読みますが、ある生徒が「結局徹夫の自己満足である」という書評を書いてきて(笑)。言われてみれば、これがいちいちごもっとも。
だって智は最初から最後まで変わりませんからね。まじめに練習しているのに試合には出られず、しかも父親が監督。家でもう少し教えてやればいいじゃんよ! と言いたくなるほどです。しかも、中学校でも野球を続けたいという息子に、はっきりいって三年間球拾いかも知れないぞなんて言う。(その前にはもっと他愛のない台詞なのに、ひどい言い方をしたと反省する場面などもあるのですが、ここでは自分の感動に酔っているのか全くなし)
わたしも同年代としてどうなのか、という見方をしてみますが、いくら下手でも一度も試合に出さないのはいかがなものかと。
でも、授業をするのは嫌いではありません。多様な読み方ができる教材だと思います。最終的に書評を書いて回し読みし、コメントを付け合うのですが、智を出さないことについていろいろな意見が出る。監督としての立場を理解する子も多いです。「卒業ホームラン」というタイトルの解釈も、何パターンか出てきます。中には佳枝が「ホームラン!」と叫ぶシーンがよかったという子もいます。文中で智は否定的なんですけどね。でも、一人ひとりが作品に没頭して書いたのがわかるので、おもしろいですよ。

「青い鳥」その2

2010-09-04 06:07:05 | 文芸・エンターテイメント
知子は、中学校の体質に疑問を覚え、それがもとで学校での発声ができなくなった子。不満ばかり抱えています。
一人称ですから、かなり内語は発達してることがわかります。それでも、日記には一言二言しか書かない。そのくせ、村内先生以外の先生は、「ハンコを押すだけ」の人もいると思っている。
だいたい、中三の担任に、二学期半ばで産休をとる先生をつけないでしょうよ。
おもしろくなかったのかと聞かれれば、そうではなかったと思います。ただ、しっくりしない。
てっちゃんは、村内先生が住所や家族について教えてくれなかったといいます。これも寓意性をもちたいがゆえでしょう。しかし、「進路は北へ」のリョーコは、年賀状の返事をもらっています。
彼は特別の教師なのだと森先生(リョーコの担任)は言います。いろんな学校をまわり、「たいせつなこと」を伝える。寄り添いが必要な子のために。
妖精や山下清に例えましたが、もしかすると「水戸黄門」かもしれません。世直しの旅が任務。でも、彼がそういう役割を背負うことは小数の人しか知らないのかも。
わたしは自分のことを「先生」と呼ぶ人が好きになれません。だから、ものすごい偏見でこの小説を読んでいることは否定しません。感動的な作品だとは思います。ただ、どうしてもざらざらしたものが残る。
わたしには村内先生のような行動はできない。そう思います。どうしたらいいのかわからなくなって、時間が過ぎるのを待つのでしょう。彼らの孤独に気づかないかもしれない。
物語を素直に受け取れないわたしです。

「青い鳥」重松清 その1

2010-09-03 05:38:02 | 文芸・エンターテイメント
これは、寓話なんですよね。だから、リアリティがないなんてことを言っても、相手にされないでしょう。村内先生はわたしにとっては「妖精さん」だし、もう少し譲歩するとすれば、「山下清」です。あ、清つながり。重松清「青い鳥」(新潮社)。文庫を図書室に入れましたが、わたしは結局単行本で読みました。
わたしは重松が、苦手なのだと思います。読み終わると非常にざらざらする。そして、いらいらする。胸に刺が残るような気がします。初期に読んだ作品は結構好きだったんですけど。
amazonには星五つ、四十ものレビューが寄せられているところをみると、好評なのでしょう。いや、わたしだっていい話なんだなとは思います。自分が臍曲がりなんだろうとも。
でも、教師って、なんだろう、と考えてしまう。
こういうドラマで、教師はヒューマニズムの部分がクローズアップされて描かれることに、わたしは疑問を感じるのです。
人情は必要です。孤独を感じる生徒の心に寄り添うのは、いい先生だとわたしも思います。だけど、教師はやっぱり授業が大事なんじゃないの? とも、思ってしまうのです。
授業の様子を描くドラマはほとんど見かけません。この小説では村内先生の授業はわかりにくいと、何人もの生徒が言います。もちろん、敵役的な役割の子たちで、彼に寄り添ってもらえた子たちは、プリントや板書で理解しやすく工夫されていたと語りますが。
村内先生は国語の教師です。吃音がひどくて、タ行やザ行はかなり辛いようです。それは字面を読んでいるだけでも相当です。
どうして国語なのでしょう。他の、例えば実技教科だったら、わたしもこれほど嫌な気持ちにはならないかも知れません。
おそらく、草野心平の詩を愛好するという設定のためではないかと思うのですが、詩が好きな教師なんて国語科以外にもざらにいますよ。
プリントと板書。村内先生は、説明型の授業をしているように受け取れます。でも、それは言語が明瞭ではない人には辛い。自分に合った授業形態を模索した方がいいのでは。
国語の観点には「話す・聞く」があります。だから、話し方の技術も教えなくてはならないのです。村内先生は「たいせつなこと」しか話さないのだそうですが、そのために、おそらく、吃音という設定になったのだと考えます。
でも授業って大事だよね。わたしは範読にも非常にこだわって生きているのですが、現代には朗読CDというものもあることですし、そういうものでカバーすることは可能でしょう。
ただ、彼は国語教育のために教師をしているのではない、という点に、わたしはひっかかりを受けるのです。
そりゃあ、「みんな」の中には入れない孤独を感じる子にとって、例え一瞬でも寄り添ってくれる特別な先生がいることは励みになるでしょう。
ただ、「カッコウの卵」のてっちゃんが言うように、村内先生と巡り会った子がみんな教師になっているとは、とても考えられない。だって、彼らは「みんな」に傷ついているのです。教師は、その「みんな」を相手にする仕事だと思うのです。だから、そういう子が教師になるのは、かえって辛いような気がする。うーん、例えば「ハンカチ」の知子が、将来そういう仕事を選ぶと思いますか?
続きます。

「まよわずいらっしゃい」斉藤洋

2010-09-02 05:18:49 | YA・児童書
で、出たァ!
斉藤洋「まよわずいらっしゃい」(偕成社)。「七つの怪談」の三冊めが出ました。またいつか出るのかなァと思っていた矢先だったのでうれしかったのですが、その日は「花咲ける青少年」を一気に買ったので諦め、次の日あらためて買いに行きました。
出だしは「口さけ女」。小学生の隆司くんがお父さんに聞いてきた話です。
一世を風靡しましたよね。はじめにこの怪談を聞いたとき、わたしも小学生でしたから、「口裂け女が町内の○○公園にいた」と聞いてドキドキしたものです。○○は祖父の勤務先の近くだったので心配したり。
でも、あっという間に全国展開したので、こんな田舎まで来るわけないからと、それほど怖くはなくなりました。
「ポマード」「べっこうあめ」、ありましたねー。でも、隆司くんの話していた車に乗って怪談現場に行くパターンは初めて聞きます。怖い。この作品集でいちばん怖いかもしれない。
基本的に「七つの怪談」シリーズは、それほど怖い物語ではないと思うのですが、名手斉藤洋ですからね。ふっと背中に忍びこむような怖さがある。
9時になると動き出すエレベーターの話や、人力車に乗っている芸者さんの話も印象に残ります。遊園地でジェットコースターに乗る話はコミカルでした。
でも、なんといっても今回の白眉は、「ナンバープレート」でしょう。
西戸先生のお友達の息子さんはミニカーが大好きだったので、遊びにいくときにはプレゼントしていました。充実したコレクションの中で、どれがいちばん好きなのかと聞かれると、優劣はつけられないとのこと。
その彼が、病気が原因で亡くなります。一年後、西戸先生が雨の夜にひとり帰り道を歩いていると、銀色のスポーツカーが近づいてきます。扉が開いて、子供の声が聞こえるのです。
「おじさん、西戸のおじさん。送っていくから、乗りなよ」
ナンバープレートは、西戸先生自身が、彼の誕生日に贈ったミニカーであることを示していました。小学校三年生のときに。
じんわりと、悲しみが残る物語です。
三冊めともなると、西戸先生や大学生たちとも、なんだか「面識」ができたような気がしてきます。冷し中華もそろそろ終わりでしょうかね。次の本も楽しみです。隆司くんの手紙は、どこに届くのでしょうかね。