くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「猫を抱いて象と泳ぐ」小川洋子

2010-01-09 02:11:36 | 文芸・エンターテイメント
いろいろなブックガイドで好評なので、読んでみました。小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」(文藝春秋)。
天才的なチェスの才能をもつ主人公の話、とは聞いていたのですが、もちろんそれだけに留まる話ではありません。
時代も国籍も曖昧に描かれていますが、妙に身近な印象をもって物語は展開します。巧妙に登場人物の名前は伏せられ、リトル・アリョーヒン、マスター、ミイラ、老婆令嬢というように、ニックネームで紹介されます。
生まれたとき唇がくっついていて産声をあげられなかった彼は、医者によってメスを入れられ、すねの皮膚を移植されます。だから、唇には毛が生えているのです。さらに、ある事情によって彼は自分の成長を十一歳で止めてしまいます。
そして、チェスをさす自動人形を動かすという必要上、この体は役に立ち、心とアンバランスな体を持ちながら彼は生きていくのです。
自動人形。松田道弘さんの「奇術のたのしみ」に詳しく書いてあったので、イメージしやすかったと思います。タイトルの「猫を抱いて象と泳ぐ」は、彼、リトル・アリョーヒンのチェスの在り方を端的に表したものだといえるでしょう。
別の見方をすれば、リトル・アリョーヒンは「見世物」としての生涯を送ってきたともいえるでしょう。彼自身がチェス盤とともに写る写真は一枚しかなく、人形と同一視された呼び名を与えられて生きています。人形が修理されている間は人前に出ることもできない。
彼が一手を読み違えて、初恋の少女・ミイラと訣れることになる場面は切ないのです。彼女は人間チェスとはどういうもなのか予め知っていたのでしょうし、真相を彼に伝えたくはなかった。けれど、彼は自分にとって最良の一手と信じて、彼女を「犠牲」にしてしまうのです。
彼女は傷ついたでしょう。でも、そのことを知って傷ついた彼の痛みを感じる方が、辛かったのだと思います。だから、何でもないことのように振る舞いますが、彼は、自分のやってきたことが、マスターの教えに背くことだったと気づきます。気づいてしまったら、もうここには、いられないでしょう。
彼はチェス好きの人々が住まう老人ホームに住みつきます。安らかな日々に包まれて生活する彼のもとに、愛しいミイラからの手紙が届くのです。
ミイラは棋譜を綴ります。ともにいた日、リトル・アリョーヒンの戦績を残したように。美しい文字で、一手を記してくるのです。互いに想い合いながら、もどかしいほど二人は語りません。けれど、その紙の上のチェスが終わったとき……。
読み終わって、ミイラの悲しいほどの愛情が、波のようにひたひたと打ち寄せるのを感じました。彼女の探し出した棋譜は、自分の手跡ではないのです。それでも、そうせずにはいられない想いが、美しくかなしい。
メルヘンのような色合いで、淡々と語られる、極上の物語でした。
彼らが大切な人物の代償としての一品を、大切にしていることも、形を変えながら続くような気がしました。