くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「容疑者Xの献身」東野圭吾

2010-02-17 05:45:46 | ミステリ・サスペンス・ホラー
はーっ……、読み終わりました。苦節四年、図書館で単行本を二回も借りて、結局石神の通勤シーンから先に進めなかったわたし。今回は一気に読めて、肩の荷を下ろしたような感じです。「容疑者Xの献身」(文春文庫)。夫に借りました。
昨日も書きましたが、先日映画版をテレビで見たのです。湯川は福山雅治、石神は堤真一です。映画との差異も感じながら、おもしろく読めました。
わたしはあまり映像文化に興味がないので、基本的にドラマなどは見ないのですが、たまに見て気になると、原作にあたってみたくなります。逆に自分の好きな作品のドラマ化したものは積極的には見ませんね。
ところで、映画の小道具に文句があります。石神が三月十日に年休を取ったという「勤怠表」が出てきますが、休みの部分が活字で記入されていて、残りに出勤を表すはんこが押してあるのですが。なぜ「活字」なのか、腑に落ちないのですが。
勤怠表というのは、つまり出勤簿ですよね。毎日はんこをつくのだと思うのです。一ヶ月単位ではなく、数ヶ月分がまとまっていたので、多分一年間使うのですよね。
その中で「活字」で「午前中」なんて示されるのは納得いきません。こういうのは手書きでなければ。(後から貼りつけて訂正できるということになりますから)
それとも東京の私立学校(石神の勤務校)はそういう感じのシステムを採用しているのでしょうか。

先日、ある読書指導のシンポジウムに参加したのですが、発表された方が生徒の読書傾向を分類して、「良書を読めるように導くのが教師の役目」とおっしゃったのです……。
その分野は、「映画・ドラマ化された作品」「文芸」「文芸に準ずるもの」「携帯小説など」というもの。でも、この分類はどこかおかしい。同じジャンルで語られていないからです。
映画やドラマになった作品が、読書として食いつきやすいということを話してらしたのですが、えーと、それはいけないことなのでしょうか。
本を読むとき、わたしたちは頭の中で映像を組み立てます。本を読むのに抵抗のある子は、その作業に慣れていない。映像化したものをなぞるのは、確かに「安易」かもしれないけど、語彙のない状態でそれこそ映画のように、人物の背景まで見通すことは不可能です。映像を見て興味をもち、本を読んでみる。いいと思うけどなあ。だいたい、映像だけではわからないことも原作を読むとわかることがあるではないですか。

当然のように、わたしの脳内キャスティングは堤真一です。「ずんぐりした体型」とか「頭髪が薄い」なんてのは全部無視!(笑)
でも、草薙は北村一輝じゃないし、柴咲コウも出てきません。要するに、自分の好きなイメージで読めばよろしいのです。テストに出るわけじゃないし。
「容疑者X」を読んでみて、東野圭吾はここでいったんこのシリーズに終止符を打とうとしたのではないかと思いました。「ガリレオの苦悩」とは若干タッチが違う、というか。むしろ、あらためて湯川を捜査に協力させるために工夫した作品集だったのだなと。
天才と天才との対決。しかもまたとない好敵手として、学生時代の湯川が認めた相手です。石神の献身的な愛情は、完璧な論理とともに組み立てられたアリバイ工作として機能し、おそらく警察にも気づかれなかったことでしょう。湯川がいなければ。
自分の推理によって得た結論が、得難い友人を破滅させる、湯川にはつらい結末です。でも、靖子に真実を知らせないまま、彼を行かせてはなはないと感じた湯川の思いは正しいと、わたしは思います。
最後の石神の涙。これは様々な解釈ができる場面ですね。堤さんの解釈を映画で見た人は、それに固執するでしょうか。そうでない読み方もできる、ということに気づいたとき、本を読むことになにがしかの思いが残る。わたしはそう思うのです。(当然ですが、堤さんの演技に不満があるわけじゃないですよ。念のため)