くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

高橋克彦講演会

2010-02-22 05:45:44 | 〈企画〉
勝者が歴史を作る。敗者には、どんな申し開きもできない。さらに、歴史書に本当のことが書いてあるとは限らない。
高橋克彦氏の講演会に行ってきました。冷静に考えたらこの十年ほど読んでいないことに気づいたのですが、浮世絵もの、SFもの、自伝(小説家になるためにはどうするか、という本。乱歩賞は傾向と対策を練って応募したといっていたような)など、若い頃は結構読みました。「総門谷」のラストにはぶっ飛びましたが……さらに「総門谷R」にも驚きましたが。一番好きなのは、あれですね。「雨の会」の短編集に載っていた、「ゆきなだれ」?(タイトルが思い出せない)
今回は、「天を衝く」の主人公九戸政實のことについてのお話、というご案内だったのですが、メインとしては、自分はなぜ東北の歴史について書き続けるのか、ということでした。
ある伝奇小説を書いていたころ(多分「総門谷」)京都の山の中で迷ったことがあったが、そんな場所にも住んでいる人があり、歴史があり、それに対する自信がある。しかし、自分はというと、生まれた土地の歴史を知らない。東京にコンプレックスをもっていたので田舎に引っ込んでいるけれど、この地が好きというのでもない。
そんななか、せめて向き合っていかないと、と考えた彼は、自分にとっての郷里のイメージを小説に反映させることにします。これが「記憶」のシリーズですね。
それまで、東北地方の歴史に関わる物語を紡ぐことに、出版界は難色を示していたのですが、作者自身の追憶だからストップしにくい、しかもこれで直木賞を受賞。
追い風のようにNHKから大河ドラマ原作の仕事が舞い込みます。(「炎立つ」ですね。)
そこで安倍氏を中心とした作品にしようと思い立つ。でも、資料を探したらほんのわずかな記述しかない(原稿用紙十枚程度、だそう)。そこで、地誌の記事から題材を求めることはできないかと、広く呼びかけたところたくさんの伝承が集まり、それを一つ一つ整理していくと、ぴったりと重なっていくことに気がついたのだそうです。つまり、ある町でこのように過ごして追われて出て行った次の町でこんなことがあり、それからまた次の町で……というように、彼らの足跡に矛盾がない。
敗者の歴史は書き消され、勝者の視点だけが残るもの。伝承=真実とはいえないけれど、信憑性はある。あ、ちなみに「義経北行伝説」も同様の理由で支持しているそうです(笑)。
それから北条時宗のことを書くときに「吾妻鏡」をあたったところ、「元寇」に関する記述が余りにも少ないことに気づく。これは、当時元が攻めてくる危険性が残っていたためではないか。歴史書に作戦についてのあれこれを書き記してしまうと、敵に読まれる可能性が出てしまう。それで保留したのでは、と推理したそうです。
でも、時宗にとって最大の功績を残さないことになってしまう。おそらく天才的な惣領だった彼のことを何か残したい。そういう思いが、誕生したときに畳三つ分もの大きな火の玉が上空を飛び回ったという記述として残ったのだろう。則ち、天もこの誕生を喜んでいるのだ、というように。
白熱の余り、九戸政實については最後に十五分くらい(笑)。
彼は負けを知らない武将だった。おそらく、南部氏との確執がなければ、東北全土を統一できたのではないか。資料の話も出てきましたが、わたしがいちばん衝撃をうけたのは、葛西氏へのこだわりについてでした。奥州(ただし伊達家より北方)の北と南を支配する武将として。
その葛西の支配する地で首を落とされた政實。彼の魂はおそらく、感慨を覚えているに違いない、と。
わたしは葛西の家来衆の家に生まれたので、遠い過去と現在とが、やっぱり何かつながっているような、不思議な感覚を覚えたのです。歴史は紙の上だけのものではない。
葛西一門では「葛西勝ち」を意味して敷地内にサイカチの木を植えていました。もうその木はないですが、わたしが幼いころに拾ったサイカチの実のことは、記憶に今も鮮やかです。
でも、こういう地方の歴史は若い人たちに伝承されていくのでしょうか。少し不安です。

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